【哲学】クズがこの世に蔓延る理由(『ゴルギアス』:プラトン)

弁論術などの「技術」を使って「他人を支配すること」。

それは果たして本当に賢い優れた人間がすることだろうか?

この主題について書いた『ゴルギアス』に、今の社会の絶望が凝縮されている。

現代と同じく、古代ギリシャでも、人間は「コントロール欲求」と「権威主義」と「能力主義」に精神を支配されていたといえる。

人間って、本当に同じようなところでぐるぐると悩んでは彷徨っているんだな、と思う。

結局、弁論術にしろビジネススキルにしろ、私利私欲のための「技術」には、何の価値もない。

「自分が正しいと相手に信じ込ませよう」とか「相手を思い通りに操ろう」というのは、古代ギリシャの弁論家が駆使した弁論術の真の目的だが、これはまさに現代社会において「成功者」と世間的に評価されている人々が執着している思考と同じである。

一見すると「他人をコントロールする能力」というのは魔法のようで、得をする優秀な人間や勝ち組になる賢い人間であるための必要条件のように見える。

実際、現代社会のなかには、そのような魔法を使えるようになりたい、どんな手を使ってでも成功することが正義だ、と心の中で思っている人は多い。

そう思うので、自分を「成功者」として認識してもらえるように着飾る。

自分を大きく見せようとして権威を笠に着たり、結果にこだわり他人と比較して能力的に優れていると主張したりする。

しかし、お金や権力や名誉さえ一時的に手に入ってしまえば、何でも望み通りだと心から思えるだろうか、幸福になれるだろうか。

「いつか自分が大したことないとバレるのではないか」

「不正を暴かれるのではないか」

「認識をコントロールできなくなり、低く見られてバカにされるのではないか」

「成功者」を演じることで得た何かは、そんな不安と恐れを抱えることとセットではないだろうか。

抱えた不安や恐れをかき消すために、さらに欲望を満たそうとする。

そうすると、さらに不安と恐れを抱えることになる。

「欲望」と「業」の無限増殖を引き起こし、そのサイクルから逃れられなくなる。

「業」とは、罪と悪のこと。

「業」をたくさん背負うような人生は、罪と悪に塗れて生きる人生。

重すぎる罪と悪を背負って追いかけるほど、お金や権力や名誉は、人々にとって本当に生きるために必要だろうか。

一時的に他人よりも得することができた「成功者」がいたとして、損得で世界を考え自分の欲望を満たすことしか考えずに限りある一生を生き、その事実を認識していながら意に介さず死ぬなら、私はその人生を「虚しい人生」だと思う。

少なくとも、賢くもなければ、優れているわけでもないんじゃないかな、と思う。

なぜなら、社会的な評価(地位・名誉)や社会的な価値(お金)に翻弄されている時点で、その人は他人の価値観に支配されているからだ。

支配しているつもりで、支配されている。

「自分という人間は、他人が存在しなければ、他人が評価してくれなければ、自分の存在を確立できない、自分の不安をぬぐうこともできない。私はそういう軸のない人間です。」

そう証明しているに過ぎない。

自分そのものに向き合うことができなかったから逃げただけ。

死ぬまで他人の目ばかり気にして、自分と向き合うことから逃げ続けただけの人生。

その事実が内心恐ろしくて情けなくて、目を背けるために他人を「使う」という発想しかできなかった、哀れで可哀想な人だと思う。

同情はするが、尊敬とは程遠い。

本当に賢く優れている人というのは、自分そのものに向き合い、謙虚にあるがままを受け容れられる器の大きさを持っていると、私は思う。

最も恐ろしい人生の課題から逃げないで生きることこそ、最も難しいと思う。

その課題を生涯考え続けた人、たとえば哲学者などは、真の尊敬に値する。

現代においては、社会的に迫害されたり差別されたりして苦しんだ経験がある人ほど、そうした哲学的な真理に到達していることがある。

そういう賢者は、人々にわかりやすい煌びやかさや華やかさを持たない代わりに、穏やかで謙虚で、優しい。

損得で物事を考える人間からはバカにされていて、一見損をしているように見えるが、はるかに高い視座で世界をとらえていて、そんな世俗的な損得は意に介していない。

マウントを取るようなことをしないので、リラックスした状態でその人と関わることができる。

成功や失敗で他人をジャッジしたりしないので、その人には素直に想いを打ち明けることができる。

現代は、損得マシーンであふれている。

人間らしい生を生きることを、否定されて育つからだと思う。

私は、教師の先生方をはじめ教育現場に関わる人々は、本当に心から頑張っていると思う。

子どもたちが社会に適応できるように、社会で生きていくのに困らないように、必死で自分の時間を捧げていると思う。

その人たちを否定する気持ちは全くない。

個人の問題ではなく、社会システムの問題だと思う。

社会は、資本主義と権威主義に基づいて構成されている。

合理性と効率化という新しい神の信仰に基づいて行動するうちに、人としての本質を忘れ去った、空っぽの社会。

その空虚な社会に適応するという教育は、子どもから「善く生きる意思」を剥ぎ取ってしまう。

純粋な生命として生まれた子どもたちは、教育という拷問を受けて「今だけ金だけ自分だけ」の損得マシーンになる。

資本主義と権威主義の洗脳という拷問を何とも思わないような感受性の低い個体が、いわゆる「成功者」の才能を持っているといえる。

つまり、既存の価値観の型にはめられ雁字搦めにされても苦しさを感じず、他人の命令をただ遂行する学校生活に疑問を持たず、「成功者」という正解の裏にある罪と悪に呵責する良心を失うことができた個体である。

そういうのを、人々は一般的に「クズ」とよぶ。

クズこそ成功できるのが、この社会で、クズになるように教え込むのが、現代社会の教育ということだ。

だから、世の中がクズだらけになるのは当たり前だし、トップがクズのなかでも選りすぐりのクズなのだから、まともな世界にならないのが道理である。

古代ギリシャの時代から「本当にそれでいいの?」と疑問を呈してきた先人たちの取り組みもむなしく、今まさに世は大海賊時代…じゃなくて「クズの全盛期」を迎えている。

私はそのお仲間にはなりたくないので、これからも哲学から「善く生きる」という美しい信仰のほうを学んで、実践していきたいと思う。

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