「生きてるだけでえらい」
こう言われて、あなたはどう思うだろうか。
そんなわけないじゃないか、と思うだろうか。
私もそう思って生きてきた。
なんだか馬鹿にされたように感じることもあった。
「お前は生きているくらいで能力の100%なんだから、身の程をわきまえろ」みたいなニュアンスでとらえるくらい、私の心は歪んでいた。
というより疲れていた。自分の状況をを他の人のそれと比べて責めていた。
「生きる」というのは、基本的に苦しい。
つらくてくじけそうになることが多い。
他人はうっとおしいし、仕事はつまらないし、世の中に流通するありとあらゆる商品やサービスが毒である。
やりたいことを考える前に、やらなければならないことが雪崩のように押し寄せて、身動きが取れなくなる。
「やりたいことをすればいい」なんて言われても、それすら埋もれて見えなくなっている。感じようにも感じられない。わからない。
世の中でもてはやされているのは「ポジティブ思考」で、「生きていたくない、生きるのがつらい」なんて言ってはいけないような風潮だ。
なんとなく禁じられているように感じて、抱えた暗い気持ちを誰にも話せないまま、外側はポジティブであるかのように振舞う。そうやって、少しずつ心が狂っていく。
とても共感できる感覚だ。私はそういうふうに世界が見えていた。
「みんな頑張っているのだから」
「私より苦しい人も貧しい人も大勢いて、それなのに今日を生きているのだから」
そうやって、居もしない他人と比べて自分を叱咤激励していた。
私は私の限界以上に頑張っていたと思う。
だから無理が祟った。アルコール依存症になり、うつ病にもなり、睡眠障害にもなった。
みんなって誰だ?
私より大変だから、私の苦しみは軽いのか?
そういう疑問を持つことすらよくないと思い、蓋をした。
蓋をしたその思いを飲み下すために、酒を浴びるように飲んだ。
アルコールで意識を失いたかった。願わくばそのまま消えたかった。
あなたも、充分に頑張っていると思う。
他人は他人でしかない。自分と同じではない。
生物学的分類が同じだけで、感じ方も違うし、ポテンシャルも違うし、生きてきた背景も違う。
全然違う存在だ。
そんな違う存在が何かを成しているからと言って、私たちも同じことができるわけではない。
「働くのが当たり前」というのは国がそう決めているだけで、働くなんてできない人も当然いる。
「社会人だから当たり前」というのも、世の中という幻想が求めている虚像であって、社会人である必要はない。実際、年齢を重ねても精神的に幼いひとはいる。結構すました顔をして生活しているけど、ちゃんと人生に向き合っている人はそんなにいない。
何かに依存し、誰かに依存し、見て見ない振りをして、なんとなく生きている人が大半だ。
たまたま経済的に恵まれて、チャンスに恵まれて、五体満足で生まれたから、たまたまそれっぽく暮らしているだけ。
私もその一人だと思う。
何か一つでも欠けて、何か一つでもすれ違っていたら、今この生活はなかったかもしれない。
それくらい今というのは、初冬の湖に張っている薄氷のように危なっかしい。でもそれに気づいてしまうと恐ろしくて前に進めないので、みんなその事実を認識の外に追いやる。そしてなんとか生きている。
私は社会に出るまで、大人というのはとても崇高で、あたかも全知全能の存在のように思っていた。
社会的地位のある人というのは、人徳を備えた質の高い人間だと思っていた。
しかし、それは大いなる勘違いだった。
大人はそんなに大したことがなかった。体が大きいだけで、基本的に頭は良くないし、感性も鈍い。
社会的地位がある人などは、それがよりひどくなったようなものだった。人の痛みをあまり感じないので金儲けに特化しやすいだけだったり、他人に褒められたい欲望が強いから汚いことができるだけだったり。
社会で認められる、というのは、あまり名誉ではないことを知った。
「社会で認められる立派な人になれ」という両親や教師の教えは、全くの間違いだった。
こんな狂った社会で認められる人は、立派でもなんでもない。
人をモノのように扱うことができる、幸運な人でなし。それに成れと言われていたのか、と思う。私は絶対になりたくない。
この社会は、基本的に狂っている。
働いても働いても生活は苦しいままで、それは一部の権力者が美味しい思いをするために仕組化されているから。
国民の生活をより良くしようなんて思っている施政者などいなくて、私腹を肥やし自分たちのお仲間だけが裕福ならそれでいいと思っている。
そういう真実から目を背けさせるために、酒を売ったり薬を売ったりゲームを売ったりコンテンツを売ったりする。
何かに依存させて目隠しをするついでに、さらに絞り取ろうとしているだけ。
そんな修羅の国、日本。世界もそうか。
そんな地獄のようなところで、あなたも私も、よく生きていると思う。
よくぞ生き延びた。今まで。そう思う。
「生きてるだけでえらい」というのはそういう意味だ。
寄ってたかって殺そうとしてくるこの社会で、何とか今日も生きている。
それは、とても難しいことだ。
とくに、自分に素直で真実から目を背けられない、純度が高く上質な人間性を持つ人であればなおさら。
精神を病む人というのは、敏感で繊細だから、この地獄をまともに見てしまうので、疲れ果てるんじゃないかと思う。
この狂った社会で病まないほうが、狂っている。
ちゃんと病んでいる私たちは、正常だと思う。
病んで動けなくなるくらい、本物の人間にとっては、この世はきつい。
疲れ果てて仕事ができない時期があってもいい。
学校に行きたくなくなるなんて、正常な反応だ。
活躍している他人と自分を比べて落ち込んでしまう必要はない、彼らは狂っているのだから。
何の役にも立っていないなんて、思わなくてもいい。役に立つ必要はない。いるだけで世界の役に立っている。存在しているというエネルギーは計り知れない。糞をするだけでバクテリアの役には立っている。人間が認識できる「役割」なんてごく一部。それに当てはまらなくても一向にかまわない。
つまり、「義務」など、あるように見えて、何も無い。
抱えている「○○しなくちゃいけない」は、実はしてもしなくてもいい。しなくちゃいけない、と思っているだけ。
唯一「義務」があるとすれば、「全力で味わうこと」だ。
喜びも悲しみも、楽しさも苦しさも、体全部を使って心全部で受け止める。
それだけで、100%よくやっている。
そして、それが「生きる」という行動そのものでもある。
生活していくとか、結果を残すとか、そんなものはオプションに過ぎない。
全力で今を感じる。表現する。伝える。
対面している生命をよく見聞きする。できるだけわかろうとする。
最もこれを徹底して実践しているのが、こどもだ。
子どものように、純粋に今を全力で味わう。原点回帰。
大人になるというのは、この原点を忘れる、と言うことに他ならない。
大人になんてならなくてもいい。つまらない。
つまらないことはしなくていい。
100点満点は既に達成されている。生きてるだけでえらいんだから。
それ以外のことは、追加のオマケである。