【メンタル】「自分さえよければいい」エリートたちの魂が貧しくなった理由

本当におぞましいな、と思う。

最近人々のなかに共通して見出されるもの、それが「自分さえよければいい」という文化的経済的貧困からくる「魂の貧しさ」だ。

本当におぞましいな、と思う。

誰が悪いとか、どのカテゴリが悪いとか、そういう話ではない。

この日本社会に生きる人々の魂がどんどん貧しくなっているんじゃないかと思う。

私はとても哀しい。

自分良ければすべてよし(エリートサラリーマン編)

同期で出世街道まっしぐらのエリートサラリーマンはこういった。

「家族さえ幸せならそれでいい」と。

その単語だけなら別に「そうだよね」なんだけど、彼は、患者さんには必要のない薬を医師を騙して病院のクリニカルパスに組み込ませ使わせているのだ。はっきり言って無益だ。

具体的に言ってしまえば胃薬なんだけど、ある血液をサラサラにする薬と一緒に使えば胃からの出血を抑えられると言われている。でもそれは特定の種類の薬剤の出血傾向に対してエビデンスをもっているのであって、それ以外の種類と一緒に飲んでも厳密には効果があるとは言えない。

つまり、患者さんは本当に必要かどうかわからない高い胃薬を買わされることになる。医師が騙されているせいで。製薬会社がちゃんと事実に基づいた説明を意図的にしないせいで。

なぜ本当に必要とはいえないような使用方法に誘導するのか?

それは他の社員より売り上げをあげて社内で目立ち出世するためである。自分のために患者さんを食い物にする。それは我々の存在意義から完全に逸脱している。

そのことに言及したとき、彼は冒頭の言葉を吐いたのだ。

世の中の為より家族の為。自分たちさえ豊かで得をしていれば、他の人が余計な金を払おうが、苦しもうが知ったコトではない。

そういったのだ。

あるチームリーダーはこういった。

「我々は利益を求める株式会社だよ。慈善事業でやっているのではないから、患者さんの為っていうのは建前でしかない。社会的に良いことなんてのは、NPOやなんかの慈善事業団体に任せておけばいいのさ。そういう『意味ないもの』は自分のなかで折り合いをつけてちょっと脇に置いといてよ。私たちはとにかく計画を達成しなきゃダメなんだよ。そうしないと私たちの所得が下がって生活できなくなるから。」

私たちの事業の目的は、医薬品を通じて人々の健康に貢献することではなかったか。それが本質ではなかったか。「手段を選ばず売りを上げて自分たちの社会的地位と所得を守ること」ではない。

それなのに本当の事業の目的を、どこか経済的利益を求めないところにアウトソーシングしとけばいいや、と軽く考えている現実。

子どもの頃、遠足のおやつにと手に取った「ラムネが本体でおもちゃがおまけ」なのに、実際にあけてみれば「ラムネがおまけでおもちゃが本体」の、お菓子のガッカリ感を思い出す。

価値観が逆転している。

患者さんの為なんて理念は無価値だから、そんな「オプション」は塵取りで集めて端っこに寄せて見ないようにしよう、といったのだ。

信じられるだろうか。

私はこういう人たちと話すと背筋が凍る。

この人たちはもはや人をやめてしまったのではないか。真剣にそう思う。

サラリーマンというのは、部品化されたホモ・サピエンス、すなわち人から劣化した人型をした魂の抜け殻である。基本的に利益を追求する機能だけに特化した企業。企業の口車に乗せられて、すっかり「目標達成マシーン」に調教されている。

部品としての優秀さは、他人を踏み台にすることを何とも思わないこと。そういう「優秀な」社員は、経営者にとって操作するのに都合がいいから。

部品として「優秀」であればあるほど使いやすい。調教されて目標達成してよしよしヾ(・ω・`)されるために動くから、実にコントロールしやすい。いうことを聞かせられる犬がたくさんいたほうが経営者は金儲けをスムーズに行うことができる。

無駄に「社会の為」「患者さんの為」「国民の為」とか考える人は、組織にとって使いづらい。

だから私は出世しないわけだが、出世しないほうが人間性を残しているという意味で、むしろ今は本当に出世したくない。

人としての魂を失う代わりに諭吉をもらうなんて、悪魔の取引だと思わないか?私はまっぴらごめんだ。

自分良ければすべてよし(政財界編)

