エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』『愛するということ』を読了して、内容をまとめつつ思うところを書いてみる。
人は安心に依存する
ナチスドイツのファシズムに服従したように、人は自由を求めながら権威に跪く。
中世ヨーロッパでは、身分が決まっていた封建社会だったので、決まった役割をやっていればよかった。それなりに生きていけた。
社会・共同体の一部として、やりたいことは全て叶わなくても、やるべき役割をやっていれば誰かが守ってくれる。そんな「安心」があった。
しかしルネサンスを期に、資本主義・自由主義が社会に広まるにつれて「個人」という概念が生まれるようになる。
中世の崩壊とともに、自分が何者かわからなくなり、今まで享受していた「安心」を失う。繋がりを失い、路頭に迷う。
そこで宗教改革である。
今まで教会は「神」と「人々」を繋ぐ役割を担う権威そのものだったが、プロテスタントは「神」と「個人」が直接繋がれる代わりに「神」には絶対服従で、本来が存在として悪である人間は「労働」に真面目に禁欲的に励むことにより禊を済ませることができる、と説いた。
これにより、産業革命の只中、過酷な労働を強いられても喜んで働く、今でいう社畜のような状態に人々をコントロールすることに成功する。
寄る辺をなくした民衆は、身を粉にして働いていれば「神」が救ってくれる、という新たな「安心」を得る。代わりに「神」に服従するマインドを刷り込まれる。
近代資本主義は、人間を伝統的な束縛(役割)から解放したが、同時に人間を孤立させ、無力感・孤独感・恐怖を与えた。資本的に「強い個人」と「弱い個人」を生み、社会は金儲けのための機械になり、人々は歯車として生きるようになった。
自分の幸せが生きる目的ではなくなり、あくまでも組織・社会の経済的な発展に奉仕することを目的とする、孤独な歯車である。
近代から現代に時代が進むにつれ、さらに孤独感や無力感を増大させていく。
自由から逃げたくなる3つの心理(逃避のメカニズム)
人が自由という重責から逃げてしまうのは、3つの心理が働いているからだとフロムはいう。
権威主義
自分が欠けている力を獲得するために、自分以外の何かに依存して補おうとする心理のことである。
自分の進むべき道をあれこれ指示してくれる「権威」にすがりたくなるパターン。影響力のある人、カリスマ性のある集団に思考停止でついていってしまう。(マゾヒズム)
もう一つが、他人を支配し操作することで自らが権威者になりたがるパターン。(サディズム)
両者とも、上下関係でいいから誰かと繋がりたい、安心したいという気持ちが働いている。
破壊性
対象を壊すことによって苦しみから逃れたい心理のことである。
どうしても敵わない・邪魔な対象を、殺してしまいたい、消滅させてしまいたい、と考える。外側に攻撃性が表出するパターンである。
それが自分自身、つまり内側に向かうと、自殺になる。自分を破壊することで全てを終わらせるのである。
機械的画一性
自分が自分であることをやめることである。
自分の思考・感情・意思を放棄して、集団に迎合することにより、溶け込ませて孤独感を埋めようという心理である。
心を殺してまるでターミネーターのように生きる。そこには偽りの「安心」はあるが、幸せはない。
こうして、人々は「安心」を得るために自由から逃げだし、個性を失い、自分を失い、権威に簡単に服従するような生き物になっていったのである。
その受け皿として機能したわかりやすい代表例が、冒頭にふれたファシズムだ。権威ある集団帰属意識を与えるファシズムは、孤独感でいっぱいの民衆を取り込むことに成功した。
しかし、歴史が示すように、その結果は多くの犠牲者と不幸の量産だった。
残された道
では、孤独な私たちは何を頼りに歩んでいけば良いのだろう。
役割でもなく、神でもなく、権威でもない世界に繋がる何かとは、なんだろう。
自発的に自己表現をすることで、私たちは世界と繋がることができる。その最たるもの、つまり先の問いに対する答えは「愛する」ということだ。
愛することは、能動的かつ自発的な活動である。受動的な感情ではない。自ら踏み込み与えることである。愛は他人としての態度であり、性格の方向性のことをいう。
健全に自由に自分と自分以外を繋げるものは「愛」だと、フロムは訴えている。
現代人は、愛について誤解をしている。
たとえば、収入さえあれば、容姿がよければ、愛されることができると条件で考えている人。
または、運命の人が現れ自然発生的に恋に落ち、いつか誰かと愛し合えると思って待ち焦がれている人。
