【メンタル】勝利主義がもたらした「呪い」からの脱出方法

勝てば官軍負ければ賊軍。

この世は不幸な人しか生まない勝利主義社会です。

99%の負け犬と、1%の傲慢な勝者で構成されています。

昭和の時代、高度経済成長期にあった時代は、まだ立身出世主義の神話が成立していました。

頑張れば頑張るだけ裕福になれる。努力は必ず報われる。

そういう宗教を信じることができる、幸運な時代。

しかし今は違います。

小泉政権による派遣法改正により、圧倒的に非正規雇用が増えました。

安い労働力として人材を派遣会社からとっかえひっかえできるようになってしまったことで終身雇用は崩壊。「いい会社に一生勤めれば安泰」という神話は過去の遺物となりました。

いつ首を切られてもおかしくない。正社員もそんな不安と緊張にさらされ、大企業にいてもいくら出世しても、将来の道筋は判然としません。

「いくら頑張っても報われないじゃないか」

「こんな希望のない社会で、生きている意味なんてないんじゃないか」

抱える絶望は、人々を「ニヒリズム(自分が何のために生きるのか見失い、絶対的な価値や希望など無いと気づいて絶望すること)」に陥らせます。

99%の負け犬は、負けを背負って妬み嫉みに身を焼かれます。

本来その人に与えられたものは決して卑下するものではないとしても、恵まれた他者と比較すると、相対的な価値観に囚われ、あったはずの満足は霧散していきます。

この世には、とてもたくさんの人がいます。

常に自分より優れている人がいるものだし、常に自分より社会的に成功している人がいるものです。

だから、他人と比較するのをやめられない限り、嫉妬の炎に身を焦がす苦しみからは逃れられません。

負け犬はもちろんのこと、1%の傲慢な勝者ですら、不幸です。

国内で成功者といえばプロ野球選手の「イチロー」を思い浮かべる人もいるでしょう。

彼は「もう一度生まれ変わったら野球をやりますか?」と聞かれたとき「やりたくない」と言ったといいます。「野球はやめたかった、つまらなかった」と言ったそうです。

なぜか?

勝ち続けなくてはならない「成果出そうゲーム」は、降りたら終わりだからです。勝者で在り続けるためには、降りられないからです。

ずっと競争して、ずっと評価にさらされて、あんなに小さい頃好きだった野球が、嫌いになったといいます。

世界に目を向けてみると、古代ギリシャで大帝国を築いたとされる「アレクサンドロス大王」がいますね。

彼は歴史に残る大勝利をおさめた英雄ですが、その功績が自分を神と称するほどの傲慢さをもたらしました。

大酒飲みで、猛烈な癇癪持ちで、他人に関心を持たず自分のことばかりだったといいます。そしてもっともっとと領土を欲し戦いに明け暮れていたところ、あっけなく病に倒れ32歳という若さでこの世を去ります。

人間らしさを極限まで削り取り、何か一つの要素(アレクサンドロス大王の場合は「戦争に勝利する能力」)で秀でたとして、本当の意味で彼は幸せだったのでしょうか。

会社員もそうですよね。

入社したら問答無用で出世レースに乗せられます。失敗したら終わり。辞めたり休職したりしてレースを降りたら終わり。

優れた営業成績を出したり、プロジェクトを成功させたり、結果を出せば会社が褒めてくれる。同僚や部下に馬鹿にされずに済む。

私も今までそうでした。そのためのノウハウを詰め込んで、いっぱいいっぱいになりながら働きました。

こうすれば売れる。こうすればできる。

有能な社員としての在り方はわかるし、ある程度できるようになりました。

でも、ある日ふと思うのです。

「これが本当にありたい自分だろうか?」

うではない。だから、つまらないし苦しい。そのことに気づくのです。

そのことに気づくこともできない鈍感な人間だけが、評価主義・功利主義・勝利主義のレースのなかで「偽りの幸せ」に騙されて、平気な顔で生きていられる。

この社会でのエリートや勝ち組というのは、実はそういう滑稽で哀れな人種です。

「ホリエモン(堀江貴文)」さんや「ひろゆき」さんはまさにこの人種で、ニーチェのいうところの「末人」ではないかしら、と思うのです。

「勝てばあとは何でもいい、勝つこと以外に価値はない」。ある種のニヒリズムをこじらせて結果主義の先を誰よりも突き進んだ結果、その人は「今だけ金だけ自分だけ」に堕ちていきます。

彼らをもてはやし崇め奉る人は、現代社会において驚くほど多いですよね。

彼らの裏にあるのは、「勝ち組の側でいたい・負け犬の側になりたくない心理」、つまり恐れと不安と憎悪です。

今まで美辞麗句を並べながら何も変えられなかった親世代を、論理でバッサリ「バカ」だと切り捨てる話口は、親世代に不満を抱えている彼らにとって実に痛快です。しかも経済的に成功した功績があり、数字のうえでの「見た目上勝っている側」だという後ろ盾(信用)がある。

「俺たちが言いたかったことをよくぞ言ってくれた」と拍手喝采して彼らを肯定することで、彼らの側、勝ち組側に「同化」したいのです。

なぜか?

