【AC】STEP11:信じるベクトルを変える

以前、「私は無神論者だ」という旨の記事を書いた。(【依存症】神を信じない人のための「ハイヤー・パワー」

しかし正確には、私は『不可知論者』だそうだ。

7月20日に開催されたプログラム・フォー・ユー勉強会も、大変勉強になった。

「神様に対する考え方」の持ち主は、全部で3種類に分類されるという。

1、無神論者…神は存在しないということを信じている人。

2、不可知論者…神はいるとも、いないとも言えない、自分にはどちらも証明することは出来ないという人。

3、信仰者…神は存在していると信じる人。

この分類でいくと、私は2だなと思う。

いるともいないとも言えない、神様が実在しないということは私自身確証をもって論理的に否定できないし、いるというにはあまりにも世の中がまともではないので、皆が言うような神様仏様は信じ難い、という感じだ。

今後は不可知論者として自己表明していこうと思う。

理性という神

さて、勉強会のなかで大変興味深かったことが、不可知論者としての私が信じてきた信仰に気づかされた以下の言葉だ。

「私たちは、理性を神に見立てて忠実に信仰してきたのではないだろうか」

この発想は目からうろこだった。

たしかに。たしかにそうだ。

私は自分の「理性」が万能のように思っていなかったか。

理性こそが自分を律し正しい道に導くと信じてきた。あらゆる人から成熟した人間としてそうすべきだと教えられてきた。

しかし、実際はどうだ。

将来設計も、己の日常生活も、酒を飲むということすらも、理性ではどうにもならなかった。理性ですべてをコントロールできる、という夢物語のような信仰はことごとく裏切られてきた。

理性、いわゆる大脳新皮質、特に前頭前野を、まるで「神」のごとく信奉して生きてきたように思う。

つまり、現代人は、不可知論者を自称しながら、その実「理性」という神を崇め奉る信仰者である。『理性教』の信者だ

「信じる」という力のベクトル

そう考えると、私たちは「信じる」という力のベクトルに導かれて、今までの人生を歩んできたのではないだろうか。

今まで信じるものは「理性」という神だった。

なんとなく「神様」に拒否反応を示すのは、なんだかよくわからない、いるんだかいないんだかわからない「自分の外側にある得体のしれない神」を信じ込まされるのではないか?という警戒心からくるという。

めっちゃわかる。

信じるのはあなたの勝手だけれど、私に信じることを強要しないでくれ、というのが、まさに私が感じる抵抗感である。

だから、仏教もキリスト教もイスラム教も神道も、なんだか胡散臭いと今も思っている。

だから、12ステップ・プログラムの本に「神」という単語が出てくると、眉をひそめる。

それは、私の警戒心だということか。

そのような、外側にいるよくわからん神を信じなくてもいい。

私たちがSTEP11でするべきことは、「信じる」ベクトルを変えることだ。

今まで他人も自分も何も信じてこなかったと豪語してきた私ですら、「理性」という神を信じることに導かれて生きてきた。その事実から、人は信じることをやめられないということがわかった。

やめられない。何かを常に信じている。信じることが、生きることとセットだともいえる。

そう考えると、切っても切り離せないなら、今まで信じてきた神様である「理性」を信じるのではなくて、別のベクトルに「信じる」をシフトする必要がある。

「理性教」の信者としての私はどんな信仰だったかと言えば、

「こんなに欠けていて至らない私が幸福になれるはずがない」

「努力が足りない自分が成功するはずがない」

「自分が間違いを犯すのは理性を働かせていないからだ」

「正しくあらねばならない、強くなければならない、自分で責任を取れる行動をしなくてはならない。だって理性がある大人なのだから」

こんなクソ堅苦しくてしんどい信仰だった。

そして世界はその通りになった。理性で本当の自分を押さえつけようとすればするほど、ストレスはたまり、動きは固くなり、成果が出ず、喜びも幸せも遠ざかり、人々はもっと遠ざかっていった。

そして私の友は長らく酒だけだった。

つまり、もう大失敗なのだ。「理性教」は悪徳宗教だったということが、今までの人生でもうばっちり証明されている。

「理性教」よりも確かな「信じる心」

では、何を信じようか?ということになる。

「理性教」はダメだった。他のキリストだの仏陀だのも胡散臭い。

それならば、「内なる神」はどうだろうか?