これは間違いだという。
では、どうすることが、真に愛するということなのだろうか。
愛する人というのは、与える人である。
自分のなかに息づいているもの、大切なものを相手に与えることだ。
多くの人は、何かを与えれば、自分から何かが失われるのではないか、損をするのではないかと内心恐怖している。そのせいで、愛する勇気を持てないでいる。
自分の大切なものを自ら与えることができる勇気と、自立した精神をもつ成熟した人格の持ち主が、愛を実践することができる。
モノや力や正しさで相手をコントロールしようとすることは愛ではない。歪んでいる。この歪みはいつか破綻を招く。
愛を構成している4つの要素
愛を形づくる要素は4つである。
配慮
愛する者の生命や成長を積極的に気にかけているだろうか。愛をいくら語ろうとも、積極的な行動に現れていなければ、それは疑わしいものになる。
責任
自分に対して誰かが何かを求められたとき、その要求に応える準備ができているだろうか。自分と同じように他人のことに責任を持ち、その人本人から発せられるSOSに快く応えるマインドセットができている必要がある。
尊重
相手がその人らしく成長していくことを気遣うことである。相手の行動や思考を自分の都合のいいようにコントロールしよう、というのは、利用しようという意図が介在している。母親が、子どもを自分の思い通りのいい大学に進学させよう、良い会社に就職させよう、と過干渉することは愛ではない。
なぜなら、子どもを尊重すべき一つの人格として認める気持ちがそこにはないからである。自分が精神的に自立していなくては、相手に施す余裕などなく、結果として相手をありのままに尊重することもできない。
知る
相手の性格や考え方や価値観を知っているだろうか、知ろうとしているだろうか。
相手のことを知らなければ、その人が真に必要としているものも、その人の発言の裏にある真意も理解することはできない。能動的に知ろうとする態度が、愛するうえで必要不可欠だ。
真実の愛
ここまで読んでくださった方のなかには、愛って存外難しくて面倒臭いな、と感じる人もいるかもしれない。
それもそのはず。ある人を愛する、ということは、その人の周囲・世界・構成するすべてのものを愛するということ、つまり博愛である。
人類全体に対する愛を「友愛」という。
表面的な個人の能力の差や損得など関係なく、無条件に人類全体を愛するということだ。
他人への愛は、自分への愛でもある。人類全体のなかには、自分も入っている。
ちなみに自己愛は利己心とイコールではない。
利己的だということは、自分を愛していないことを意味している。エゴイズムの根底にあるのは、不安と恐れであり、その埋め合わせとして自己中心的な態度でごまかしているに過ぎない。利己的な人は、不幸な人である。
資本主義社会では、愛は失われて久しい。
計算可能性・合理性をもとに行動するようプログラムされた社会を生きる現代人は、まるでみな「商品」である。モノとして人はお互いを見ている。愛がかようはずもない。
自他共に存在を商品化してしまった現代人は、自分の時間やエネルギーを使うことを投資のように考えてしまっている。これは人生を損得で動かされていることを意味している。
また、個人は集団からはみ出さないよう、空気を読み顔色をうかがいながら暮らしている。そんな私たちは、集団のなかにあっても、いつも孤独で、不安と恐れに押しつぶされそうになっている。
そのため、組織の歯車として画一化された仕事や、音や映像のエンターテイメントで、傷んだ心の痛みを麻痺させることにいつも一生懸命だ。
心の鎮痛剤として、様々な商品やコンテンツとして市場に出回る。酒・たばこ・ギャンブル・薬物・背景に哲学のないメディアやゲームコンテンツなどは、その代表作だ。そう考えると依存症というのは、愛のない社会が生んだ社会そのものの病である。
目を逸らすためにインスタントな「楽しさ」「痛み止め」を限りなく消費しながら、身も心も商品として売り渡している哀しい存在が、私たちの姿だ。
愛する技術を習得するための4条件
そんな私たちが愛を実践するためには、何を会得する必要があるのか。
フロムは4つの条件を提示している。
規律を守る
外から強制された仕事の反動で、休日は何もせずダラダラしたくなりはしないだろうか。
愛する技術を身につけるのなら、外側から強制された命令に嫌々でも従うようなトレーニングをしてはいけない。
学校というのは、いわばそうした絶対服従のためのトレーニングである。だから私は個人的に、自分の意志で目的を持ち通うのでなければ、学校は行かなくていいとさえ思っている。