負け犬である自分たちの現実を忘れたいから。

「本当は俺たちはこっち側なんだ、勝っているんだ」と錯覚したいからです。

だから盲目的に崇拝する。自分の心を守るために。

しかし、それって承認欲求の満たされなさからきている痛切な願いなんですよね。

「他人から愛されたい」「なんとしても気に入られたい」

それが満たされない現実が苦しいし辛いし悲しい。

何としてでもよく思われようとして、他人に同化しようとするとき、人は「奴隷」に成り下がります。

つまり、生きる意味を見失っているのです。

ホリエモンさんやひろゆきさんを崇拝する彼らも、末人ということになります。

ニーチェはニヒリズムが世界を覆いつくし、末人だらけの世の中になり、人々は生きる意味を見失うだろうと予見していました。その通りになりましたね。

自分の行動を、自分以外の誰かに握られ、支配されるということは、

「他人からどう思われるか」

「他人から気に入られるか」

を気にして生きるということです。

「自ら自由な生き方を放棄している」ということと同じ。

自らの意思を放棄して、長いものに巻かれて、自分の満たされない承認欲求を誤魔化している人は、とても多いので、それが当たり前になって久しいと思いませんか。

「いい大学に進学する」

「いい大企業に就職する」

「有名人とお近づきになる」

「インフルエンサーになる」

「上司に卑屈なほど遜りゴマをする」

そんな自由な生き方を放棄した大人たちに失望した子どもたちが、生きることに価値を見出せないのは当たり前です。

子どもたちは、内心そんな大人たちを蔑み憐れんでいるので、だからこそ大人になんてなりたくないし、社会になんて出たくないと思うのでしょう。

男の子の将来の夢の第1位が「Youtuber」で第2位が「Eスポーツプロプレーヤー」になるのも、納得です。

子どもたちがダメになったんじゃない。不真面目で夢見がちなんて、とんでもない。大人たちと大人たちがつくったこの社会に全く魅力がないからですよ。

本来、夢にはいろんな形があります。

しかし「夢がかなったイメージ」を想像すると、皆から認められ称賛を浴びているシーンを思い浮かべてしまいがちです。

この社会に生きる多くの人にとって、分かりやすい成功イメージとは「他者が自分の価値を決めているシーン」に固定されてしまっています。

この社会はランキング主義であり、評価主義です。

他人が自分の価値を決めるのが成功なら、裏を返せば「結果が出ていて他人がそれを認めてくれなければダメ=夢はかなわない」という図式だと言うことです。

評価の軸が自分では無くて、他者に委ねられている。

フォロワー数、動画再生数、年収、偏差値。

数字になってわかりやすい評価軸には、実は実体がなく、空虚な蜃気楼にすぎません。

なぜなら、他人の評価とは、うつろいやすい水物で、雰囲気のようで、自分とは切り離された「他人のなかの勝手な思い込み」だからです。

年収が高いからいい仕事をしているとは限らないし、そもそもお金はただの紙です。偏差値が高いから賢いわけでもないのは、コロナ騒動で皆さんもよく知るところでしょう。動画視聴やフォローも気分でクリックたまたましただけです。実際は鼻で笑ってみているだけかもしれないし、動画は1秒くらいしか観ていないかもしれません。

ひとつの切り口としてのデータで在り、本人そのものの価値とは全くリンクしない。本人そのものに関するするものではないから。データが付加価値を自分に付与してくれると信仰しているだけ。

私はこの評価主義・ランキング主義という宗教に、まんまと騙されて生きてきました。とても恥ずかしいですが。

大学受験は偏差値だけで大学を選びました。そこで何を学びたいとか、考えもしていませんでした。そのくせ、自分より偏差値の低い大学を出た人間、大学すら言っていないような人間は、自分より下等な生き物だと思っていました。恐ろしいアホですよね。(笑)

最初に入社した中小零細企業から超大企業に憧れて転職したのも、内心自分の社会的価値が上がると思ったからでした。

ふたを開けてみれば、何のことはない、同じような詐欺を大規模に展開しているか、小規模展開しているかの違いしかなかった。

私のやることはほとんど変わらず、自分の価値などもちろん上がることはなかった。

確かに、肩書が変わったことで、婚活市場では「優良物件」とそれなりに競争力を得て、銀行は給与口座をすぐに開設してくれました。

しかし私という人間は良質なものに成ったかと言えばそうではなく、本質は何も変わっていません。むしろさらに病んでアルコール依存症がひどくなっただけでした。(笑)

哲学者エピクテトスは、次のような趣旨の言葉を残しています。

自由な人生を望むなら、なぜ他人の評価にとらわれて生きるのか。

それは、ほんとうに自由な生き方と言えるだろうか?

