【依存症】イネイブリングをしないこと・境界線を引くこと

『だらしない夫じゃなくて依存症でした』

この本を繰り返し、ふと開いて読むのが日課になっている。

第6話「家族の接し方」について、最近読み返すと、連載当時にはわからなかった感覚が理解できるようになっていることに気づいた。

依存症者の家族側のつらさについて考える

「信じてもらえない」

「頼ってもらえない」

家族として、パートナーとして、これがどれほど、しんどいことかわかるだろうか。

家族側の苦しさは、正直あまり実感がなかった。

知らなかったが、最近になって実感することがある。

相手の課題と自分の課題を分ける境界線。

これを適切に引くことはとても難しい。自分のなかにあるコントロール欲求との戦いである。

依存症によく使われる言葉で『イネイブリング』というものがあるが、まさしくこれは自他の境界線をもち、自分も相手もリスペクトしようという考え方に基づいている。

出所:『だらしない夫じゃなくて依存症でした』(三森みさ著)第6話より

とはいうものの、渦中にあってはとても冷静にはなれないのが、常である。

自分という存在がそばにいて、愛情をもって接しているという自負があるにもかかわらず、自分にはわき目もふらず、アルコールやギャンブルに相手を取られてしまう。(と感じる。)

たかがモノに自分の存在が『負ける』。その悲しさと屈辱感と無力感。

親と自分がそうだったな、と思うからかもしれない。

私は両親にどんどんイネイブリングされるにしたがって、生きる力を弱くしていった。イネイブリングに気づいた今、「この人たちには何を言っても無駄だ」と感じている。

本当のことを伝えられない関係の空虚さ。絶望よりも深い諦め。

「イネイブリングされる側」の気持ちを味わっているから、頼れない存在として相手に認識されるのは、とても怖い。その距離の開きを、ひどく寂しく感じるからだ。

そのようなうっすい関係しか築けなかった、と落胆する気持ちは、やはり隠せないだろう。

イネイブリングする側の満たされなさは、会社でも味わってきた。

「会社のためにやったのに」という恩着せがましさを抱えて、尽くした結果、何も見返りがないことが多かった。

当然だ。今の会社からしたら、求めていない、ただの煙たいやつだったのだから。笑

当時はその怒りをどこにぶつけていいのかわからない感覚だった。なぜ正当に評価され『賞賛されないのか』に憤っていた。

すでにお分かりのように、会社に関して、私は、『相手が求めているかどうか』よりも、『正しいかどうか』を優先し、『自分を認めさせたい』という自己顕示欲を満たすために、自分勝手で一方通行なアプローチをしていたことを認めざるを得ない。

それはまさしく過干渉でありイネイブリングであり、親が幼い自分に対してやってきたことと全く同じことだった。それに気づいたときは認めたくなかった。

そういう苦い経験がある。

相手の課題は相手にしか解決できない

50/50であり、限りなく対等な関係だからこそ、私だけでは完結しない。

どちらかのせいにすることは、おかしな話なのだと思う。

そもそも、我々にとって明確な切り分けが難しい課題なのだ、と改めて認識したい。

良い意味でも悪い意味でもお互いに響きあう可変的な関係で、一見すると影響できるかのように見えるが、実は明らかに境界線があって、それぞれに独立しているのである。

①私たちには、各々の世界に明確に境界線がある

②しかし、私たちは相互に影響しあっている

そのことを何となく例えられないかな、と思って、考えてみた。

①私たちには、各々の世界に明確に境界線がある

相手の部分は相手にしか解決できない。

相手の行動でしか変化しない課題だから。

このことについて、なつかしい話をしようと思う。

x2+px+q=0

y2+ry+s=0

この数式のXとYはそれぞれ独立している。

なぜなら、全く別の解を持つ、独立した二次方程式だからだ。

人生はこのように、もともと条件が違う人生をそれぞれ生きているので、個別の二次方程式を解いているようなものだ。どちらかの数値が相手の方程式に関与することはしない。コントロールして代入させることはできない。あくまで(たとえば2次方程式なら)それぞれに因数分解して、自分の答えを探すほかない。

なのに、どうだろう。

私たちはこれを一生懸命、連立方程式だと思って相手の式を解こうとしてしまう。無意識にx=yだと思い込む。相手は、私と同じ答えだとは限らないのに。

つまり、相手が私を信じてくれず、相手の問題が解決しないのは、私が矮小で信頼できない存在だから、「私がダメだから」だと思い込んではいないだろうか。

それは正しくない。

相手がまだお互いの答えを見せ合いこする準備ができていないだけ。

相手との答えの違いをお互いに見せ合うのが会話であり対話だとしよう。

xの式を解いているのが自分。yの式を解いているのが相手だとして、相手の答えが出なかったり、x=yかどうかわからないのは、まだyの式のほうの因数分解が解けていないからだ。

それは100%、xの数値うんぬんのせいではない。

だから、私は私なりのxの答えを出すことに集中するしかない。

相手も問題(式)にあきらめず向き合ってくれると信じて任せる。答えを見せ合う機会を待つ。

すなわち、『自分ができることを自分のためにする』。できるのは、それしかない。

②しかし、私たちは相互に影響しあっている

他の人の因数分解の解き方をみるのが、「自助グループ」ではないかと思う。

何度も数値を当てはめてみてうまくいかないことがあるだろう。

似た形、だけど違う形。それぞれの式ににらめっこしながら試行錯誤する毎日。人生には公式はないし、数式よりよっぽど難解で、答えにたどり着けないことだってあるだろう。

私もまだまだ解きかけで、やっと最近「このぐらいしか進んでなくて恥ずかしいんだけどね…」と言いながら途中まで進んだ式の展開をさらけ出せるようになってきたようなものだ。

その途中までの式の展開を見せ合うことで、互いに共感する。

その嬉しさや喜びが、解き続ける力になる。悩んでもまた諦めずに立ち向かえる。必死に別の数式を解く仲間がとなりにいてくれる。

歯を食いしばって泣きながら机にかじりつく勇姿に、背中を押される。

影響しあっているというのは、式の展開を超えた世界線での、そういう響きあいだと思う。

まとめ:いつか通じる真心を信じる

自分が一生懸命やっているなら、わかってくれる人にだけわかってもらえたら、それが今の最大値なのだと思う。

もともと、手のなかに無かったもの。それを手のなかにあると勘違いして、私たちはよく悲しんだりぬか喜びしたりする。

寂しさから、自分と同じだと思い込んで境界線をなくしたり、踏み誤って傷つけたりする。それは、だれでもやることであり、やってしまったから終わり、では決してない。ちゃんと真心から伝えれば、いつか伝わる人には、ちゃんと伝わる。

最近、肩の力抜いて、相手にとって自分ならやってもらえたらうれしいかもなっていうことだけするようにしている。そうすると、不思議なことに、事態が好転することが多くなってきた。

今、伝えたい人に伝えたいことが届かなくて、哀しい思いをしている人もいるかもしれない。

そんなあなたに伝えたい。

伝わらないのはこっちばっかりの要素じゃないから、そんなに悲しまなくていいということと、伝わるときには伝わるので、時期じゃなかったんだなって長い目でみてたらいいんだよ、ということを。

焦らなくてもいい、ということを。

追伸:この本はめっちゃそういうことが分かりやすく書いてあるし、純粋に漫画としておもしろいので、一生に一回は読んだほうがいい。

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