「内なる神?」そんなもんがいるのか。

よく振り返ってみよう。

「理性教」を信じていたときでさえ、私の内には、私にはコントロールできないほどの大きな力の流れがあったのではないか。

それは、「『理性教』を信じる私の世界観を世界に投影する」ほどの強大な影響力を持ち、私が思い描いているその通りに地獄を実現させてきたではないか。

ダメだと思う自分をどんどんダメにして、今こうして問題に向き合えるチャンスを与えてくれて、出会うべき仲間に声をかける勇気をくれた、いつもそばにあった得体のしれない大きな力。

それが、12ステップ・プログラムがしきりに言う『ハイヤー・パワー』という物の正体なのではないかと思う。

つまり、なんかめっちゃすごいホーリーな何かがこの世にいて天地創造したりしてこの世のすべてをコントロールしてます☆的な胡散臭いパワーではなくって、私が今まで生きてきて、いつも傍らにい続けてくれる力。私たちそれぞれの応援団、小さな内なる味方。正しい道ではなく、いつでも「私が望むように」道を拓き助けてくれようとする力。そんな力が、「ハイヤー・パワー」だと考えてみると、私はとてもしっくりくる。

若かりし頃、伊達公子選手を育てたテニスのプロコーチ、田中 信弥プロが合宿に来てくれたとき、こんなことを話してくれた。

「毎晩、君がなりたいプレーヤーの姿を思い描いて、そのようになれると信じて寝るといい。ウインブルドン(イギリス・ロンドンのウィンブルドン (Wimbledon) で開催されるテニスの4大国際大会の一つ)の決勝で世界ランクNo.1の選手とフルセットで戦って勝つシーンを、鮮明に思い描いてみてほしい。そうすれば、君は本当にそうなろうと勝手に行動するようになる。そして、気が付いたら思った通りになっているんだよ。」

当時高校生でこの話を聞いた当時、私は「このおっさん、とんでもねー嘘つきだな」と思った。

「願うだけで何でも叶うなら、みんなウインブルドン優勝しちゃうじゃん、そんなわけねーじゃん」と思った。

でも、今思えばそういうことを言いたいんじゃないんだな、と理解できる。

「なりたい姿を思い描く」ということは本当に強力な引力をもつ。まさに、「信じる」力の強いベクトルが働くのである。

こうなりたいな、と思って街を歩いていると、理想像に近い人を無意識に目で追っている。何をしているかをよく見る。いつどんな風にどんなことをすれば、この人みたいになれるのか、勝手にアンテナが高くなる。

情報を無意識に脳に集積していった結果、ある日突然「あ、こうしてみればいいのかな」と思いついて、それを即座に実行しだす。

なりたい姿を思い描いたことが、実際に行動を変容させ、自分自身の世界を変えていく。

これは、いつも、いつでも、誰のもとにもある、強力なその人だけの専属サポーターのように、悪い想像も良い想像もその人の願望としてとらえて実現させるために私たちを引っ張ってくれる。

『魔法騎士レイアース』をご存じだろうか。

私は大好きである。CLAMPはある意味神だと思う。

主人公たちが飛ばされて冒険する異世界の「セフィーロ」は、意志の力の強さが全てを決める世界で、信じる心が物語を左右する重要なカギになっていく。

「セフィーロ」のように、私たちが生きている世界も信じる心がとてつもなく重要で、自分を、他人を、そして幸せを信じることが、この世においても重要なカギなのではないだろうか、と感じる。

頼れる協力者『ハイヤー・パワー』君にアウトソーシング

つまり何が言いたいかというと、もう全部任しちゃえばいい、ということだ。

私たちはSTEPを行っていくうちに、コントロールを手放した。自分のことすらも、コントロールできない無力な存在が私たちだ。

だから、未来がなりたいようになるかどうかは、もうこの頼りがいのある専属サポーターの『ハイヤー・パワー』に任せて、私たちは他のことに没頭すればいい。

他のことって?

それは、今ココである。

瞑想や祈りを行なうのは、こうした「願いの実現」を『ハイヤー・パワー』君にアウトソーシングして、過去を憂うのでもなく、未来に浮足立つのでもなく、今ココのみに集中して一生懸命生きることに100%己の力を注ぐためだ。

なぜなら、私たちが「変えられるもの」は今ココの己の行動だけだからだ。

そのほかは、アウトソーシングした『ハイヤー・パワー』君が全部やってくれると信じる。信じて任せる。信じて手放す。

そうすると、そうするからこそ、未来は願った通りにすべて用意されていて、願った通りの世界にたどり着くようになっている。

なぜなら、今までそうだったから。これからもそうである可能性が高い。

そうでなかったとしても、私にはもうコントロールできないことだから、『ハイヤー・パワー』君を信じて任せる以外にできることは無い。そもそも分不相応なことだったのだ、過去や未来や結果をコントロールすることなど。

「われわれの意志といのちの方向を変え、自分で理解している神の配慮に委ねる決心をする」

出典:『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷 138Pより引用

正しくあらねばならないと律し罰するようなのは、私たちがこれから信じる神ではない。

それは、今まで信じてきた「理性」という神そのもの。

かつての信仰を捨て、私は、今までいつもそばにいてくれた協力者である『ハイヤー・パワー』君と人生をよりよく生きるということについてアライアンス契約を結んで、お互いを信頼し合いながら共に歩んでいきたいなと思っている。

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