【メンタル】「他人」の目に縛られる人が抱える心の闇

阿波踊りを非難する人がいる。

新型コロナの感染拡大がどうのと言っている。

その背景は2通りある。

ひとつは、損得。

もうカラクリがバレてすでに一部の人には飽きられているものの、感染症に怯えて政府が推奨する感染対策を続けてもらわないと困る人間が、さらなる利益拡大のため、頑張って煽っている。ご苦労様。

こっちは正直どうでもいい。

もうひとつは、病。

こちらについて、今日はまとめていきたい。

「他人の幸せは自分の不幸」という洗脳

日本は戦争に負け、植民地となった。

多くの人は独立国家だと思っているが、実際は違う。

欧米諸国の言いなりで、彼らの利益のために飼われている。

近代化の名のもとに戦後教育が布かれた。洗脳するために。

西洋が先進的で正しく東洋は未熟で発展途上だと刷り込み、上書きしていった。

その結果、見事に思考停止の愚民国家に仕上がった。

彼らにとっては、いい仕事をしたというところか。

日本人を、アメリカ・ヨーロッパに憧れ猿真似をする立派なイエローモンキーに変容させたのだから。

義務教育は、都合よく動く奴隷が頭に入れておくべき予備知識を詰め込む洗脳教育として普及して久しい。

私たちは彼らに都合の良い情報を暗記させられ、ちゃんと覚えたか確認される。

定期考査という名の奴隷テストである。

「どれだけ物覚えがよく従順な奴隷か」を測定するテスト。これで横並びに比較される。

そして、この奴隷テストで偏差値が決まり、将来の平均年収が決まる、と脅される。

奴隷テストで良い点を取らなくては、限られた恩恵にあずかれない。

そうなれば、クラスメイトは仲間や友人ではない。敵である。

他の人間が良い点を取ることは、自分の奴隷としての順位を下げることであり、喜ばしいことではない。

こんな経験はないだろうか。

クラスで成績のランキングが発表される。

自分より成績の悪いクラスメイトを心の中で嘲笑いながら、何となく安心する。

自分より成績の良いクラスメイトを心の中で恐れながら、何となく「失敗すればいいのに」と妬む。

でも「友達とは仲良くするもの」と先生から教えられているので、そんなことは感じてはいけないと蓋をする。そして、表面上は仲良しこよしのフリをして、ひとりぼっちにならないように愛想笑いを振りまく。

集団から孤立したら皆のストレスのはけ口になってしまう。「生贄」にされないために、多数派に属そうとする。

自分がクラスのヒエラルキーのなかでどの位置にいるかを、内心怯えながら推し量って行動する。

そして卒業したら、特に何の関係も無くなる。

これは、一般的な学生時代の心理状態である。

ここで刷り込まれているのは「他人の幸せは自分の不幸」という前提だ。

ルサンチマンに駆られて奴隷同士でいがみあうように、奴隷同士で真の心の結束を持たせないように、自分の立場をわきまえて自制し権力者に逆らうことなど思いつきすらしないように、躾けるシステムが正常に働いている。

