【依存症】「人は生きているだけで価値がある」のは、なぜか?

こんにちは、ちあき です。

今日は久々に断酒会でした。浄化されました。やはり自助グループは良い…。マンダム。

最近、「自助グループと他の人間関係はなぜこうも違うんだろう?」と不思議に思っていました。受け容れられる話とそうでない話ってなんなんだろ?と思いながら断酒会で話を聞いていると「自己開示」がキーワードだと気づいたので、少しまとめてみました。

自己肯定感の低い私たち

私たち依存症者は、なかなか他人を信じられません。

今までありのままを受け容れてもらえなかった恨みの歴史から自己肯定感が低いのか、自分の決定や思考に自信がないから理論に頼る傾向にあります。

というか、私がそんな感じです。

他のみんなも割と著書や著名な精神科医の講演内容などを引用して、やたらと他人の話が本当に自分が納得できるものなのかどうか、を石橋を叩いて渡るように慎重に吟味します。

AC(アダルトチルドレン)などは結果を出さなくては愛されないという不安感から、親や依存関係にある他人の指示や願いに従って生きてきた人もいます。

結果、心の満たされなさを抱え、ある種の憎しみを抱え続けています。

他人の反応が気になるくせに、他人を信用できないので素直に言葉通り受け取ることに抵抗感があります。

今日も私が「このシーズンにスリップして妻に嘘を吐いたことを思い出す。今、働きながら専門学校に行っていて、知らないことを知るのはとても勉強になる」という話をしましたが、メンバーの反応は様々でした。

ある人は「私はそんなに日は経っていないが飲酒欲求もなくちゃんと働いている」と私を見ながら肩をいからせ鼻の穴を拡げて言っていました。おそらく「スリップした」という部分でマウントをとり、断酒期間の短さに対する自信の無さを隠したい心がうかがえました。

ある人は「私はスリップもせず、ほぼ毎回参加して5年間止められている」と私をチラチラ見ながら言っていました。「年数は長くスリップはしていない」という点でマウントをとりつつ、仕事をしていないという自身の焦りや不安を見て見ぬ振りしたいという心が見え隠れしていました。

事実は事実。

事実に意味を与えるのは、やはり自分自身であって、他人を信じたくても信じられないときは、私自身の心に恐れや不安があることから目を背けたいときなのだと思います。

「北風と太陽」の太陽で在るための条件

安心して接することができるひとは「自分の弱さや失敗を公表している人」だよね、という話を、今日一緒に返った断酒会の先輩と話していました。

同じように苦しんでいる「当事者」ということが分かれば、固く閉ざしていた心が開かれるのだと。

その大先輩は、ご経験をブログに書いてよいか?と打診したら、快く了承してくれたので、少し踏み込んで書いてみたいと思います。

(Kさんありがとうございます。)

Kさんはいつもご夫婦で断酒会に参加しています。

私はKさんご夫妻で断酒して20年以上(!)になるお二人に、絶望的な気持ちで参加した初の断酒会で見かけて、一筋の光明をみました。

なぜなら、Kさんは仕事ではトラブルを起こしまくり、奥さんに暴力を振るっていた、「ゴミくずのような人間」と本人をして言わしめる真っ暗闇の過去があったからです。

仕事で頭にきた棟梁を殴り倒して現場を1日で辞めたこと、

仕事先で殴り合いになって刑務所に入ったこと、

お互いに憎みあう間柄の宿敵と刃物で刺しあい、殺し殺される寸前までいったこと、

言い争いになり包丁で奥さんを刺したことがあること、

ろっ骨が折れるほど殴ったこと、

髪の毛をもって引き摺り頭皮が剥がれて血が天井まで吹いたこと、

それらのDVの酷さを見かねた近所の若い男衆に5~6人で寄ってたかってボコボコにされ死にそうになったこと。

奥さんは、

腰紐で何度も寝ているKさんを殺して自分も死のうと思ったけど手が震えてできなかったこと、

「おかえり」といっただけで殴られて顔が腫れあがり泣きながらパジャマと裸足で数キロ先の実家に逃げたこと、

知り合いの家の奥さんがアルコール依存症の旦那さんと離婚したらその数日後に自殺しているのが発見されたこと、それを聞いて離婚だけはできないと思いとどまったこと。

これらヘビーな話を爽やかに話すKさん夫婦の酒害体験を聞いて、当時離婚もあるかもしれないと思っていた妻と、何をしても酒を断てず自分の力ではどうにもならなかったことを認めざるをえない絶望感に打ちひしがれていた私は、それぞれに「もう一度がんばってみよう」と心の中で思ったのでした。

そのおかげで今があります。

「当事者」が、耳の痛い正論にたどり着くまでに、いかに苦しみ試行錯誤して、その正論にたどりついたのか、「失敗の歴史」を知ると、自分は他人から責められているのではないから、安心して聞いていいんだ、この人の話を素直に受け容れていいんだ、と自分に許可が出せる気がします。

