【AC】何が正しいことかわからないけれど

『平安の祈り』というものがある。

神様 私にお与えください
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられないものは変えてゆく勇気を
そして二つのものを見分ける賢さを
今日一日を生き
この一瞬を享受し
苦しみを平和に至る道と受け入れますように
この罪深い世界を私ではなく神様の御業として
あるがままにうけとめられますように
神様の意思にゆだねればすべてをあるべき姿にしてくれると信じられますように
私はこの世を生きて幸せでしょう
神様と共にあることにこの上ない幸せを感じる事ができますように
永遠に
私は、素直にあるがままにあろうとすることを恐れているし、今もそれは、常に勇気が必要である。
なぜなら、そうやって生きてきて、私は多くの人に嫌われたし、親にも苦しそうな顔をされてきたから。
素直にあるがままに、自分の気持ちや考えを話すことは、私の精一杯の信頼の証である。
私は恐る恐るではあるものの、徐々に話すようになったと思う。
ただ言いっぱなし聞きっぱなしで聞いてくれる仲間に出会い、ようやく自分らしくあることができる居場所を見つけ、回復に向けて励んできたつもりである。
他人には理解され難いことを話す前、私は手が震えるし、喉がカラカラに乾いてはりつく。
内容によっては、なんとなく受け入れられていない雰囲気を感じることもある。
それでも、私はそうでしかない。
私はそれでも、『私』を話すしかない。
正しいだけの道を歩もうとして、無理をしてエチルアルコールで脳を壊し身体を壊した。
私は正しさだけでは生きられなかった。
だから、私はあるがままにあるしかないし、棚卸しをし続けて、己の本質をさらけ出し、己の内面を見つめ直し、自己受容していくしかない。
それを貫くとき、主義主張が違う人にはもちろん出会う。
私は、それぞれの主義を貫いて生きたいように生きていく権利が誰にでもあると思っている。
私は、ブログを書きたいように書いている。
誰に宛てるでもなく、頭に浮かんだことを書いている。
私のそのままをかける場所として、とっても貴重で神聖な場所が、このブログである。
私は、私がここに書くことについて、誰にも遠慮したくない。
誰かに配慮したり、気を遣ったりした瞬間に、私の言葉は私そのものから離れていく。それではやる意味がない…書く意味がない。
私を含む誰の心にも届かないモノに成り下がる。それだけはやりたくない。
私は今日何が書きたかったのか、実はよくわからない。
うまくやろうとすると、だいたい凡ミスをする。配慮したつもりがアダになる。
うまくやろうとするから、うまくいかないのだ。
疲れ果てるまで繰り返そう
違う

上手くやろうとするんじゃない百回でも千回でも

初めてのように

何も持たない赤子のように


『バガボンド』 第33巻 内側の音楽 より

毎回、初めてのように繰り返し繰り返し。
その積み重ねのなかに、しっくりくる感覚がある。それが体に染み込むまで繰り返す。
心臓のように、生きることに忠実に素直に、拍動し続けていたい。
たぶん、正しいかどうかではないのだろう。
自分を生きることに真っ直ぐにあろうとするなら、軸はそこではない。

剣に生きると決めたのなら正しいかどうかなどどうだっていい感じるべきは楽しいかどうかだ

『バガボンド 』第32巻 無刀だとかの類 より

感じるべきは、楽しいかどうかだ。
私はそれを、薬物依存でもなく、プロセス依存でもなく、健全でナチュラルな世界で見つけて感じることに、真っ直ぐでありたい。

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