【依存症】回復のそれぞれのタイミング=「啐啄同時」

こんにちは、ちあき です。

アルコール依存症の回復は三歩進んで二歩下がるような、一進一退の経過を辿ります。

それは本人にとってもご家族にとっても苦しい道のりです。

「なぜわかってくれないのか?」「なぜうまくいかないのか?」

歯がゆい日々に嘆く夜もあったのではないでしょうか?

今日は禅語で依存症からの回復について考えてみました。

「啐啄同時」って何?

「啐啄同時(そったくどうじ)」 という言葉がありますが、みなさんご存知でしょうか。

「碧巌録(へきがんろく)」の第十六則に

「およそ行脚の人は須らく啐啄同時の眼を具し、啐啄同時の用あって、まさに衲僧と称すべし」 という一節があります。

「用」=働き、「衲僧(のうそう)」=真の禅僧 の意味になります。

啐啄同時とは?

「啐」とは、今まさに生まれ出ようと雛が卵の中から殻を破ろうとすることです。

「啄」は、親鳥が外からくちばしで卵の殻をつつくこと。

それが同時というのは、生まれ出ようとするものと、それを手助けしようとするもののタイミングがピッタリ合うことを示しています。

出典:https://eyespi.jp/l00428/

禅語のなかでは指導者のための言葉として捉えられており、弟子が悟りに近づいたベストなタイミングを逃さずに指導するべきだ、というニュアンスでとられることが多い言葉です。

いずれにしても、『両方のタイミングが合ってはじめて、殻が破れる(変化や成長が訪れる)』というところが、この言葉のポイントだと考えます。

どんな良いアドバイスも受け取り手の準備が無ければ伝わらない

イネイブリングについて、三森みさ先生作・画、厚生労働省 依存症対策推進室監修の「だらしない夫じゃなくて依存症でした(三森みさ先生HPリンク)」第6話(厚生労働省漫画ページリンク)に詳しい解説が漫画でまとめられています。

そこから少し抜粋します。

イネイブリング とは?

依存症者の問題を助長させてしまう行為のこと。よく言われる対処法は2つ。

①お世話や尻ぬぐいはしない

たとえば、家族が、代わりに後始末をしたり、当事者の欠勤の言い訳を代わりに電話したり、代わりに謝罪したり、借金を肩代わりしたり、世話や尻ぬぐいをしてしまうと、本人がお酒を飲む問題に気づけません。本人の問題は本人に気づかせてやめるメリットに気づかせることが大切です。

②説教したり小言は言わない

正論を言ったり指導したりすること。心配して一生懸命言ったことが、当事者には家族に責められているように感じてしまい、現実逃避するため余計に依存するためです。

他にも漫画のなかには、ご家族が気をつけるとよい点がわかりやすくちりばめられています。

②「説教したり小言を言わない」は、依存症者同士でも当てはまる

同じ境遇の依存症者同士であっても、これは当てはまるのではないかと思います。

なぜなら、回復の過程において、受け取り方は異なることがあるからです。

断酒し始めて数ヶ月の段階では、多くの人が「これだけやめられたんだから節酒できるんじゃないか?」「うまく適量飲酒で付き合っていけたらいいのに」と淡い希望を抱くタイミングがあります。

そんなとき「いや!私たちはもう脳がイカレているんだから、断酒しかありえない!」と正論を言ったり説教をしたりしてスリップを回避させようとしてしまうことがあります。

断酒会で直接体験談を話す場でもそういう傾向がありますし、SNSでも「私は節酒で行けるんじゃないかと思う」というツイートに過剰に反応してしまう光景はよく見られます。

正直、その気持ちはよくわかります。

スリップした後に迎えた朝、もう自分が嫌いで嫌いでしかたなくなるあの絶望感と嫌悪感はそうそう忘れられるものではありません。

同じ思いをしてほしくない、と考えるのは、本当にその人を思ってのことでしょう。

しかし、それが逆効果になってしまうとしたら、願いと違う結果を招く行動は慎んだほうが、自分の為でもありますから、ここはぐっと堪えるべきなのかもしれません。

この場合の「受け取り手の準備ができている状態」というのは、スリップを経験しているか、その怖さを経験せずとも依存症の仲間の話から理解していて「スリップしたくないけど飲んでしまいそうだ」と仲間に弱音をさらけ出せるタイミングだと考えられます。

つまり、相手に準備ができていなくても、後々「ああそういうことか」と受け取ってもらえる私たちがかけられる言葉として『私の場合は○○だったから、私はもうコリゴリだ』というあくまで私のケースとして語ることが、最もお互いにとって優良なのではないかと考えました。


正直、これが正解かどうかもわからないけど、私はこうして発信しているSNSのアルコール依存症の方々が回復することを信じているし、私とは違う回復の仕方もあるかもしれない、とも考えているので、私が言える範囲のこととしては、これでよかったのかな、と思っています。

だからこそ知識と経験と心境は、ブログに書き留めておきたい

ここに、私が断酒ブログをはじめた理由があるとも言えます。

私は正直気難しくて他人のことをあまり信じません。

善意でかけてくれている言葉もどこか空虚に聞こえることがほとんどです。

「どこかに裏があって騙そうとしているんじゃないか」

「掛け値なしに優しくするなんてありえない」

「今まで学び経験してきた事実と異なりエビデンスが見当たらないので信ずるに値しない」

などと、素直に聞かずに突っぱねてしまう傾向にあります。

事実と統計学的優位差のあるビッグデータと敵意と悪意しか信じない

いや、信じたくてもあまり信じられないというべきでしょうか。

断酒会で先輩方が話す話ですら「そうじゃないな。長く辞めているくせに思慮が浅いな」などと不敬なことを思っていた時期もあるし。(こんな曲がった性格だから部活でもなんでも孤立してました。笑)

啐啄同時を願って、細々と書き続ける意義

だけど、後から「ああ、こういう意味だったのかも」と腑に落ちる感覚を味わった経験があります。

それは、私が受け取る準備ができていなかったときに受け取り、記憶の片隅に留まり、受け取れる準備ができた私の脳内に煙が立ち上るかの如く顕れて色を成す、そんな感覚でした。

もしかすると、依存症に陥る人やASDで生きづらさから依存症になった人は、同じような傾向をもっているかもしれない。

そんな人なら、自分でネットから情報を探すだろうし、そういうタイミングでなくては他人の経験や言葉をやすやすとは信じないだろう。

ならば、ほぼ永久保存版でWEB上に残るブログの形ならば、様々な人がその人のタイミングで検索して「ドライドランク」や「イネイブリング」などの単語からこのブログに繋がり、回復の糸口をつかんで帰ってくれるのではないか。

事実、私はそのような同じ境遇の人のブログを貪るように読んでいた時期がありましたし、それがきっかけで専門書や論文を読むようになり、知識を形成していったように思います。

だから、このブログがきっかけで少しでも悩める人が気づきを得られるようなことがあれば、これも立派なソーシャルワークだと思っています。

だから、ソーシャルワークはじめました、をブログ名にしている、というわけです。

そんなところで、今回は以上です。

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