自分の意志こそが絶対の約束である。規律とはそれだ。
自分との約束を守れる人、それが規律を守れる人である。
集中
マルチタスクをしてはいけない。1つの行動だけに集中しよう。社会が推奨する逆が正解である。
あなたは相手の話を聞くとき、次に何を話そうか思案してはいないだろうか。
相手がしゃべっているときは「傾聴」に集中しなくてはいけない。
しかし、昨今流行りの会話術といえば「○○と言われたら○○と切り返す」とか、理論武装としての応酬話法ばかりである。これは全く相手の話を聞いていない。
特にビジネスにおいては、自分の都合のいいように会話の着地点をコントロールしようと、あの手この手で相手に素直に話をさせない。そんなエゴにまみれたノウハウばかりをもてはやしている。
実にくだらない。
他人を愛していない、商品として見ているから、こんな関わり方になる。こういうコミュニケーションの取り方をするようでは、お互いに愛することはできないばかりか、さらに遠ざかる。しかし、今は夫婦間ですらこんな調子ではないだろうか。そりゃ離婚もするよな、と思う。
また、集中という観点では、自己との対話に集中することもまた重要である。
つまり、ボッチでいるトレーニングをする必要がある。
瞑想が現代人に勧められるべきルーティーンなのは、愛することに繋がっているからだ。自分の内なる声を「傾聴」する時間と技術を身につけなくては、自分を見失ってしまう。自分を見失っていては、自立し成熟した人間として愛を実践することはできなくなる。
敏感に、自分の不調や不安、恐れを見直す。それらを誤魔化さず客観的に受け容れる勇気は、すなわち謙虚さである。
そのひとつの方法として確立しているのが、12ステップ・プログラムなのだろう。
だから回復を目指すアディクトって、素敵な人が多いのかな、と納得した。
忍耐
すぐに結果や答えを求めたり焦ったりしないで、地に足をつけて一歩一歩身に着ける忍耐強さが、愛には必要である。
現代は合理主義や結果主義で、速さばかりを評価する。まるで逆だから、愛から離れていくのは当然だ。
私の愛は信頼に値する、そう信念を持とう。他人の可能性を信じる忍耐は、信念によって支えられる。
たとえば子育て。
子どもの精神が健全に発達するためには、保護者や教師やそのような立場にいる大人が、子どもの可能性を忍耐強く本気で信じなくてはならない。
教育とは、子どもの未来を信じ、それを助けること。信念がない教育は教育ではなく、ただの「洗脳」である。そう考えると、巷に溢れる教育という名のカリキュラムは、ほぼどこかの誰かの損得で差し向けられた洗脳コンテンツではないだろうか。
愛はギブアンドテイクではない。愛すれば自分が愛されるだろう、と他人に愛情を押し売りする態度は、愛ではない。
愛すれば、きっと相手の心に届き、相手のなかに愛が生まれるだろうという希望に全身をゆだね、何の保証も見返りもなしに行動することである。
そんな親は、いったいどれほどこの世にいるだろうか。
関心
愛が習得したい技術ならば、常に強い関心をもつことが重要だ。
古典哲学に触れるのが大切なのは、この観点に由来するのだろう。
真に成熟した人間とはどういうものか。それを現代を生きる浅い人間から学ぶことは容易ではない。
古典哲学という作品を通じてであれば、先人たちの叡智に触れることによって、彼らが愛をどう哲学していたのか、偉人たちと時空を超えて対話し学ぶができる。その思想を鏡にして、自分の価値観や在り方を見直すのである。
愛は、以上のように、真剣な想いと弛まぬ実践を通じてやっとたどり着ける険しい道のりであり、簡単においそれと身につくものではないと、覚悟しなくてはならない。
愛を生涯にわたって実践したマハトマ・ガンディーは次のように言っている。
愛とは、一般的に思われているほど単純でもなければ、体得が容易なものでもありません。
愛の道は、綱渡りをしているかのような集中力を要求されます。
そのため、心にごくわずかな隙があっても、たちまち地上に転落してしまうのです。
絶え間ない努力はもちろん、終わりなき苦痛と果てしない忍耐を覚悟する必要があります。
しかしそれによって私たちは、生きとし生けるものが自分の友であることを知り、自分の果たすべき務めと謙虚さを学ぶのです。
愛の道を進む者は、どんな邪念も、嘘も、憎しみも、もってはなりません。
また、皆が欲しがるものをひとりで貯め込んではなりません。
愛とは私たちにとって、最高の義務です。
一切の執着を断ち切り、力の限り理想に向かって進んでいくのです。
【参考文献】