【AC】この世は別に良いところじゃない

残念ながら、我々が今いるこの世は、あまりいいところとは言えない。

(あ、この記事は本当にネガティブの塊みたいな記事なので、調子の悪い人はブラウザバックしてほしい。)

良いところだと信じたいと思ってきたし、そう信じているという人たちの話を聞いて「なるほどそうなのかもしれない」と思ってやってきたけれど、今現時点では、やはりそうではないな、と思う。

もう口車に乗せられて無駄に期待しすぎるのは、やめにしなくてはならない。

「楽は苦の種・苦は楽の種」つまり苦しんだ分だけ幸せが来る、最終的には帳尻が合うようになっている、などという言説を聞いたことがある。

私はまだ人生の序盤から中盤に差し掛かったくらいなので、まだ帳尻が合うかどうかは検証しようがない。私は生きるのはせいぜい長くても60くらいまででいいので、50くらいになったころ検証可能になるとは思う。

最終的に帳尻が合うようにできているとしたら、この後かなり巻き返しを期待しないといけないが、どうやら周囲の50くらいの人々を見ていて、とても帳尻が合うようには思えない。

どう考えても、生きるのは大変だ。

「え?何かの罰?呪いか何か?」

と思うくらい、喜びの比率が少ない。ことに人が関わると、その比率は激減する。

深く関われば関わるほど、「私は他人にとっては、いてもいなくても変わらないし、むしろいないほうがいい存在だ」という暗い考えも深まる。

底なし沼が、もがけばもがくほど深く重く暗く広がっていくようなのが、人間関係というやつだ。

人と無力

私はそりゃあもう笑ってしまうくらい、人との関わりにおいて、本当に無力だなと思う。

誰の何にも、関わることはできないのだ。

「行動すれば変わる、変わるまで行動しないからだ。まだ知らないだけだ。」そういう声が聞こえてきそうだが、それはたまたまその人のなかではそうだっただけで、私とその人とは、違う宇宙に棲んでいるようなものなのだ。

本当に、違う宇宙だなと思う。

交わっているようで、本当は一点の交わりもなかったのかもしれない、と思う。

妻とも、分かり合えているようで、その実、本当に分かっているかといえば、そうではない部分だってあるし、分かっているつもりに私がなっているだけで、本当は何もわかっていないのだと思う。

他者と自己の間には、絶望的な隔たりがあり、それを近づけようとすればするほど、大きな軋轢が生まれて、それぞれに傷つく。

欲を出して叶いもしないことをやろうとしたばかりに、かえって溝を深めてしまうように、結局は双方の間のいかんともしがたい間隙の深さと遠さを味わうだけのこと。藪蛇だ。

それが「人と人とが関わることに希望はきっとあるさ!✨キュピーン」という気色悪い信仰がもたらす、唯一のありがたいご利益だと思う。

それを知ることにより、無力を知ることができる。

「私は、他人との関りに対して無力であり、自分の力だけではどうにもならなかったことを認める」という出発点に立てる。

総じて、誰一人としてある意味ではひとりではないが、ある意味では皆独りである。

愛し合い常に一緒にいるからといって、個体として融合できるわけではないし、誰かに何か欲しいものを可能な限り自分が分け与えたからといって、その人が好いてくれるとも限らなければ、うっとおしがって嫌ってくれるとも限らない。

全く、思い通りにはならない。

そして完璧に徹底的に交わらない。

しかしながら、孤独を抱え『誰かと分かり合えるはず』同じ幻想を抱いている、という意味では、皆が同じだ。そういう意味では、ひとりではない。

クソゲーでいいじゃない

奇妙なものだな、と思う。

そんなにみんなの共通の願いなら、神様がいるならかなえてくれてもいいはずなのに、そうとういじわるな神しかいないのか、せっせと信仰して拝んでいる人が少なからずいるにも関わらず、実に塩対応である。

チームプレイを推奨していながら、他のプレーヤーとパーティが組めない。

絶対クリアできない仕様のバグでいつまでも終われない。

文句なしのクソゲー仕様だ。

もし現代でメーカーがリリースしていたら、即発売停止モノだろう。

誰もやりたくないのに、一人残らずやらないといけない。

運動会の行進みたいなもんだ。

つまり、なんかこれ凄い素敵な、みんなが想像し期待を寄せる(己の外部に位置する)神など、この世にはいない。

いたらもっと世の中はマシだ。自殺する人が増えたりしない。

前向きな姿勢の重要さを説く人に出会うと、なんかちょっとたまに気まぐれで恵まれる不味い炊き出しを、「最高の飯だ…ありがてぇありがてぇ…世の中は奇跡に満ちてるぜ!みんなもそう思わないか!」って一生懸命有難がっているような感じがする。

本当は腹減ってて足りないし、もっとおいしいもん食べたいくせに、強情を張っている。

精一杯楽しんでいるふうでいて、外目とは裏腹に内心は白鳥のバタ足のように必死だ。まるで「映え」ていないと仲間から見限られる…という恐れに突き動かされて、行きたくもない大しておいしくない店の行列に並ぶ若者たちの、必死に作った引き攣り笑顔にジン割と色濃くにじむ、あの疲労感と悲壮感がある。

はっきりいって、この世はそんなにいいところではない。

それでもう、いいんじゃないかと思う。

しんどいし、つらいし、誰もわかってくれないし、もうやめたくてもやめられない。

人生をせっせとやめさせようとしてくるひとも、最後まで手を下してはくれない。

中途半端につらくするだけして最終的に「ここからはお客様次第です」と放置プレイかましてくるような、仕事中途半端なSMプレイみたいなのが、この世だ。

みんな、よくこんなクソゲーをよく頑張って根気よくプレイしていると思うよ。

だから「生きてるだけで偉い」なんていう言葉があるんだと思うよ。

たまにしかないボーナスステージを心の支えに、人生の出会いガチャをまわし続けて、まわすお金が無くなるまで回す。

賽の河原がいつまでも石積では流行らないから、現世版ではガチャにリニューアルされリリースされたのかもしれない。

賢者への道

唯一このクソゲーで関われるのは、自分のことだけだ。

それ以外に無い。本当にない。

自分を生かす。種を生かす。

そのために、やれることをやるだけ。

やってきたことをやるだけ。

実はこの人生というクソゲーは、他のプレーヤーと何かしようとするとすぐバグるが、己のできること、つまり「変えられるもの」にのみ注力している限りは、とても平和に進んでいくのだと思う。

「変えられないもの」(他人との関わり・偶発的に起こる不幸なイベントなど)を見分けられずに、闇雲にチームプレイに熱を上げたり、他のプレーヤーの行動や思考に振り回されたりするから、辛く苦しいイベントばかりドミノ倒し的に起こり続ける。

「変えられるもの」と「変えられないもの」を見分けられる賢者だけが、粛々とこのゲームを最後まで進めて、衰弱死という赦しを得られるのかもしれない。

私はそのためにいっちょ生きてみようと思う。

見分けられる賢さを身に着けたい。そのうえで、もう一度人生について考えてみたい。

そうしたら、この人生クソゲー説は覆るかもしれない。

覆らなくても、もとより他にすることなど無いのだ。

石積みよりは、ガチャのほうがまだマシだと思うので、もう少し頑張ってみよう。

いや、石積みもいいかもしれんな。川沿いならキャンプできるしな。

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