【依存症】神を信じない人のための「ハイヤー・パワー」

私は神様は信じていない。

無神論者である。

神様がいるなら、もっと世の中は幸せに満ちているだろうと思う。「むかし祈ったって助けてくれなかったじゃんサボんな」というのが本音だ。

しかし、私は12ステッププログラムを進めていくうえでどうしても「神」について考えなくてはならなくなり、ことに「ハイヤー・パワー」については、「はあ??んなもんあるわけねぇだろーが。」という気持ちをどうしても抑えられずにいた。

神がいるとしてこの世を創ったとしたら仕事が甘すぎる。もう少しマシなものにできただろと思う。それはいまでも結構変わらない。

しかし、昨日受けた講義で、ハイヤー・パワーというものの正体に少し近づけた気がする。

本当にこの『プログラム・フォー・ユー勉強会』はわかりやすくて丁寧で、12ステップ・プログラムに取り組んでいるひとにとってとても有意義な講義だ。時間が許すならぜひ参加してみてほしい。

回復のベクトルと中心にあるもの

人生はどのようにして構成されているか。

人の構成物質は「酸素65%、炭素18%、水素10%、窒素3%、カルシウム1.5%、リン1%、その他1.5%」だが、それに加えて魂があると考えるのが、霊的な考え方である。

そして、人というものの在り方は、『独りでは生きていけない』という特性がある。

私は長い間独りで生きていると思っていたが、それは大きな勘違いで、社会的な生物である人間はそれぞれ役割分担をして、完璧でないお互いを補いながら、生活を続けることができている。

つまり、『お互い助け合う』ということなくして生きてはいけないので、欲とは別に、人間は『善行を積む』という一定の方向性、つまり『良心』が魂にプログラミングされているのではないか、と考えることができる。

人は、基本的に何かいいことをしよう、という風にできている。性善説である。

魂は、そういう意味では内的資源で、人である限り誰もが持っていると言える。

魂を、アメリカの人々は『創造主である神が与えたのではないか』と考えたのだろう。

そうすると、「内なる神」=「魂」なので、自分を超えた大きな力でありながら、自分のなかにすでにあるものであり、それは自分の力ではなくて、外部から与えられた『変えられないもの』として位置づけることができる。

私は神は信じないけれども、魂はあると信じることができる。

私が確かにこの身体を介して世界と接している本体。それは魂であり、私が好きな唯識思想でも人は意識で世界を創り出しているとしている。

「知覚すること」が、世界を「認識」させる。つまり、魂が世界との境界線を私に見せてくれていて、この目に映っている世界が構成されている。

思想が違えど、このなかにある魂について、ある一定のベクトルで己を導くプログラムが、人生のOS(オペレーティングシステム=システムを動作させるための基盤となるプログラムの総称)に組み込まれているととらえている。異なった宗教でもそのようにとらえるということは、生物的な在り方としてそれが妥当であり確からしいと考えられる。

だから、魂は全ての人の中心に在り、それこそが「回復の力」になるんだと思う。

だから、回復の力という原石は誰にでも確かに内に秘めているはずで、誰にでも回復できる可能性があるという希望でもある。

そのままの魂を隠すもの

しかし、厄介なことに、この魂を覆い隠すものがいる。

それが、欲や感情だ。

不安・恐れ・恨み・憎しみ・悲しみ・喜び・驕り。

相手よりうまくやってやろう。出し抜いてやろう。

人より得をしたい。みんなよりも優れていたい。

つまり、他人と比較すること。他人の反応に左右されること。

それに目を奪われだすと、魂の周りに重たくて剥がれにくいものがワサワサと纏わりついてくる。

本来純粋に感じていた、「ああしてみよう」「こうしてみよう」「こうしたらどうなるんだろう」というワクワクや好奇心を殺してしまう。

どんどん本来の感情が見えなくなり、正しさや勝ち負けに覆い隠されて行って、自分が何をしたかったのか、見えなくなる。

そう、魂が、見えなくなるのだ。

だから何をしても「なんか違うような…」という得体のしれないイライラと焦燥感に襲われる。与えられたものにも満足できなくなる。どんどん嫌いな自分になっていく。

最後の一節である。

最後に振り返ると、あなたにもわかるはず
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。
あなたと他の人の間のことであったことは、一度もなかったのです。

「内なる神」を、「あなたにもともと与えられた魂」と置き換えると、しっくりくるのではないだろうか。

私たちは導かれるように、魂が目指す方向に向かって進んでいる。

その過程で、出来事に意味を持たせるのは私たち自身である。

「気持ちの問題」という言葉があまり好きではないが、これはある種真実で、どうとらえるか、どう受け取るかは、私たちは選択することができる、ということだ。

今ある状況を、あなたはどう感じるだろうか。

哀しいだろうか、うれしいだろうか。

こんなはずじゃなかったと嘆くだろうか。

予定通りだ、俺の実力だ、誰のおかげでもないと吠えるだろうか。

それらは、あなたが真心から感じている限り、魂で感じている限り、すべて正しい。

誰がなんと批判してこようと、正しい。

あなたの世界の感じ方は、あなただけが決めることができるからだ。誰にも否定できない。

感じ方は、自由でいい。そう思えば、自分の感情をジャッジしなくて済む。

「これは感じてはいけない」と蓋をせずに済む。

そういう素直さを取り戻していくと、少しずつ纏わりついていた余計なものを振り落として身軽になっていく。

生まれたばかりのころに感じていたはずのワクワクした気持ち、新鮮な驚きや喜びが蘇ってくる。

そのように、魂を見つけ、磨いてよりちゃんと見つめるために、12ステップ・プログラムという道具がある。

あなた以外の強い何かが、あなたの奥底には宿っている。

神はいないかもしれない。

というか、いないと思う。

でも、私たちは自分が知覚していることが全てだと思い込んでいるけれども、確実に生物として何かに設計されプログラムされている。

それが本能に加えて存在する、魂というOSであり、本能のみで生きる他の動物とちょっと違う、人間が人間たるゆえんではないだろうかと考える。

知的生命体という意味で知能が高いのではなくて、社会的な営みをMUSTとされた宿命があったからこそ、魂のベクトルが人に進化を促したのではないかと個人的には思っている。進化は「生物の遺伝的形質が世代を経る中で変化していく現象」ではあるけれど、あり方を変化させるほどに強い力が働いているのである。しかもそれは外的要因ではなく、主に内的エネルギーによるものだとすると、本当に生きているだけで素晴らしいことなんだなと思う。

宗教的には魂をつくるものは神だということで、この考え方とは真っ向から対立する。

キリスト教ではもちろん、イスラム教とも合わない。イスラム教は「進化」がハラーム(禁忌)に触れているとしてポケットモンスターすら許さないから、わたしなんかは尚更許されないだろう。

もし神がいて、魂を創ったとしたら、なかなかやるやん、と感心する。ちょっとは信じてやらんでもないかな、と思う。

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