「あれだけの役職についておられるということは、人間的にも素晴らしいはずだから。」
こんな言葉を社内で聞いた。私は「それはどうかな」と思ったけど言わなかった。
組織における肩書きは個体の優越性証明たりえるか
役職とは、ただの役割である。
高い役職を持つ人は、組織内で裁量が大きい。
しかしいくら権限が付与されていても、収入が高くても、役職はどこまでいっても役割でしかない。
裁量が大きければ責任が伴うはずだが、往々にして上役が責任を取ることはない。責任を取るのが主たる役割のはずなのに。
大きな組織で高い役職につく人とは「失敗という汚点を残さないで働いた人」であり、汚点を残さないことにおいてはたしかに、一流である。
肩書きとは、その立ち回りの小賢しさの証明にはなるかもしれない。しかし人間的に優れているという証明にはならない、と私は思う。
人間的に優れている、とは、そもそもなんだろう。
私にとっては、愛を与えられるかどうかだと思うし、そもそも優劣はつけられないと思う。
役割としてたまたま、あてがわれているだけなので、上役を偉いとか凄いとか私は思えないから思っていない。
「こいつを当てがっても損しないだろう」と思われるだけの隷属を誓って態度で示してきた、という献身はすばらしいと思う。
私にはそんなふうに心を殺して生きることはできないから。
心を殺さずともそう在れたというなら、さらに脱帽する。
そんなふうに思考停止で生きることは、私には不可能だ。
肩書きはむしろ、個人的には侮蔑の対象ですらある。
異端審問としての降格人事
組織内のヒエラルキーを重んじない、崇め奉らない、隷属しない。
そんな社員は肩書きという宗教を信仰しない背信者である。権威という神の力を信じない不届者である。
だから、金銭的に不遇な立場に追いやって罰を与え、改心させようとする。
自分たちが信じている宗教が間違っていない、という安心のため、生け贄を痛めつける。
同じような仕事をして同じようなパフォーマンスを発揮していても、上役に傅かない生意気な人間は「人間的に劣っている」神罰の対象者である。
ああ、くだらない。
そのまま、その人の日頃の行いと発する言葉と、成している善行だけを、みるのではだめなのか?
違うことには違うと思うと、忖度なく発言してはダメなのか?
私にはよくわからない。
営利組織の営みが、金という暴力で他人を服従させたり下にみたりするための、ひどくくだらない遊びにみえる。
飽きた
もう飽きた。
結局のところ、パワーゲームはただただ虚しいしつまらない。
大企業でも中小企業でも、変わらない。醜いことには変わりなかった。よくわかった。
パワーゲームで成り立つこの社会は、人として気高く尊い在り方よりも、損得と迎合が最優先であり正義なのである。
実にくだらない。
こんなつまらない社会、早く滅びて仕舞えばいい。
人間がそんな浅薄な生き物だとしたら、絶滅して仕舞えばいい。
とりあえず擬態しながらそれなりの収入を得られるよう省エネで立ち回り、本当に大切な行動と思索に命を燃やそう。
もう、ある意味あきらめる。