同じことが政財界にも言える。

財務省の官僚は「出世しようゲーム」に参加して遊ぶことを彼らの人生のメインに据えている。だから、MMT理論ですでに無意味だと証明されている「プライマリバランス黒字化」を今も掲げている。

「プライマリバランス黒字化」とは、簡単に言うと、国の借金をなくしましょう、ということ。

国の借金とはつまり国債。誰かの負債は誰かの資産。国債を刷るということは、世の中の資産が増えるということ。ということはつまり、私たちの 使える資産が増えない=お金がない のは、国債を刷るのを渋っているから。つまり国がプライマリバランス黒字化を掲げる限り必然なのだ。

実は国の借金(国債)は返さなくてもいい。現に世界では借金がどんどん膨らんでいる国ほど景気を上手にコントロールして経済成長している。

日本も昔から考えれば何百倍もの借金になっているけど、私たちは別に返してきたわけじゃない。

返さなくても経済が回る、むしろ国が借金しなきゃ成長できないことを証明したのがMMT理論だから、当然なんだけど。

返さなくてもいい借金を「返さなきゃいけない」と思い込んで国が出し渋るから国内経済がどんどん縮小する。そうすると物が売れないからみんなお金を使わない。そうするとデフレだから景気が悪くて苦しい。景気が悪いから税収が減る。税収が減るから…という「間違った思い込みの悪循環」のなかにいる。

つまり、国債を発行してお金を刷り、みんなに分配しても本当は何の問題もない。だけどやらない。なぜなら財務省の人たちにとっては「出世できなくなる」行動だから。

国民がいくら貧しくなり経営難で自殺しても、そんなことはどうでもいい。出世できなくなるよりはいい。そう思っている。

では閣僚なぜ財務省に「お金刷れよ」と言わないのか?その権限を持っているにもかかわらず。なぜ命令できないのか?

それは、財務省の管轄庁である国税庁が怖いから。つつかれると困る不祥事を国税庁につつかれるのが怖いから。つつかれて暴かれて政治家として失脚するのが怖いからだ。

国税は警察をしのぐほどの強力な権力を持っていて、税金に関することなら国民のありとあらゆることを調査する権限を持っていて、我々には拒否権が無い。

いろいろ黒いことをやってのし上がってきたのに、国税庁にばらされたら政治家をできなくなる。今の生活を維持できなくなる。

だから、今の立場を守るために国民がどんなに困っていても、とりあえずはぐらかして騙しておこうと思っている。見殺しにしてもいいと思っている。

エリートたちは 寂しい「黒死牟」

ここまでの事例で、サラリーマンから行政機関まで、全部のエリートに共通するのは「自分さえよければいい」という浅ましさ、「魂の貧しさ」だ。

だから、本当におぞましいな、と私は思うのだ。

今のこの社会に認められる人というのは「魂が貧しい人」なのだ。

人としての浅ましさを認められ、その代わりに金や権力が与えられるのだ。だから、お金を必要以上にたくさん集めていることはむしろ恥。社会的地位があることもむしろ恥。そうとも言える。

ではなぜ、この恥ずかしい人たちは、こんなにも魂が貧しくなってしまったのだろうか?

