【依存症】禅・仏教に学ぶ 自分を責めなくてもいい理由

こんにちは、 ちあき です。

私はよく、自分という存在に、固執しがちです。固執して、苦しんできました。

「私」「俺」「僕」という一人称に。

俺が○○だからすごい。

私が○○をしてあげた。

僕は○○だからダメだ。

しかし、インドの大乗仏教に位置する唯識思想では、

『「自己」は、あるようでなく、ないようである。』

という考え方が存在するのです。

アイタタ!やべーやつじゃんこいつ! ((((;゚Д゚)))))))

などと、まぁ、ドン引きしないで、まずは読んでみてください。

今日はそんなお話です。

我々が慣れ親しんでいる西洋哲学がすべでてはない

デカルトの有名な言葉「我思う、故に我あり」が示すように、

有るか無いか。

0か1か。

白か黒か。

YESかNOか。

そういう西洋哲学的な思想方法に慣れている私たちからすると

先に挙げた唯識思想を「何を曖昧なことを…ふぅ(´Д` )」と感じるでしょう?

私もそう思いました。それで、当たり前だと思います。

しかし、その西洋哲学的思想も、インドの大乗仏教に位置する唯識思想も、『考え方の一つ』。片方からの視点では、お互いにどちらも是であり、どちらも非であるといえます。

つまり、人には人の考え方があるんだから、「どちらも許容する大らかさ」を持ってもう一度見てみてもいいじゃないか、と改めて内容を整理してみたのです。

唯識思想で考える「自分」の概念

「自分」という存在は、大きく分けるならば、考えをめぐらし、感じ、動き、

熱くも、冷たくもなる「心」と、何十億もの小さな細胞でできた「身体」の

集合体であり、『ひとつでありながら、ひとつではない』という解釈には一先ず納得できそうです。

例えば、真っ白な、どこまでも何もない、音も匂いも時間すらない空間があったとして、

私は「自分」が『確かに「ある」』と確信できるか、自信は持てません。

例えば、屈強な軍人たちの中では

「自分」はひ弱な存在にもなるし、

反対に本の虫たちの中では、

「自分」は逞ましい存在となるように、

何かがあって、「対象に反響」することで、私たちは「自分」を初めて意味づけできています。

物理学において、「圧力」をかけると、「反発する力」として「斥力」が生まれますが、まさに、「自分」とは「斥力」のようなものと仮定しているのが唯識思想です。

(「圧力」がなければ無いものになるが、「圧力」の存在があれば、「確かに有る」ものでもある。)

そこから考えて、自分で自分に下す「自己評価」を確認すると、それが『実に不正確なもの』というのがわかります。

ダメなやつ、

勇気がない、

失敗ばかり、

弱い…

いったいなぜそう言い切れるのか?

自己評価のまえに、自分すら有るようで無く、無いようで有る、曖昧な存在。

その存在を正当に評価することは極めて困難です。

己の心が決める世界観 アドラー心理学的視点

つまり、決めつけているのは、己の心です。

脳神経科学の分野においても、イメージングすることでの神経伝達物質による影響が発見されて研究されています。

例えば重要な顧客に対して1回きりのプレゼン大会があるサラリーマン男性Aさんを仮定します。

「緊張する、私なんかうまくいかない、ダメだ」と脳が認識しただけで、神経伝達物質のひとつの「ノルアドレナリン」が過剰に分泌され身体に作用して、筋肉を緊張させ、血圧を上昇させ、イメージの通りに大舞台で、見事に「ダメな自分」を実現させようとします。

落ち着いた、成功できるイメージを持っていると体は、セロトニンという物質が分泌しており、「自分が話すことは相手に伝わる」「バランスよく状況を認識して話せる」という「イメージ通りの成功する自分」を実現させようとします。

プレゼンするAさんの身体的な状況やスキルは全く同じ状態なのに、全く逆の未来を、心が左右して実現させます。

この部分は、西洋でありながら「あなたはあなたが望む通りの現実を創り出している。」とするちょっと前に流行った「アドラー心理学」の解釈にも似ています。

アディクションに苦しむ自分を望んでると答える人はいないだろうが、実は自らが望んでアディクションに飛び込んでいるのだ、というのが、アルコール依存症において「アドラー心理学的立ち位置から見た場合のとらえ方といえると思います。

