私は他人と一緒にいるだけ、しゃべるだけで、ヘトヘトに疲れる。
そんな人はいないだろうか?
なぜ私は人としゃべるだけで疲れるのか
それは、勝手に自分で自分を傷つけるからだ。
言葉や行動の裏を読もうとする自分の思考に殺されるので、ヘトヘトになる。
たとえば、職場で私が主幹になって進めているプロジェクトに関する作業を、私には連絡がなく進めている同僚がいたとする。
その場合、私の頭のなかには以下のような言葉が浮かんでくる。
上司「あいつは使えないから、他の奴に依頼しよ」
同僚「このくらい気づいておまえがやれよな、余計な仕事増やしやがってよ」
これらは実際に言われているわけではない。
私が勝手に「彼らはそう思っているのではないか」と想像しているだけ。
しかし私の頭はまことしやかに彼らが私を侮辱しているように認識する。
それはなぜだろうか。
私が「恐れ」を抱いているからである。
いじめられた痛み。嗤われた痛み。受け容れられなかった痛み。
私の心は「もうこれ以上同じ痛みを感じたくない」と痛みを恐れて絶叫する。
パニックを起こして防衛本能から、体験しうる痛みをリスクとしてすぐ想起する。
「傷つくくらいなら自分で自分をあらかじめ刺しておけ」と言わんばかりに、言われるシチュエーションを疑似体験する。いわば、勝手にまだ刺されてもいないのに自傷する。
もっと深いところでは、悪く思われるのではないか、嫌われるのではないか、ということを恐れている。
親の顔色を窺って、友達の反応を窺って、びくびくしながら過ごした幼少期。
「暗黙の了解」や「言いたいこと」を「言わなくても察する」。
これがADHD・ASD併存の私はとても苦手だった。
人間はそんなに勇敢ではないので、言葉にできない主張を態度や表情に滲ませる。
そうやって滲ませた主張を全く受け取ってもらえないと、今度は怒りを滲ませる。
そしてそれも汲んでもらえないとなると、怒り出す。
その一連の流れを汲み取れない私は、何度も周囲の人間が「なぜか突然怒り出す」という体験をしてきた。
それは恐ろしかった。
地雷が埋まっている一見問題なさそうな道をずっと進んでいるような感覚だった。
だから、一挙手一投足を観察してあれやこれやと「気分を損ねていないか」検索する癖がついている。
そして、滲ませた何かを拾えなかった結果怒り出した過去の人たちの亡霊が、私の脳内で「気分を損ねたパターンの発言」としてインストールされた。
生き抜くためのご機嫌取りの呪いにかかっている。
だから、他人といるだけで徐々に擦り減り、しんどくなる。
他人の本音はわからない
「本人に素直に聞けばいいじゃない」
たしかにそうだ、と聞いてみると、
「そんなつもりはないよ、ハハハ」と返されたとしよう。
それが嘘か本当か。
それは本人にしかわからない。
つまり、どう答えられたとしても他人である私に真実は分からない。
つまり、コントロールすることもできないし、確認することもできない領域、アンタッチャブルだ。
ならば、相手の心理と言動というのは、実は結局「自分がどう受け取るか」によって決定される。
私は今までインストールされた呪いによって「悪意」という本音が隠されている前提で受け取っている。
ならば「善意」が本音だという前提で受け取るように書き換えればいい。
真実はどうだかわからないが、私の現実は私が決められる、ということだ。
「他人の本音は善意だ」と捉える生存戦略
「深く考えない」という技術は、私にとってとても重要で、発達の特性上最も難しい。
しかし、幸せに人生を送るうえでとても重要な感性として「鈍感さ」があるように思う。
ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』をご存じだろうか。
主人公のチャーリイ・ゴードン。
知的障害を抱えており6歳児程度の知能しかない彼は、パン屋で地道に働きながら、障害者向け学習クラスに通っている優しい32歳だが、障害にコンプレックスを抱えていた。
ある時、学習クラスの担任アリスは、大学のつてでニーマー教授、ストラウス博士を彼に紹介する。2人は知能発達に関する研究者で、チャーリイを最新の脳手術の臨床試験にリクルートしようと考える。
脳手術の動物実験によって賢くなったハツカネズミ「アルジャーノン」に感動した彼は、脳手術を承諾。実験によって彼はみるみる頭が良くなり、後天的天才になる。
「もっと賢くなれば」、そのコンプレックスを解決できると思っていた彼は、まさに望んでいた現実を手に入れるのだが、それはいいことばかりではなかった、というお話。
チャーリイが、今まで優しいと思っていた周囲の人の笑顔は、知能が低い自分をバカにして嘲笑する笑顔だった、と気づくというエピソードはまさに象徴的。
深く考えず、純粋に他人のことを「いいひとたち」だと信じていたころのほうが、彼の世界は優しさにあふれた幸せな世界だった。
結局本作では「偽り」だったわけだが、現実では先に述べたように「本当のところは知り様がない」。
ブラックボックスの中身を「良いもの」か「悪いもの」か決めるとしたら、チャーリイのエピソードから考えると、「良いもの」と決めてしまったほうが、世界は愛すべきものになる。
自分をありのまま肯定すれば世界は裏返る
信仰といってもいいだろう。
相対している他人の性質は善か悪か。そのどちらを信じるか。
善だと信じる人と悪と信じる人の違いは、自分を肯定しているかどうかだ。
前提に自己肯定感があると、そんな「私」を他人が悪く思う可能性をまずはあまり考えない。
そして、自分で自分を肯定しているので、他人に肯定される必要がない。だから、もし悪意があったと分かっても「あなたの問題」「あなたはそうなんだね、私は私を好きだけど」と「例外」として自己評価から切り離すことができる。
前提に自己否定があると、自分を他人が悪く思うのは当然だと受け容れてしまう。
歪んだ自己評価を補強する「客観的事実」として受け取るので、傷つく。他人を、自分のなかの自分をさらに下げてくる外敵として認識する。その結果、恐れるし敵意を持つし恨みも抱く。
実は他人が嫌いなのではなく、自分が嫌いなのだ。
受け容れてくれない他人ではなく、自分を受け容れられない自分の問題。
私は空気が読めない。
他人の心情を想像するのが苦手だ。チャーリイが知的障害を抱えているのと同じに。
そんな自分を、欠点も含めて受け容れる。
誰しも、何かが欠けている。一人では生きていけない。だから社会がある。
「もっと空気を読めれば」
「もっと賢ければ」
それは自己否定だ。欠けているから自分なのに、それを必死に埋めようとして、結果的に世界を敵に回すのだ。本当はもっと世界に繋がりたくて、さびしいから、やっていたのに。
つまり、アプローチが根本的に間違っているということだ。
まずは、自分の至らないところ、良いところ、それをあるがままに、それで充分100点満点だと思おう。
私が私のままで愛すべき存在であるように、これを読んでくれている皆さんも、そのままで愛すべき価値がある存在だ。
それを実感として与えてくれる「母親」が、たまたま不在だっただけ。
よく、そんな大きな喪失を抱えて、ここまで生きてきた。
それだけで、その人生が、あなたを肯定している。
苦しくて寂しいけれど、できるだけそれを何とかしたいと思って、一生懸命生きてきた。
あなたがあなたとして生きてきた証が、あなたを愛すべき存在であると実証している。
自分で自分をいじめるのは、もうやめよう。
チャーリイが、アルジャーノンに花束を贈ったように、自分自身に花束を。