【依存症】巧く生きるより、たいじなこと

蝉が鳴いている。頭の芯にじんわりと滲むような、力強い声で。

夏がきた。

「今ココを集中して生きる」

というのは、簡単なようでいて、実に難しい。

いつも混じりっ気なく今のど真ん中でいられることが理想だけど、考えている時点で既に感じたその瞬間からは遠ざかりはじめている。文字にしたときには、もうかなり遅れている。

シャボン玉の表面の模様が極彩色に輝いて常に一定ではないように、私たちの心理や在り方は一瞬たりとも同じではない。

「人としてどうあるか」ということの究明は、結果的には自分の内面との語り合いに帰ってくるのだが、外に対して意識が開かれていなければ、今ここ自体を感じきることができないから、帰ってくるためには、逆説的に外界に開かれた精神でもって世の中と境界線を持たなくてはならない。夏がきたのに冷房が効いた部屋で耳を塞いでいては、夏の暑さや蝉の命の力強さをちゃんと感じることはできないように。

私はほんとうに『巧く生きる』ということの不得手さに関しては一級品なんだよな、と自覚している。

今まではその不器用さを恥じてきた。

狡く巧く生きる人をたくさん見てきて「私はなぜあんな風にできないのだろう」と自分以外の誰かと私を比べては、妬ましく思ってきた。

しかし最近になって、「巧く生きる必要」があるのかといえば、そうではないと感じるようになった。

私が巧く生きることに嫉妬したのは、とにかく生きるのが苦しかったからだ。

こんなにしんどいことをもうこれ以上やりたくない。もしかしてみんなもっと楽をしているんじゃないか。ズルい。そう考えていた。

そうやっかんで眺める隣の芝生は、実に青々としていて、私はその思いからどうしても目を背けられず、捨てたくても捨てられないでいた。

しかし、必ずしも巧く生きていることは、本質的に良いわけでは無いのでないかしら、と考えるようになる。

私は間違っていると言われたとしても、自分で味わって飲み下す実感を得ないでは、何かを諦めることはできない。

それが大事であればあるほど、だ。

だから、巧く生きていけないということは、私が触れる存在に対して深い愛情を持っているという証明でもあるような気がする。

傷はたくさんできるだろう。

でも、実りある人生は、巧く行きた人生よりずっと魅力的じゃないだろうか。

巧くソツなく、私は酷暑の夏も涼しい顔をして生きていきたいのだと勘違いしていたけど、本当に生きたい人生はそうじゃないんじゃないだろうか。

そう気づかせてくれるのは、いつも『同じように、真剣に人生に向き合って生きている人』である。

誤魔化したり言い訳をしたり嘘をついたり、そんなことはいくらでもできるのに、それをしないで、見たくない現実に向き合い、傷を負う覚悟で前を見ることをやめない人を、私は美しいと思う。

誰にも責任を取らせず、見たくないものを見ず、みんな仲良しで暮らしていけば楽でしょう。しかしもし誇りある生き方を取り戻したいのなら、見たくない現実を見なければならない。深い傷を負う覚悟で前に進まなければならない。闘うということはそういうことだ。

出所:『リーガル・ハイ2』古美門研介のセリフから引用

そういう尊敬すべき人に出会い、対話ができるからこそ、私は私自身を尊敬することができる。

独りではできなかったことだ。

「独りで生きているような気になって偉そうに」と言われてきた。

そういう類の発言に対して、常に反発してきた。

「何が仲間だ、どうせ裏切るくせに恩着せがましいんだよ。」

「何がみんなのおかげで生きている、だよ。歯が浮くようなきれいごと言いやがって。きっしょ。」

「お前に何がわかんだよ?同じような孤独のなかで生きてきたんか?奴隷のような人生を我慢して生きてきたことあんのか?お前は俺より苦労してんのか?そっちこそ、俺を分かった気になって偉そうなこと言ってじゃねーよ」

と返してきた。

今振り返ると、結局その指摘は、痛いところをついていたように思う。

私は独りで生きている気でいた。独りよがりだった。

それは、切り捨てられる痛みが怖くて、私はひとを心から遠ざけたから。

つまり、積極的に周囲の人々を遠ざけ孤独になろうとしたのは、私だった。

私が、孤独であろうと選択したから、私はあたりまえに独りになっていった。それなのに、「みんな俺を見捨ててひとりにするくせに…」と恨み言を言っていたように思う。

本当はさびしかった。分かり合えないことの痛みを恐れ、疲れ果てて、身を固くして怯えていたのだと思う。

変わるべきは、私のほうだった。

変えられるものは、私の行動だけだったのだから。

「私が変われば世界が変わる?んなわけねーだろ、ラリってんのか?」と思っていたけど(随分と不遜で恥ずかしい限りだが)、本当に私の行動を変える事だけが、私が知覚する世界の在り方を変える唯一の方法だったんだな、と思う。

世の中を、できるだけ感じるままに感じること。

それを自分の内的な世界観に限りなく忠実に反映しようと努力すること。

それが「誠実に世界と向き合う」ということの具体的な行動。

外界との境界線で生じる化学反応から、自分の境界線を知り、自分を形づくっている輪郭を感じる。

その試行錯誤の繰り返しによって、「私」が創りあげられているのだ。

だから、私は独りでは成り立たず、世界がそこにあり、尊敬すべき仲間と交流できるチャンスをもらっているから、「私が在ることができる」のだということだ。

私が在るために必要不可欠なものが、私には『変えられないもの』であるということは、恐怖だったし受け入れ難かった。生きていけないかもしれない、というリスクの大きさに足がすくむ思いだった。それは『変えられないもの』をコントロールしようとしているからだった。

「気に入られなければならない」

「尊敬されなければならない」

「恐れられなければならない」

「力を示さなければならない」

そういう「我執」を育ててきたのだ。

でも、そもそも。世界は私がいてもいなくてもそうで元々である。

私が否定しようと何しようと、厳然たる事実として、そういうふうに脈々と命を繋いて世界ができているのだから、もうどうしようもないことだ。「己を超えた大きな力」が、世界を動かしている。

それに、そのどうしようもない力のおかげで私は『変えられるもの』=「自分の行動」を変え続けることができるし、変えられるものを変えていく勇気を与えられている。

だから、委ねるべきをゆだねて、諦めずに前を向いて生きていくことができる。

今朝早く、犬の散歩をしていると、道端に一匹の蝉を見つけた。

道路のど真ん中で幼虫から成虫になろうと、ゆっくりと着実に羽を伸ばそうとしていた。

「何故よりにもよって道路で…」と一瞬憐れんで、「あ、これだ」と思って恥じた。

また分かったような気になっているなと思った。

この蝉は、私のようだと思った。

木で羽化すればよいものを、道路のど真ん中でやり始めてしまうし、効率よく羽化して優雅に飛び立つなんてできないで、地面で頑張っている姿は、不器用な私のようだと思う。

どんな未来が待っているかは、わからない。

私がこんなに巧く生きられないことが、他の不器用な仲間たちの力になる日が来れば、夢のようだな、と思う。

そういう嬉しい気持ちは、夏らしく爽やかで、とても好きだ。

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