そのシステムにより。奴隷は他の奴隷の幸せを憎み、足を引っぱるようになる。

そうすることが、自分が幸せになるために必要だと、無意識に刷り込まれている。

だから私たちは、他人の不幸を蜜の味だと感じる。

他人の幸せな姿をみると、むかっ腹が立つ。

そういう風に教育されている、というか飼育されているので、それが自然。

他人を下げることで相対的に自分を上げたい

失敗した人、間違えた人を、執拗に叩くのも、よく見る光景だ。

なぜそんなにも攻撃的になるのか。

それは、自分が上がるには他人が下がらなくてはいけない、という相対的な価値観に囚われているから。

これも、丁寧に施された奴隷教育により、そう認知の歪みを起こすよう幼少の頃より丁寧に躾けられた成果だ。

自分の失敗は隠す、あるいは認めない。

失敗を隠しきれなかった人間に制裁を加え、地に落とす。

エリートほど無謬性の神話に囚われて、謝り方をまるで知らない。

失敗しないように生きてきて、失敗をどう謝罪すればよいかを知らない。

そんなことは学校で習わないから。

それゆえ、謝罪会見などは炎上する。

形ばかりの似非謝罪が書かれた紙を読み上げることしかできないので、謝意が被害者の心に届くことはない。そもそも、謝意そのものがない。自分がこれ以上責められないために、自己保身と自己弁護の言い訳を謝罪っぽく聞こえるように発声しているだけ。