Kさんが毎朝毎晩仕事をしながら寺に通い何年も座禅を組み続けたことや、今ご高齢になり床に臥せている奥さんが「もっとあんたが早いときに酒をやめてくれれば…」と声を押し殺して泣いている夜に、仏間でひとり悔しくて悔しくて噛んだ唇が切れて血が滲んだことを知っているから、私はKさんがどんなに厳しいことを感じて辛い事実を話されたとしても、受け容れられるかもしれない、と思います。

私は、Kさんの過去の過ちと弱さを、それを話せることを、尊敬しているから。

正論の先にすがる未来がなくては、自己肯定感が低い人は正論そのものには反発すると思います。

自己肯定感が低いまま、正論にそぐわない自分を何のよすがもなく認めるということは、今までの在り方や存在自体が否定され責められているような感覚になるので、受け容れる事は自身の死を意味するからです。だから、恐ろしくてたまらないので、なかなかできない。それは自然なことです。悪いことではない。

要するに「北風を浴びせるだけ」では、結局心が開かれず、当事者は救われないということなんだと思います。

過去の過ちや弱さを吐露する後姿は、尊敬の念で輝いて見えます。太陽の温かさに似ています。

正論だけをただ暴力的なまでにぶつける姿は暗く重く、北風を吹きつける暗雲に似ています。

太陽であることで、聞く人の心が開かれ、メッセージが伝わり、当事者に救われてほしいという祈りを実現し、生きる目的を達成することできるのではないでしょうか。

目的を見失い、手段に依存してはいけません。

人類が歴史から学び科学技術によりエビデンスを積み上げてきた論理的に正しい「正論」は、重要ではありますが、手段でしかありません。

せっかく酒を抜いたのに、今度は「強い言葉を使う」という行為に酔って依存しているのです。

他ならぬ自分と大切な人を救うための、正論であり太陽であることを忘れてはいけません。

私は正しさにこだわる北風だ、という反省

私はどうだったか?といえば、最近は北風ばかり吹かせていたのではないか、と反省しきりです。

正しいことは優しいこととイコールではない。

ここは私がもっとも反省すべきところです。

Kさんは「これは正しくないかもしれない」と苦悩しながら、定期的に手紙をくれました。

これが参考になったと断酒にまつわる新聞記事の切り抜きをくれました。

それは、自らの家庭内暴力のせいでもう子供も望めず、親兄弟もすでに死んでしまい、何も残せないと語るKさんにとって慰めのひとつだったし、過去の自分たちを見ているようで居た堪れないからついやってしまった「余計なお世話」かもしれない、とKさん自身は言います。

しかし、それがどれほど優しく勇気のある行いだったか、酒を断っている今になってようやくわかります。

もらい始めた当時は、「なんでこんなの送ってくるんだろう、飲んでいると疑っているのかな?」とか「自分が止められているからって偉そうに…」って思ってました。

私は自信がなかった。自信がないから、正しいことにこだわってきたのだと気づきました。

そして今も、正しいことを伝えるだけで、他人にいい影響があるだろう、と思っていました。

それは、少し違うかもしれません。

弱さや失敗を露呈した人に、ただ「こうすればよい」と正論をぶつけるのは攻撃であって、救う(間違いに気づいてもらう)ためという大義名分を振りかざして、最も主眼に置いていたのは、自分を守ることしか考えていなかったのだと思います。

それは正論に隠れて己の承認欲求を満たそうとするオナニーであり、自分のトラウマの解消のために他人を使っているということです。私の行いは、エゴでしかなかった。

正論にこだわる自分の性質が「自分に自信がもてないという不安感」が原因の一つで、その喪失感がモチベーションになっていると自覚しなくては、他人にマウントして犠牲にしていきているという意味では、そんな人間が関わらないほうが回復できるのでは、とすら思います。

過去の自分と同じように苦しんでいる人を食い物にするような人間には、最終的に社会も他人も自分自身も救えない。そう反省しています。

正しさは、愛とセット処方されて初めて効果が期待できる

率直に語っても、相手に攻撃ととられることもあります。今回の私の話のように。

他人は他人、自分は自分。

どう話を解釈するか、どう反応するか。他人の行動と思考は、最終的には実は完璧に何もコントロールできませんよね。

どんなに手を尽くしても、どんなに心を砕いても、ご家族がいくら手を尽くしても酒をやめなかったアルコール依存症患者のように、本人にしか、本人の人生はコントロールできません。

つまり、正しいことを言うだけで自己開示をしないということは「まだコントロールしようとしている」と言えます。

私自身がいま正しいと考えていることも「現時点で正しいと考えられる」だけで、不変の真理というわけではないし、絶対の正解などありえないのですから、精一杯言えるのは、『私はこうだと思うよ』ということだけです。