地位や名誉や財力に囚われ、それを基準に生きるとは、何かに囚われる不自由な人生である。

我々次第ではないものを、もっと軽く見なさい。

そんなものは、人生にとって重要なものだと真剣にとらえなくていい。軽んじていい。

自分が変えられる範囲のものに、重きをおきなさい。

また、依存症の自助グループでよく唱和される『平安の祈り』ではこんな言葉がつづられています。

神よ、私にお与え下さい。

自分に変えられないものを 受け入れる落ち着きを。

変えられるものは 変えていく勇気を。

そして 二つのものを見分ける賢さを。

原典『ラインホールド・二ーバーの祈り』

他人の評価というのは「我々次第ではないもの」であり「変えられないもの」です。

そんなものを人生の軸に据えてはいけないのです。

自分には力の及ばないものとして謙虚に受け容れ、囚われない落ち着きをもつ者こそ、真の賢者といえます。

ずっと、負けないように他人と比較しながら、蹴落とし蹴落とされてボロボロになりながら生きる人生。

それをまた生きたいと思いますか?

また生きたいと思えない人生が、あなたの本当の人生でしょうか?

きっと違いますよね。

ニーチェのいう「永遠回帰」とは、この人生が永遠に繰り返されるという仮説です。

永遠に繰り返されるとして、あなたは今、あなたの行動をどう選択するでしょうか。

変えられないものに固執して「自分は幸せなんだ」と自分を騙しながら生きる努力を続けますか?

その無駄な努力を捨てて、自分が変えられる範囲のものに重きをおく。

変えられるものを変えていく勇気を持つ。

それがニヒリズムの克服です。

三大幸福論のひとつの著者、バートランド・ラッセルは、次のように言っています。

「私たちの生き方というのは、私たち自身の深い衝動によって生きる道が切り開かれていく。」

他の誰かの価値観ではなく、自分の価値観と内なる声にしたがって人生の一つ一つを選択したのなら、その結果がどうであっても、あなたは納得することができるでしょう。そしてあなた自身を誇り、運命を引き受けることができます。

不幸も失敗も、どんなに苦しい瞬間や深い絶望も、自分が選んだものとして向き合い受け容れる勇気をもつことができます。

そうすれば未来にも失敗にも、怯えることなく生きていけるのではないでしょうか。

だって、結果がどうなっても、あなたが決めてあなたが行動したことに価値があり、常にそれだけが最善なのだから。

であるならば、あなたは不幸も失敗も含めて人生そのものを肯定して生きていくことができるのではないですか?それ以上のそれ以下もないのだから。

そんな人生ならば、もう一度繰り返すことになったとしても、それを受け容れることができるのではないでしょうか。

これが本当の「自己肯定」だと、私は考えています。

何かができるとか、誰かより何かで優れているとか、社会に役に立っているとか、そんなことで存在価値を補強する必要なんてないのです。

自分には限界がある。それでも常に最善を尽くす。その行動が目に見える結果に結びつかなくても、大丈夫。きっと経験が糧となり、どこかの何かと繋がっている。だから絶望する必要はなく、落胆する必要もない。

このラッセルがいうところの「いい諦め=希望に根差した諦め」は、実に清々しいと思いませんか。

ホモ・ルーデンスは「遊びは文化よりも古い」という言葉を残しています。

「文化」の上位概念として「遊び」がある、というんですね。

競技性がある以上、法律というルールで競う裁判も、弁論を戦わせて真実を求める哲学も、全て遊びであると。

そして「遊び」の本質は、自分の内なる純粋な感覚の発露であり、他人には決して侵害できないし、決められないものです。

だって利害もなく制約もなく、あなたが「面白いから」という晴れやかな感激のための行動なのですから、他人には定義しようがないのです。あなたのなかにしか基準が存在しない。

子どもの頃、今思えばくだらない遊びに没頭した経験はないでしょうか。

朝露が光るだけで、なぜこんなに美しいのかと心を躍らせたことはないでしょうか。

私たちは、そのやり方をすでに知っています。

私たちのなかの子ども(インナーチャイルド)が、すべて経験してきたことです。

現代社会は、遊びが失われた世界です。

功利主義・合理主義・経済的な競争社会が遊びの要素を根こそぎ剥ぎ取ってしまった。

金儲けのために、皆真面目になり過ぎたのです。

そのため、遊びの要素を失った「文化」は崩壊が進みつつあります。

資本主義経済社会における「マネーゲーム(商業競争)」は、闘争本能に従うだけの偽りの遊びです。

過度に競争心を煽り消耗しあうだけで、得られるのは晴れやかな感激とはほど遠い、行き過ぎた興奮に狂っています。まるでジャンキーです。

「仕事だから」とマネーゲームいう偽りの遊びに重きをおきすぎていませんか?

そんなことに存在価値や人生を賭けていると、人は疲弊して病んでいくものです。

だから、こんなにもこの国は自殺者が増加し、精神疾患患者が増え、SNSは怨嗟の声にあふれかえっているのではないか、と思うのです。

もっと、心のままに遊びましょう。

私心のない興味を、最も大切にしましょう。

この世は不思議なことだらけです。「もっと知りたい」と思う純粋なその興味に素直になりましょう。

人間はいつ死ぬか、わかりません。それは誰だってそう。

望んでか望まずか、偶然にもこの世に生を受けたのですから、やっているだけで楽しいような何かに、全神経を集中させましょう。

変えられないものではなく変えられる範囲のものに、自分を楽しませることに、集中しましょう。

そんな風に思う今日この頃。

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