【AC】承認欲求のベクトルを「自分」に合わせよう

私はこうしてブログを書いているわけだが、趣味の領域を出ていない。

素人の戯言で、プロとしてお金をもらって文章を書いている人には遠く及ばない。

父が執筆者として、書道を通じた表現者として、成功している。膨大な量の書を読み、凄まじい回数の研鑽を経て、今の技術を獲得しているところを見ると、まあ単純にトライしている回数も知識もまだまだなのだ。

悔しいがそういうことを自覚する。

そのために文法や表現の本を読んで地道に学んでいるのだが、たまに虚しくなり、こんなことをしていても誰にも顧みられることなく、だれかにいい影響を与えるでもなく、ネットの片隅に埋もれるだけなのかな、と思ったりする。

仕事でもなんでも、他人に力を認めてほしい、正当に評価してほしい、せめて認識してほしい、と思うことがある。

世の中で持て囃されることの心許なさ

実力、というのは、厳然たる事実としてあると思う。

長く競争の場に身を置いてきて、やはりそうだと思う。

サービスや創作物で表現したパフォーマンスを、一部の側面で評価して横一列に並べてどうのこうのいうのは、人間の趣味というか、結構みんなやりたがる。

しかし、実力を評価する側がちゃんと見れているか、といえば、それは必ずしもそうではないと思う。

大企業の人事であっても、優秀な人を見抜けない人もいる。
例えば私の先輩はすごく担当している施設でもエリアでも頼られ求められている尊敬すべき人だが、会社ではリストラ対象の槍玉に挙げられて悲しそうにしている。
見る人の成熟度によって、人を評価するというのは見え方が違ってしまって、いくら母体が大きいからといって、信頼できるものではないんだな、と思う。
権威があるから、組織が大きいから、経歴が立派だから。
そうした後ろ盾が必ずしも信頼できるとは限らない。
時代が追いついていないこともある。
詩人で言えばエミリー・ディキンソンだし、音楽家ではシューベルト、画家のアメデオ・モディリアーニなど、死後に評価される芸術家はたくさんいる。
良いものを作っていたとしても、それが世の中で良いとされるまでにはタイムラグがあったりする。
ミシュランもそうである。
ミシュランの二つ星や一つ星のお店にはお目にかかることがあり、たまにお邪魔するのだが、実は客の足元を見るような店だったり、接客はそこまで一流ではなかったりする。
客として行って、本当に良い店とは限らない。
審査員にとってよかったというだけで、それ以上でもそれ以下でもないのである。
つまり、本質的な価値というのは、人それぞれに基準があり、そのどれも正しい。その人の中ではそれが全てだ。
比較的多数の人が選ぶ傾向にあるものを世間的に価値がある、としているだけで、それが本当に普遍的な価値があるとはいえず、普遍的な価値を持つものなど、この世のどこにも無い。

じゃあ何に価値があるの?

結論から言えば、自分にとって本物で、価値があると信じられるものであればよい。
それ以外の大事な基準などないのかもしれない、と思う。
そりゃあ目に触れる人が多いに越したことはないし、金はたくさん入るし、インスタントに動かせる人の人数は増えるだろう。
気分はいいだろうし、何者かになれた気もするだろう。
それを求めること自体は、活力になるのであれば悪いことでは無いと思う。
認められていてもいなくても。
見てくれる人はきちんと出会うし気付く、ということは確かだなと生きてきて思う。
それを曲げて他人をどうこうしよう、ってのはもうイネイブリングだし、そうして一時的に操作できたとしても、いずれ離れていってしまうだろう。自然な状態を捻じ曲げているから。
できる範囲で真摯にやってさえいれば、それが最高のパフォーマンスであり、自分自身が「精一杯やったかどうか」と自分に問うたとき自信を持って頷けるのであれば、もう100点満点だと思う。
その辺りのことについて、『ばらかもん』というアニメ是非見てほしい。
とても丁寧に描かれていて、自分の個性や承認欲求、謝罪にどう向き合うかを、美しい五島列島とそれ以上に美しい人間関係のエピソードが紡ぎ出している。

内向的な承認欲求と外向的な承認欲求

人に認められよう、俺を見ろ、今に見返してやる、という外交的な承認欲求をカンフル剤にするのは、行動を促す激烈な効果がある。
すげー頑張れる。
でもいつか疲れ果てる。
元気の前借りのように私は感じている。
おそらくノルアドレナリンの分泌による一時的なもので、依存物質で言えばカフェインみたいなもんだろう。
何か思いついたりやっているときに、体の中心が光るように暖かくなって、思わず笑みがこぼれるような、そんな瞬間はないだろうか。
自分の興味やワクワクで改良していく気持ち。
こうやってみたらどうなるんだろう?
これをこうしてみたらもっと良くなるかも!
そういう内向的な承認欲求(自己実現の欲求)を持っている状態、すなわち己の興味に忠実に、誠実に、何かに夢中になっているとき。
本来はこれだったはずなのだ。やりたいと思った根源は。
元々の動機はこれだったはずなのに、外向的な承認欲求に引っ張られて走り続けた結果、遠回りをしている。
私はこんなものを目指していたんだっけ?と途方にくれることになる。
なぜ遠回りをしたかと言えば、私自身の欲や驕りがまとわりついて、本来の夢中になっていた内向的な承認欲求のベクトルとは違う方向に舵を切っているからだ。そのことにずっと気づかなかったからだ。
認められるために。
褒められるために。
それは本当に私がしたかったことだろうか。
そんなしょうもない動機を突き抜けた、素晴らしさに私たちはすでに出会っている。
みんな、実はやりたいことをもっている。
すでに何をすれば一番自分の中で満足いくのか知っている。
そして、その輝きを追いかけている人は気づく。
その内面の輝きを追い求めている人は気づく。
つまり、気づく人は気づく。
導かれるように出会うのだ。
コントロールしようとしなくても。
私はもっとそういうことを思い出しながら、「自分がしたいことをする」という最大の娯楽をもっと楽しんで生きていきたい。

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