【依存症】断酒日数は「競う」ものではなく「祝う」もの
断酒会で断酒日数を自慢する、あるいは年数が長いからとマウントしようとする人がたまにいます。「私は100日以上断酒できているから〇〇さんより上だ」「2年断酒もできていないのに断酒を語るな」本当にそうでしょうか?そしてそれは果たして重要なことでしょうか?
アルコール依存症からの回復・社会福祉・家族との日々・時々キャンプ な ソーシャルワーカー ちあき の情報発信ブログ。
断酒会で断酒日数を自慢する、あるいは年数が長いからとマウントしようとする人がたまにいます。「私は100日以上断酒できているから〇〇さんより上だ」「2年断酒もできていないのに断酒を語るな」本当にそうでしょうか?そしてそれは果たして重要なことでしょうか?
私はよく、自分という存在に、固執しがちです。固執して、苦しんできました。「私」「俺」「僕」という一人称に。俺が○○だからすごい。私が○○をしてあげた。僕は○○だからダメだ。しかし、インドの大乗仏教に位置する唯識思想では、『「自己」は、あるようでなく、ないようである。』という考え方が存在するのです。
「お前がそうぐちぐちいうから飲むんだ!」とか言って、お酒を抱え込んでいませんか?そのうち、気が付いた時にはトミーのお父さんみたいになっていますよ?孫にも会わせてもらえない、寂しく「1000日たったんだと、信じてくれ」と誰も聞いてくれない独り言をつぶやくだけの人生を送ることになりたくないなら、いま、ここで、立ち上がるべきなのです。
丸山穂高議員の言動に端を発した辞職勧告案が立憲民主党や日本維新の会など野党6党派から提出されました。日本維新の会代表の松井一郎大阪市長は15日、日本記者クラブで会見し、戦争による北方領土返還を元島民に質問し、維新から除名された丸山穂高衆院議員について「ことの重大さに早く気付いて、潔く身を処すべきだ」と述べ、重ねて議員辞職を促したとのことです。この騒動を見ていて、日本の依存症に対する理解の無さについてちょっと思うところがあり、まとめてみました。
さて、私はASD(自閉症スペクトラム)という発達障害で、ADHD(注意欠陥・多動性障害)も併存しているタイプです。そんな私は正論に対するこだわりが強い傾向にあり、よく会議やディスカッションになると論理的に正しいかどうか、社会的に意義があるかどうか、という視点で考えてしまい、よく他人の主張や感情とぶつかり、言っちゃえばすぐ揉めます。なんでなんだろう…?と思っていた矢先、Twitterで素晴らしいサイトに出会いました。
妻によく「めんどくせー!笑」と突っ込まれる私はASD(自閉スペクトラム症)+ADHD(注意欠陥・多動症)です。 俗に言う「空気を読む」「行間を読む」がすごく下手です。 そんな人はよく社会に出て「使えないやつ」と言われて馬鹿にされます。 本当にそうでしょうか?という話です。
GWも残すところあと少しですね。世の中的には長い休みですよねー。10連休とかすごすぎ!今日は断酒例会で酒を飲みまくっていた時の長期連休の話になり、自分自身を振り返っていました。
連休が続くと、時間がある→いろいろ考えてしまう→マイナス思考に陥る→飲酒欲求↑という負のサイクルで、どうしてもスリップ(再飲酒)しやすくなります。家族がいる場合は抑止力になってくれますが、独りで断酒している方などは、誰も見ていないから、という悪魔のささやきが聞こえてきてしまいます。そんなときに、おすすめの漫画があるので、今日は紹介させてください。
突然ですが、「リーガル・ハイ」というドラマをご存知でしょうか?私はこのドラマが「結婚できない男」という阿部寛主演のドラマと同じくらい好きで、たまに録画したのを見返したりしています。なぜ好きか?私に考え方がすごく似ているからです。承認欲求や不安や怒りや恐れで、生き方がぶれそうになったとき、主人公である「古美門研介」の言葉は、日和った腑抜けの私の胸を穿ちます。今日はそんなお話。
自分が嫌いで凹んでます。人と接すれば接するほど、私は私が嫌いになるようです。今日はそんな暗い話です。