だからこそ、正しさは対象に対する愛を持って発せられて初めて、優しさに昇華する。

愛とはつまるところ、「『独りではない』と感じ孤独感を忘れられる行い」だと思います。

我々はお互いに完全にアンコントローラブルであり、だからこそ尊重できる関係だということです。すなわち、そうした「独立した権利ある存在」という立場で、私たちはみな『独りではない』と言える、という、『独りだけど、独りじゃない』我々の在り方を愛する、ということ。

安心できる過去の過ちと弱さの実体験を話すこと。

自己開示を否定されない経験。

ただ黙って自分の話に耳を傾けてくれる居場所。

それらは、言葉で「あなたはありのままでいいんだよ」と言うよりも、雄弁にその愛を語ります。言葉を信じないひとに最も伝わる愛は、「何も言わず耳を傾ける=失敗や反省を共有する自己開示を受け容れる姿勢」であると言えます。

参加する誰もが「私も当事者である」という立場が明らかになって「私はあなたを尊重している」というメッセージ性をもって、体験談は当事者それぞれの歴史・苦悩に語りかけます。

同じ立ち位置の人だと認識するからこそ心が開かれます。

「私は」という「Iメッセージ」で伝える大切さがここにあります。

Iメッセージには、私の心を尊重するのと同じようにあなたの心を尊重しているという裏のメッセージがこもっているから、頑なで偏屈な心理状態に陥っている私みたいな人も、素直に傾聴できるのだと思います。

だから、自助グループには、愛を感じられるのだと思います。当事者としての自身の苦しみや弱さを予め語ってくれた人の言葉には、愛を感じるのだと思います。

自助グループは「自己開示」を通じた相互の尊敬する心により人々を繋げ、「独りだけど、独りじゃない」を再現してくれます。

だから、私たちは「生きているだけで価値がある」

私は、これからも勇気をもって「自分の弱さや失敗」を公表し続けていきたい。

私は、「自己開示」と必ずセットにして、科学的根拠に基づいた「正しい情報=正論」を発信し続けていきたい。

それが、私がずっと探してきた愛がある優しい行動だと思うからです。

それが、私自身が最も愛を感じる人に共通することだと思っています。

「太陽」のように映る尊敬すべき仲間に共通するスタイルだと思います。

Kさんは私にとって太陽なのですが、そんなKさんから今日帰り道にこんなことを言われました。

K「ちあきさん。私は、あなたの顔が見たくてきたんです。そのやわらかい笑顔で率直に自分のことを内省し振り返り、隠さずに話す姿に、私たちふたりはいつも勇気をもらっているんです。」

私は恐縮して「そんなまた嘘でしょう、そんなに立派なもんじゃないですよ私は」と言いました。にわかには信じられない内容でした。

ち「私のほうこそお二人が初日にいてくれたから、今も断酒が続いているんですよ。私たちのほうこそ、Kさんご夫妻に生かされているようなものです。」

K「そんなまた嘘でしょう、そんなに立派なもんじゃないですよ私は」

K・ち「え?」

みたいな会話があって、Kさんも私も顔を見合わせて笑ってしまいました。

自分のことですら、他人の視点とは、こんなにも違う見え方をしているものなのでしょうか。

私はそんな風に尊敬する人に思われているとは、露ほども想像できませんでしたし、

なんと驚くべきことにKさんも私がKさんを尊敬しているとは思ってすらいなかったのです!

私たちはただ、自分の公開や自分なりに考えてきた内省の結果を、お互い自分の言葉で懺悔してきただけだったのに。

ただそれだけのことが、正しさに関係なく、こんなにも他人を救っているのか。

そして、私たちはお互いにそんなにも自分や自分の行いを低く見積もっていたのか。

とても驚きました。

だって私は、もしKさん夫妻が亡くなってしまっても、死ぬまで忘れないでしょう。

苦しかった時期に手紙を受け取ったことを。

ただ弱さを吐露する私の姿に「勇気をもらっている」という素敵な笑顔を。

だから、「自分なんて大したことない」「何のとりえもない」と嘆いていても、真摯に自分を見つめて生きている姿は、見る人が見れば、結構マシな人間どころか尊敬できる人間にすら見えている可能性があります。

三森みさ先生の「だらしない夫じゃなくて依存症でした」の最終話の武田先輩(こんなに立派な人の足元にも及びませんが)に近いものがあると、ネットでこのブログに対して反響がありました。


私たちは失敗や過去の過ちを受け止め、弱さから目を逸らさないで素直に生きているだけで、人々にいい影響を与えているのです。無自覚に、無意識に。

だから、真剣に生きていさえすれば、人は「生きているだけで価値がある」のです。

私たちは自分が思っているより、生きているだけで他人に貢献していると知り、自己肯定感の低さを認識する出来事だなぁと思いました。


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