謝罪する人間を叩く側も、受け取る気がない。

謝罪を要求するとき、基本的にその人間を貶めることを目的としている。

だから、言い回しや言葉尻を捕らえて挑発することでさらに失言を引きだそうとする。

社会的制裁を確定させ、対象が明らかな不利益を被る姿を見るまでは、執拗に攻撃する。

奴隷教育で培った「いじめ」のテンプレートに沿って、奴隷同士足を引っ張り合っているのが、ネット炎上の正体。

実に下らない。

本来、他人がどう生きようが、自分の人生の価値には影響しない。

その人にはその人の、私には私の与えられた人生があり、それぞれがオーダーメイドなので、比較することは難しい。というかできない。

そもそも比較できないものを比較しても、意味がない。

他人が何か嬉しいことがあってハッピーになったのなら、それは私にとっても良いことだ。

なぜなら、他人に良いことがあれば、その人は機嫌よく生きていられる。私は機嫌よく生きている人間といるほうが、不機嫌な人間といるより好きだ。ストレスがない。

一緒になって喜んでいれば、お互いにストレスなく生きることができる。

ひとつのパイを奪い合っているように錯覚させられているが、実際はそれぞれにパイは配られている。

生まれや運でそのパイの大きさは多少誤差はあるかもしれないが、他人のパイを小さくしても、自分の手元のパイは大きくならない。

それぞれのオーダーメイドのパイ生地に、どんなフルーツを乗せようか、どんな風に食べようか、ご機嫌に話していればよい。

それなのに、必死で他人が大切に抱えているパイを足で蹴落とし土をつけようとする。

自分には本来、何の関わりもないのに。無益なことだ。

そんなことをして他人のパイばかりに注目しているので、自分の手元のパイはいつまでも完成しないし、魅力的なものにならない。

そして目を離しているスキに、別の他人に蹴落とされる。

他人にも同化を強いるのは無理して我慢しているから

本当は、自由に生きたいと誰もが思っている。

しかし権力者の言うことをしっかり守るように躾けられてきた私たちは、ルールに自ら縛られる。

「法の奴隷」としての性質を合理主義・功利主義の観点から補強されるので、もはやそのルールの檻から抜け出せない。

教育もそうだが、島国として培ってきた陰湿な性質もある。

島では、物資も人も限られた環境であり、頻繁に争っては生活ができないので、できるだけ争わないようになる。

争わないようにはするが、人間同士なので不満は溜まる。

不満が溜まっても、生活のために我慢して合わせる。

そうなると、我慢するのが当たり前だと信じなくてはやっていられなくなる。

なので、我慢せずに思ったことを素直に言っている人をみると「自分だって我慢しているのにズルい」と怒りを感じる。

表立っては争えないので、怒りの矛先を向ける場所がなくなる。

この場合奴隷がとる対処方法は二つ。外に発散するか、内でわからないように攻撃するか。

外に発散するケースの説明として、沖縄がわかりやすい。

沖縄県民は「うちなんちゅ(沖縄の人)」と「やまとんちゅ・ないちゃー(内地人・沖縄の人ではない人)」を明確に区別する。そして心理的に距離をおく。

自分たちの結束を高めるために、外の人間である「ないちゃー」を仮想敵として活用する。その仮想敵に怒りの矛先を集中させることで、内部分裂を避ける。

内で分からないように攻撃する方法として、集団から孤立させる、というのがある。

よくない噂を流す、嫌がらせをする、などその集団からはじかれるように手練手管を尽くす。

うまくいって集団から排除できれば儲けもの。

排除できなくても、従順な奴隷同士で手を組んで、チクチク痛めつけて溜飲を下げる。

残念ながら、洗脳される前からそういう同調圧力の強さ、陰湿な性格を持った民族が、日本人である。

本質的な問題点は、納得して「我慢すること」を選択できていないことにある。

自分の判断が他人から与えられる損得か恐怖で誘導されているので、自己効力感がなく、納得感もない。

それが不満を感じる根源。

みんなで暮らしていくためにある程度の調和が必要であったとしても、アサーティブに話し合ってお互いに納得できる着地点を探すのが、本来の姿だ。

しかしそうした真の民主主義を実践する自我も勇気も持たない奴隷の我々は、こぶしを握り締めながら卑屈に引き下がる。

自分の意見を表明するのを恐れる。

他人と違ってはいけない、と周囲を窺う。

主張するに足る「正しさ」という保険を他人から持たせてもらえないと、何も言えない。

真の意味で、自分で何かを決定することができない。

だから生きていても空虚に感じる。他人の言いなりで今までずっと生きているから。

できないことをしている人を見ると、劣等感を感じる。劣等感を認めることもできない。

だから自由で素直な人を余計に攻撃せずにはいられない。

みんなで誰も自由にできなくすることで、各々の不自由を肯定する。

惨めな民族である。

不毛な社会である。

まとめ:全ての答えは自分のなかにある

義務教育のせいだ、欧米諸国のせいだ、民族性のせいだ、というつもりはない。

おそらく因果関係としてはそうだろう、という仮説にすぎない。

状況はどうあれ、その人の意思はその人のモノだ。何人たりとも奪うことはできない。

奴隷の哲学者エピクテトスはこう言っている。

自由意志は 盗人の手のとどかざる 財宝なり。

つまり、どれだけ不自由であっても、たとえ手足を拘束されていたとして、意思だけは誰にも奪うことができない、ということ。

五賢帝時代の繁栄を奴隷という立場で見せつけられ続けたばかりか、足を悪くして思うように歩くことすらできなかったエピクテトス。

その彼が言うのだから、説得力がある。

たとえ、年端も行かない子があなたを馬鹿にして傷つけようとしてきたとしても、「その指摘は事実ではない」と思うのであれば、真面目に受け取らないし腹も立たない。

馬鹿にされて傷ついた思うのは、相手が言ったことを「その指摘は事実だ」と思うから。

相手が言ったことを自分が「そうかもしれない」と認めていると腹が立つ。

他人がどれだけ口汚く侮辱してきたとしても、それが事実でないなら気にしなくてもいい。腹を立てる必要もない。幼子が言っているデマカセと同じなのだから。

相手が言っていることを気にしなくていいとしたら、どう行動したいだろうか。

その意思だけは、エピクテトス大先生も奪えないとおっしゃっている。

その意思は、いったいどこへ行ったのだろうか。

もしやとは思うが、自ら、譲り渡してはいないだろうか。

損をしないために?これ以上痛い目に遭わないように?あるいは、無意識に?

己の唯一の所有物を、他人に献上しているから、奴隷なのだ。

人生がいつまでも不安と恐れに支配されるのだ。

この世に生と邪があるならばこれは正ぞ。

たとえ死んだとてあの世で父祖にこう言える。

戦って死んだと。家族を守ろうと死んだと。

女房を取り返せ。

子を取り返せ。

国を取り返せ。

己を取り返せ。

全ての答えは、自分のなかにある。意思を取り戻すことで、奴隷から人間に戻ることができる。「生きている」と言えるのはそれからだ。生きるというのは、そういうことだ。

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