アディクションに陥ることにより、以下の目的を果たそうと無意識に動いていたのかもしれません。

「生き辛さに向き合わずに済む」

「家族に向き合わずに済む」

「仕事での無力感に向き合わずに済む」

「誰も構ってくれない孤独と向き合わずに済む」

みな、自分の願望を叶えるためにあえてアディクトになった、そう歩んできたのは隠れた己の意思だ と、アドラー心理学では考えるからです。

唯一絶対の正解や正義など存在しない

以上のことから、その自己完結的な思考が正しいか間違っているかは抜きにしても、心が「自分」をどう定義するかは非常に影響力が強いと言わざるを得ません。

ただ一つ言える確かなことは、「自分」だと信じる心と身体が、「識」することにより、世界は今のところ、この瞬間瞬間には、輪郭を成しているということです。

だから、その見え方感じ方捉え方は、人によっても状況によっても違って当たり前で、むしろ「同じでなければならない」という同族意識、「こうでなければならない」という常識、これらに全方位からみても、全て正しいことは、実は一つもないのだろう、ということです。

「確からしい」と特定多数の人が認識している「常識」や「当たり前」は、実は、白でも黒でもありません。

「常識」や「当たり前」から少し外れていたから、なんだと言うのでしょう。

それが悪か善か、正しいか間違いか、天にしかわからない。

天にもわからないかもしれない。

だから、「こうなんじゃないかな」と思ったなら、とりあえず、やってみるしかありません。

やってみて、「あれ?こうなったか」とか「やっぱりこうした方が楽しいな」とか、挫折や失敗を繰り返して、物事は道理に従い、なるようになっていくものなのです。

心配したってしかたない。

全てあやふやでも、完璧に確かなことなどひとつもなくても、それで、良いのです。

だって、そうでしか、ないのだから。

この歩みは、頼りないように見えて白と黒のあいだを渡り歩く力強いもの、これがすなわち、「中道(中庸)」です。

中る(あたる)道と書きます。

心に中る=心中。アルコールに中る=アル中。

断酒道にも、「中道」の精神が共通していると私は考えています。

だから、自分を責めたり思い悩むことはない

ここまでくるとお分かりいただけたと思いますが、実は自分に関する優越感や劣等感など、実にあやふやで気にしなくていい、どうでもいいことだ、ということです。

「常識」や「当たり前」や、「成功」や「失敗」も、全てあやふやです。

なるようになる。明日のことなど、自分の全てなど、完璧にはわからない。

心配したって仕方ない。

だから、自分を責めなくていい。

心が決めたことを、腹くくってやればいい。

心がいいと思うことを、唯唯、やればいい。

そう思うと、なんだか肩の力が抜けて楽になってきませんか?

存在しているものを許容するごとに、「自分」を映す鏡が広がっていくような感覚。

それは「斥力」に例えられる「自分」が、神経が、世界が、価値が、広がっていくことなのだと思います。

だから、私からみて『至った』人たちは皆、『皆さまに、生かされている』と表現するのだろうな、と思います。

彼らは、他人は自分の一部と考えているのです。

だから、そのままで生きていて安心できるのです。

なぜなら、他人といても、他人すら、「自分」の範疇だから。

だから、断酒会にいくと私たちは安心するんだと思います。

断酒会のメンバーはみな、どんな状況にあっても、どんなにダメでも、何度失敗したとしても、もう一人の自分だと思えるからです。

だから、マザーテレサのように、認められることを全く目的としない慈愛の心を持つ人の生き方は、どんなときも幸せなんだろうと思います。

他人のことを真剣に応援できたり、みんなに貢献するために頑張れたりしますが、それは、みんなに対してであると同時に、みんなという「自分」に対してでもあるから。

「自分」ごとだから、夢が叶ったら自分のことのように嬉しいし、悲しいことがあったら、共に涙を流して悲しむし、誰かと誰かが争っていたら、心が痛い。

宮沢賢治の、アメニモマケズが心に響くのは、おそらく「真理」に限りなく近い「慈愛」という概念が文章化されているからなんじゃないかと思っています。

『三輪清浄の不分別智』という考え方だそうです。

自分 他人 その間での行為 を、分けない。

AがBにしてあげたとか、自利と他利を分別したりしない。

優劣をつけたりしない。

上下関係をつけたりしない。

自分が他人にしたこと、他人が自分にしたことは、自利であり、他利でもある。

そのような認識に基づいて「慈愛」にただ誠実に生きることで、自分は清く在ることができ、他者にも温かさを感じてもらえるのではないでしょうか。

私にとっての幸せは、そのような人であること。

やっと私の幸せはここに輪郭を顕わしたと言えます。ここまで長かった…。

長文にお付き合いいただきありがとうございました。

では、また!

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