それは彼らの人間性が劣悪だからではない。

誰もが持っている寂しさ・苦しさ。それを誰かに認めてほしい、受け容れてほしい、そういう切なる願いが出発点だと思う。

努力が結果的に社会的に報われないと、それらの切望は嫉妬、すなわりルサンチマンになる。

努力が結果的に社会的に報われると、傲慢な自己顕示欲となる。

「どうだ、俺はすごいんだぞ」

「こんなに苦労して頑張ったから成功したんだ」

「成功できないやつは俺みたいに努力してないからだ」

「俺には人よりも優れた能力がある」

「俺はほかの出来損ないとは違う」

この言葉の真意は以下のような「切なる願い」から来ている。

「私はとても苦しかった、つらかった、それを分かってほしい、がんばったねって言ってほしい」

「私は自信がない、優秀なんだと信じたい、自分に生きていけるパワーがあると信じたい、だからみんなに認めてほしい」

「負けるのが怖い、人と比べて優れていなくては自分の価値がわからなくなるから、だから何としてでも勝ちたい」

つまり寂しいのだ。

めそめそ泣いているインナーチャイルドを抱えて、表では傲慢で横柄な人を無意識に演じている。ふんぞり返っているように見えるが、実に弱々しい。

そしてチャンスがなく結果が残せなかった弱者に「自己責任論」を振りかざして悦に入るのが好き。なぜなら弱い自分を克服したように錯覚できるから。まだ弱いんだけどね。

『鬼滅の刃』でいうところの、上弦の壱「黒死牟」そのものではないだろうか。

自己肯定感をメリットと相関させなくていい

これら社会の真の病巣は、本当の自己肯定感を育んでこられなかったことにあると思う。

本当の自己肯定感とは何かというと、「あるがままで生きている価値がある。自分の人生は自分で決めて歩んで行って何の問題もない。私の意思や願いは誰にも否定できない。」ということだ。

よく「5分で高まる自己肯定感!」みたいな怪しい自己啓発セミナーで「自分のいいところを探そう!」とか「みんなでお互いに相手のいいところを褒めまくろう」とか言っているのを見かける。

それもいいんだけど、本質的にはちょっと違う。

何か社会的なメリット、特に他の個体と比べたメリットを支えにしてしまったのでは、不健全だ。先の空虚な黒死牟たちと同じになってしまう。

「メリットがあるからそこにいていい」というのは寂しい。なぜならメリットがなくなればそこにいてはいけなくなるということだから。

私たちは何かメリットが無くてはここにいてはいけないのだろうか?生きていてはいけないのだろうか?そんなに命そのものだけでは足りないだろうか?価値が無いものなのだろうか?

そんなわけがない。

そんなわけがあるはずがない。

人は、生きているということそのものが、とてつもない意義を持っている。実体があり命がある。それが事実。メリットもデメリットもない。絶対的に肯定される尊厳がある。

だって、子供を持っている人は分かると思うけど、我が子が生まれてきたとき、そのか弱い姿がどれほどの希望になった?

彼らはメリットを提供したか?むしろ仕事が増えてデメリットしかなかったのではないか?我が子に対してメリットが無いから「こいつココにいてはいけないな」と思ったか?

赤ちゃんは、自分では何一つできず、言葉も話せず、放っておいたら死んでしまう、か弱い存在。それでも日々進化し懸命に生きようとする命の輝きは眩い。その輝きは親である私たちにとてつもないパワーを与え続けてくれたことを、今も覚えているだろう。静かで温かくずしりと質量をもつ覚悟を私たちに与えてくれただろう。

だから、人が懸命に生きる姿というのは、それだけで意味がある。

どんなに病んでいて、どんなに至らなくて、どんなに汚くても、己の信念のために命を燃やしているその姿には、貨幣という紙切れには変えられない強烈な美しさがある。だから世の中の人々の多くが、煉獄杏寿郎をはじめとする鬼殺隊の面々の必死に生き抜く姿に心を動かされたのではないだろうか。

自己肯定感というのは、そういうものだ。

生まれた時点で「私たちは外界にすらとても大きな力を与える存在なのだ」という健全な自覚を持つこと。

それが「自己肯定感」だ。

つまり、もうすでに生まれた時から持っているのだから、探し求める必要が無い。だってもうすでに誰もが持っているのだから。

だから、好きなことをやっていいし、己の信念に従って生きている限り何を選んでもどう生きても間違いではない。お金が無かろうが、人望が無かろうが、誰に認められなくても、何の保証もなくても、人はヒトをやめない限り絶対的に価値がある。

まとめ:理想の平和な世の中を願って

このことに全人類が気づきさえすれば、だれもが、誰かに対峙した時に心を不安で揺らさなくてもよくなる。

なぜなら、比べなくていいから。優れていなくていいから。

違いを認め、おもしろがり、対話することでさらに心が豊かになっていく。社会がどんどんおもしろくなっていく。

どうか、そうなってほしい。

そのために、私は私ができる事をしたい。

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