【メンタル】私がもう死にたかったときの話

自殺予防週間(9月10日~16日)が今日で終わる。

死にたい・消えたい。

そう思っていたとき、私はどうだったかな、と当時に思いをはせる。

私はまだ酒を飲んでいたころ、とにかく酒を飲んでいた。

長く生きている気もなく、かといって今すぐ死ぬ気もなく、ゾンビのように酩酊したまま現世をふらふらとしていた。

酒を飲まなくては、現実は直視するには辛過ぎた。

もうやめにしたい。勘弁してほしい。

そう思うけど、自殺するのも憚(はばか)られるのだ。

親に言ったら悲しむから。

先生に言っても解決しないどころかむしろ悪化するから。

大人に言ったって無駄だから。

消えたいなんて言ったら友達に引かれるから。

そんなふうに周りのことを気にしている。

そんな余裕など1mmもないのに。

「生きていても、死んだとしても、迷惑なやつだな」と思っていた。

私の自尊感情は地に落ちていた。ぺらっぺらだった。

しかたない、生きているのだから、死ねないのだから、

元気な振りをしなくてはいけない。

幸せな振りをしなくてはいけない。

「私は問題ないよ!」って言う笑顔をしておかないと厄介ごとに巻き込まれる。

だけど裏では泣き叫んでいる。

そういうときに、

「いいことあるから」「人生まだまだだから」

とか言われたとしても、聞く耳を持てない。

「私じゃないお前に、いったい何がわかる?」

と思う。私ならそう思う。そう思っていた。

「どうせ俺の気持ちなど誰にも分からない」

酒を飲んでいるだらしない人間、一人前でない人間だと思われるだけだと、固く閉じる。

そういう黒い重いモヤモヤを誰にも話せないのは辛い。

それこそ、いっそ消えたい、もう終わりにしたい、と思うくらい、辛い。

そりゃ死にたくもなるよ、と思う。

だから、「もう終わりにしたい」というひとがいたとして、どっちを選んだとしても、私は何も言うまい、と思う。終わりにしたい気持ちもわかるから。

だからTwitterにはそういう叫びがあふれるんじゃないだろうか。

Twitterでなら、誰かわからない状態でなら、言えるから、みんな「死にたい」「消えたい」という思いがあふれて、つい呟くのではないだろうかと思う。

誰にも言えない苦しい気持ちを、もうどこかに吐き出さないと生きていられないから。

そういう意味で私たちは「死にたい」という言葉を口にするのだと思う。

私の感覚では、死にたいよりも、消えたい、だった。

死ぬのはコストがかかるし、迷惑がかかる。

自殺する方法を調べていて、電車に飛び込んだとき電車を止めると何百万もお金がかかると知って落胆した。

これ以上迷惑をかけたくなくて死ぬのに、なんでこれまでで一番迷惑がかかるんだよ…。

いや、一時的なもののほうがまだいいのか?生きてるだけで社会的には負債みたいなもんなんだし…などと考えながらネットサーフィンしていたものである。

何より、楽に死ねる方法があまりない。

銃が手に入れば一発だけど、免許を取らないと猟銃を所持できないし、猟銃を使って死んでは猟師の人たちに後々迷惑がかかるかもしれない。

練炭自殺はどうだろう。一酸化炭素中毒か…室内で気絶できるなら楽そうだけど、事故物件扱いになって大家さんが困るし、車は当時持ってなかったから、レンタカーだとレンタカー屋に迷惑かかるしなぁ。

首を吊るしかないか、しかし、頚椎がしっかり折れなかったら、地獄の苦しみを味わう。それにどちらにしても糞尿たれて死んでるところを、山の保有者と警察が処理しないといけない。それもとんでもない迷惑だ。申し訳ない。

