【メンタル】経験したことのない出来事に対する想像力が世の中を幸せにするという話

こんにちは、ちあき です。

Twitterですごく嬉しいことがありました。

今日はそれについてまとめてみようと思います。

経験したことがない体験を想像する

すごく嬉しいことというのは、以下のようなやり取りで今まで経験したことがない体験が具体的に共有できたことです。

私にとって経験したことがない感覚であっても、想像して具体的に「こんな感じかな?」と考えたことがドンピシャだといってもらえたことでした。

感覚が共有できれば、その人をもっと知ることができる。

その人をもっと知ることができれば、より優しくできる。配慮ができる。

だから、私はこの経験がすごく自分の中では嬉しいことでした。

実はこれが今欠けているものではないか?

「なーんだ、そんなことか…」

そう思った人もいるかもしれません。

でも、Twitterでの反響もすさまじく今まで見たことないくらい「いいね」と「リツイート」がもらえていて、やはりドンピシャの快感は共通しているようです。。

先日記事にした丸山穂高議員のニュースや、佐々木ゆうじ市議のツイート問題に共通するキーワードは、こうした『経験したことのない出来事に対する想像力』だと思うのです。

アルコールによる異常酩酊で暴言を吐いてしまった丸山穂高議員のニュースや、大麻所持で捕まった田口淳之介容疑者のニュースを見て「なんてダメなやつだ!」とただ非難するのは実に簡単です。

もちろんやってしまった失敗や罪は償わなくてはいけませんし、自分が迷惑をかけた人たちには謝罪するべきだし、自分の行動で失った信頼はもう元通りにはなりません。

でも、正しくないと分かっていても、やってしまったり失敗したりすることって、実は誰にでもありますよね。

でも、その前に、そもそも、絶対的正義なんてないんですよね。

今信じている「正しいこと」は、この世にいる全ての人にとって共通で正しいわけではありません。

誤解を恐れずに言えば、社会的なルールですら人間がお互いに生きやすいように「勝手に決めたルール」であり、社会的な生き物だからそれに従って生きていくほうが良いので「あくまで主体的に」従っているにすぎません。

経済的に成功しているから、とか

社会的地位が高いから、とか

有名大学出身で大手企業に就職しているから、とか

そんな社会的な価値は「相対的価値」であり、「絶対的価値」ではありません。

しかし、それを誤解して、社会的地位がある人ほど、自分が一番正しい、という「偏見」という名のバイアスがかかりやすくなってしまう傾向にあるようです。

受験で勝ち抜き、就職活動でも勝ち抜き、できるだけ減点が少ない人がのし上がるこの日本社会で徐々に欠落してきてしまったのは、「他人に話せないような恥ずかしい失敗をしてきた経験」なのかもしれません。

その経験があまりないから、想像できないのではないでしょうか。

失敗する人の心の痛みを。失敗して非難され頭を踏みつけられて砂をかむ苦しみを。

佐々木ゆうじ市議のツイートにみる想像力の欠如

宇佐美典也さんに絡んでいって猛批判を浴びた佐々木ゆうじ市議のツイートに如実に表れているなー、と思います。

問題になったツイートはこれです。↓

これを読んで思うのは、この人は、「この人の中ではそう」なんだろうけど、実際に依存症になって苦しんでいる人の感覚や依存症を専門に診察治療しているDrや医療関係者の医学的見解とは違う意見であり、自分はあまり失敗してこなかった=私は正しい、という思い込みから、『自分と違う意見も正しいかもしれない』という可能性すら、認められない視野狭窄に陥ってしまっているんではないか?ということです。

こんな持論を展開されて信じてしまう人がいては、依存症で悩む当事者や家族が苦しむことになるので断じて看過できない、ということで、私が反論した内容は下記の一連のツイートです。↓

最終的には「発達障害や知的障害が依存症の遺伝的素因であり、そういう人間は考えが甘いからとことん否定して追い詰めて誰にも頼らないように説教する」みたいなトンデモ理論を展開なさっていて、とてもじゃないけど、こんな偏見ゴリゴリの市議がいるようなところには住みたくないなと思いました。笑

自分と違う感覚や失敗体験も想像して理解してみようよ

人間は、それぞれ違って当たり前です。

依存症になる人間が間違っていて、そうでない人間がすべて正しいわけじゃない。

もし自分がその立場だったら?

それってどんな気持ちなんだろう?

ASD(自閉症スペクトラム障害)の私でも、たとえ話を通じて人と感覚を共有することができるんです。

みんなに全くできないなんてわけがないし、市議やエリートなど優秀な人なら、なおさらです。

失敗することって、そんなにいけないことですか?

今失敗した人を「なんてやつだ!」「即刻辞めるべき」「人として間違ってる」なんていう人は、生まれてこの方一度も失敗せず、人の手も借りずに生きてきたんですか?

そんなわけないですよね。

今5ヶ月になる娘は、一生懸命、毎日失敗しています。

立とうとしてよろけたり、うまく寝られなくて泣いたり。はじめての離乳食がおいしくなくて泣いたり(ごめん、お父さんうまく作れん…)。

産まれて物心つく前から、こんなにも失敗と成功を繰り返して、海よりも深く山よりも高い試行錯誤の連続を経て、私たちはここまで大きくなってきたのに。

なんでそんな私たちが、こんなに他人の失敗が許せなくなってしまったんですか?

いやいや何でも許さないわけじゃない?

じゃあなんで丸山さんや田口さんを目の敵にするの?

社会的に許されない失敗だから?

自分はこんな失敗しないから?

社会的に許されない失敗を、今後一切する可能性がない人なんて、いませんよ。

なぜなら、人生はいろんなことがあるからです。

予想だにしないことが、本当にたくさん、たくさん、あるからです。

そして、それは独りでは乗り越えられない試練であることがほとんどだからです。

介護施設で90歳を迎える方々と話しましたら、そりゃもういろいろありますよ人生。

戦争を経験している年代。殺しかけたことも、殺されかけたことも、死にかけたことも。

それらを乗り越えてきて、今施設で笑顔で話してくれるお年寄りが口をそろえて言うには、

「人生いろーんなことがあるで、独りではとても無理よ。そやけん、他人がいてくれて支えてもらうってありがたいことなんよ。いろんな人がおるけんど、自分だけのことばっかり押し付けたらいかんよ。みんなで助け合って生きていかねばこの歳まで生きるんは無理なんよ。」

何となくわかる気がしませんか?

娘が頑張る姿を見ていると、失敗したって、罪を償い反省して出直せる、失敗を活かせる寛容な社会や人間関係が実現すればいいな、と切に願ってやみません。

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