【メンタル】「お前が悪い」と誰かを指差す人が抱える感情

自分の悲しみや憎しみを見ないようにするために、どうにもならない(ように感じる)世界に対して「正しさ」で復讐する人は、世の中にたくさんいる。

芸能人の失敗が報道されるたびに、ネット上やマスメディアのコメンテーターには声高に当事者を罵って叩きまくる人が湧いて跡を絶たない。

この現象は、まさにその最たるものの一つ。

自分の悲しみや憎しみは、いったい何か?

それは変えられるものなのか、変えられないものなのか?

自分はどうやって、辛かった経験や気持ちを抱えて、行動を変容させるのか?

そういうど真ん中の課題に向き合うことは、誰しもつらい。私もつらい。そして、よく目を背ける。

人間は元来みな弱い。

だから、人間なら当たり前でもある。

辛い苦しい見たくないものを見ずに、自分が楽で安心して眺めていられるものを見て、誤魔化そうとする。

そのとき安心しながら、眺めるものとは?

「他人の人生」である。

他人の人生には、何の責任もない。

生きていようが、死んでいようが、みな実は自分以外のものの生き死にには基本的には興味がない。

自分と同一視できて、まるで我がことのように感じられるから興味がわくわけで、どこの誰とも知らない人が何か失敗をしたとして、本来ならあまり関心はわかない。

自分の人生から目を背けるために他人の人生を見ているときは違う。

自分の中の「何だからわからない不満や焦り」を誤魔化すことができる、美味しいおやつのように見える。「常識」や「法律」を振りかざして、観客席から嬉々として石を投げる。

他人が、自分が投げた石にダメージを受け、凋落し後悔し痛がり、泣きながら謝る姿をみて溜飲を下げる。

コントロールしたい。

自分が考える正義で、誰かを打ちのめしたい。

後悔させたい。謝らせたい。苦しませたい。

自分には力がある、自分は正しい、自分は悪くない。

自分が少し、惨めでなくなる。

自分が何者かになれた気がする。

自分が少しマシになったように思える。

ほら。自分ばっかり。自分しかいない。

他人を踏みつける限り、自分がその上にいられると。下がいるということは、自分がそれと相対して上にいると思えるから。

他人がどうこうではない。

実は自分が楽になりたいだけ。

人である限り、生きづらい人生であればあるほど、このような外道に道を踏み外しがちだ。

かくいう私もだ。自分が精神的に調子が良くないときほど、他人のツイートが癪に触ることがある。曲解してつい攻撃的なリプを叩き込んでしまったりして、いつも後悔する。

我ながら、未熟にも程がある。

しかし、それが包み隠さず今の私そのままだ。

「お前が悪い」

そう責めるのは実に甘美だ。

まるで、苦しい胸の内を忘れ楽になれる、麻薬のようなものだ。

「私は悪くない」と逆説的に自己肯定ができる。だから、つかの間安心できる。

正義と悪の構図で、常に正義であり続けることは、マウントをけしかける張本人にとってメリットがあるのだ。けしかけられた側は堪ったもんではないが。

だから皆、勝てる土俵で「正義のヒーロー」になりたがる。

犯罪は、明らかに罪を犯した人が悪い。

悲しんできた人がいるから罪になっているわけで、それを責める立場に立てれば、正義の座に居座り続けることができる。

まさに常勝。この上なく美味しい試合である。

正義の座。

その椅子は、さぞや座り心地がいいだろう。

しかしよく見てみると、正義でボコボコに殴られた者の無残な返り血や肉片が、そこら中にベットリとこびりついているのだ。

そんな呪われた椅子に座る者に明るい未来などあるわけもなく、座って胡座をかいているうちに、自分自身の精神はどんどん貧弱になっていく。椅子自体はどんどん下に堕ちていくのに、座っている人は気がつかない。

椅子から立ち上がることもできなくなるころに、こんなことをして浪費するべき時間はなかったことに気づく。時すでに遅し。時間は巻き戻らない。

自分の人生は、自分の足でしか這い上がれない。

上がりたいなら、他人を落とすことに躍起になるのではなく、座り心地が良くても椅子から立ち上がり、一歩一歩踏みしめなくては。

私はとても悲しい。

その人たちは、まず自分のことを見たくないのだ。そして、「見たくない」と思っていることそのものも、見たくないから、二重の否認のなかにある。

今が実は一番苦しいんだと思う。

他人を叩いてほくそ笑むその裏で、苦しみにのたうちまわっている真心が見える。

かつては誰かに石を投げつけられたかもしれない。

うまく登れないことを責められ、急かされ、悲しい思いをしてきたのかもしれない。

あなたも、そういう経験があるのではないだろうか?

私は信じたい。

そんな人たちにも気づきや出会いが与えられ、いづれは自分のなかの真実にたどり着き、他人の人生を出汁にしなくても、自分自身を楽しく潑剌と生きていけることを。

人は間違える。

完璧ではない。

だから法律というルールが創られた。

失敗から成功が生まれ、少しずつ少しずつ改善されて今があり、今もまた完全ではない。

今、間違える人を責めて、何になる?

逆の立場で、あなたは何を感じるだろうか?

当事者だとしたら、あなたならどうしてほしいだろうか?

私が悪かった、と思うことは、わたしには数え切れないくらいあり、その罪も償い切れないくらいある。

可能な限り謝ってきた。受け容れてくれることもある。理解してもらえないことも、拒絶されることもある。

その罪も引き連れて、それでも一歩を踏み出す勇気が、ヒトの美しさだと思う。

痛みを知っているぶん、ヒトは強く優しくなれる。

私は、そうでありたいな、そうであったらいいな、と思う。

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