生きていても、死んでも、申し訳ない。

そういう闇を這いずりながら、「消えたいなぁ」と思っていたのが、今までの人生の大半だった。

酒を飲んでいるときだけ、その闇から這い出て、別の自分になれた気がした。

暗くつらい何の面白みもない人生を一瞬忘れることができた。

その一瞬でよかった。その一瞬がほしかった。

休んではいけないほど罪深い人間だと思っていても、とにかく休みたかった。

私は毎日ブラックアウトするまで飲んで気絶していたのだが、毎回もうこのまま目覚めなかったらいいなと思いながら酒を飲んでいた。

つまり、毎日自殺未遂をしていたようなものだった。

しかしアルコールではそうそう簡単には死ねなかった。

そして飲めば飲むほど事態は悪化していって、苦しさは指数関数的に大きくなる一方だった。

そして私は自分のなかで社会的な死に直面して、本当に首を吊ろうと思う出来事があった。

お酒の問題が理由で会社を懲戒解雇されそうになったのだ。

「君はもういらない」「頼むからやめてくれ」

罵詈雑言を浴びせられ、いよいよ終わりだと思った。

もうこのままダラダラと死んだふりのような人生を続けていても仕方がない。死のう。

そう思って「死にたい」ではなく「今までありがとう」を感謝している人に告げていった。

これで終わりにしよう。ちゃんと挨拶してから実行しよう。

そうして自分の真実を話し、感謝を告げることによって、私はちゃんとした自分で人と話せた。

そしたら、ちゃんと理解してくれる人がいることに、その時気づいた。

妻(当時は彼女)が、

「仕事なんてそんなの、どうにでもなるよ!あんた一生懸命頑張ってんの、私見てたから。大丈夫だから。アンタなら大丈夫。」

そう言われた。

そう言われて、救われた。

「そんな風に信じてくれるひとがいるんなら、もう一回、死んだと思って頑張ってみるか」

そう思った。

そのときに、「本当にもうダメだ、終わった、死のう」そう思っていると思っていたけど、私は実は心の底では「まだあきらめたくない、生きていたい」と思っていたことに気づいた。

諦めたくない、生きていたいという本心に従って生きるなら、酒をやめて向き合うしかない。この見たくもないゴミ屋敷のような己の心から目を逸らさずに、ひとつひとつやるしかない。

もう、やるしかない。

私は死ねなかったのだから。気づいてしまったのだから。生きたいって、思ってるんだったら、覚悟を決めるしかない。

結局、死ぬにしても、生きるにしても、私はどっちかを選ぶしかない。

それはどちらも楽な道ではない。

どっかの誰かが引っ張ってくれるようなものでもない。

自分で乗り越えるしかないのだ。全部自分で決めるしかない。選ぶしかない。

そんなら、どうしたいんだ俺は?

どっちにいきたいんだ?

それを真剣に考えた結果、今はまだ生きている。

明日はどうなるかわからない。

酒をまた飲み始めて、中島らもさんのように階段でこけてあっけなくぽっくり逝くかもしれない。

これからも、死にたいと思うことは、結構あるのではないかと思う。

ありふれているから軽いというわけじゃない。

そういう相対的なことが言いたいんじゃない。

各々の人生のなかでどん底に落ち「もういっそふっと消えてなくなりたい」と願うことは、みんなにとって、すぐ隣にあるような身近な感覚なんじゃないか?ということを、私は言いたい。

死はタブーではない。親愛なる隣人である。

私の人生は、少なくともそうだったように思う。

私の上っ面や社会的地位や想像のなかの私しか見ていない人もいれば、私の本当を見てくれた人がいたように、あなたにも、あなたにわからずともちゃんと見てくれているひとが、きっと、いる。

こんな私にいたんだから、あなたにも、必ず居る。

もしまだ見渡してもいないとしたら、それは、これから出会うからだ。

恋人でなくても、かけがえのない仲間だとあなたを大事に思っている人が、きっといる。

きっと出会う。

それに、そんなひとがいなかったとしても、確実にずっとあなたをみてきた人がいる。

それは「あなた自身」である。

あなたの価値は、あなたが生きている限りなくならない。

それは、あなたがとんでもない奇跡の過程でこの世に生を受けて「生きて実態を持っている」というだけで、実は人間というのは、世界に対してとてつもない影響力を持っているからだ。

貴方が生まれてから今日まで。

今まで感じてきたことは、何の価値もなかったのか。

今実現できない諸々以外の持っているものは、どうでもいいくだらないものなのか。

この世にいる人間の誰も、あなたは好きじゃなかったのか。

あなたの人生には、本当に嫌なことしかなかったのか。

あなたの人生は、今まで生きた分で、たったそれだけだったのか。

それは、まだ解が出ていない問題である。

なぜなら、続ける限り、まだ未知数で誰にも予想できないからである。

そして、最も重要なことは、今まであなたが一生懸命最善を尽くしてきたことは、まぎれもない事実だということである。

それは、それだけでとてつもなく価値あることではないだろうか。

私には、これ以上ないほど価値がある誇らしいことだと思う。

しかもこんな苦しい人生を今までやめずに生き延びてきたのだ。

それ自体が、とてもすごいことだと思う。

あなたは、そういう意味で、誇れるものをもうすでに一つ持っているということだ。

私は、そんなあなたのこれからをもっと見てみたい。

私は、私のこれからをもっと見てみたい。

だから、一緒に明日も朝日が拝めたら、それは幸せなことだな、と思う。

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