会社こそ、おおかたの日本の男たちにとっての母なのです。
出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P93より引用
私は長らくサラリーマンである。
長く組織の人間として働いてきて痛感するのは、冒頭の斎藤学先生の言葉がまさにその通りだということだ。「自己犠牲」を美徳とする日本人の心根にびっしりとこびりついて離れない「共依存」という寄生虫。
この寄生虫は、心根に宿り、自我を喰らって成長する。
そして、自我を喰いつくされ空っぽになった宿主のなかにどっかりと胡坐をかく。
そういう恐ろしさと気持ちの悪さを、私は組織で働いていると感じることがある。
組織としての最適化
整理しよう。
組織で働くうえで歯車であり続けるために最も必要なものは、何か?
それは「忠誠心」である。
私心を滅して公に奉ずる、滅私奉公の精神で命令を遵守し、指示したことを的確にこなすことが「いい歯車」として重宝されるために重要なことだ。
そのためには、私心は邪魔でしかない。
メンバーは「組織の目的」を達成するために、個の目的よりも組織の目的を優先する事を良しとされる文化に徐々に染まっていく。
やがて、大きな生命体としての組織の一細胞として、個としての自己実現を果たすことなく、老朽化して排泄される。
個体として戦えないからこそ、私たちは組織をつくって共通の強大な敵に対抗してきた。
戦争で私たち日本人が「忠誠心」という狂気を発揮し世界を震撼させたことは、記憶に新しい。日本は、その類い稀な組織力・同調圧力で戦争を戦ってきた。
『神風特別攻撃隊』が特に象徴していると思う。
海外から「狂信的な自爆戦術」と恐れられた、通称『kamikaze』。
エチルアルコール(酒)を一発キメてさせてから、片道分の燃料しか積まれていない戦闘機に乗せ、「御国の為」に敵の戦艦に突っ込ませる。それをあくまでも自発的に促し、やり遂げた兵士の死を美談として語り、国のために死んだ勇敢な愛国者だと褒め称えて、他の者にも「国のために死ぬことが良いこと」だという圧力をかけていく。
そうやって組織の為ならば自分の命すら捧げる、という狂った献身を奨励した。
その狂気の正体は何なのだろうか。
自分の考えなど持たないことが推奨されているのですから「個人の責任」という感覚は育ちようがありません。お母さんの言うとおりにやってきた子供と同じに、会社のいうとおりに生きていく、会社という「家族」にとっての「よい子」ができあがります。
出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P94より引用
自分なりの良心や正義より、「世の中はそういうもの」と悟ったふうに「個人の責任」を見て見ぬふりをして、誰かの言うとおりに生きていくことを、家庭でも会社でも奨励されるのが、日本の社会的道徳観だ。
そして、狂気の正体は、まさにこの社会的道徳観である。
会社に勤めている「自分は成功者だ」と信じて疑わない多くの人が、気づいていない。
自分たちが、組織として最適な行動を選ぶように飼いならされて、限界まで「個性」という筋肉をそぎ落とされている。その結果、彼らは自分ではまだわかっていないが、もう自分の足で立てないほどに筋力を失っている。
だから、組織に見限られるのが怖いし、そうなっては生きていけないから、より組織に貢献する「良い子」であろうと努力する。「良い歯車」だと判断されるための条件は、会社にとっての「良い子」であることだから。
そうして努力すればするほど、どんどん足はやせ衰えていく。
個としての最適化
そのように、組織の規律や世間や常識などの「自分の本心以外の何か」に隷属することが美徳とされる共同体での在り方とは対極に位置するのが、個としての最適化である。
個としての幸せの実現には、自分の感情や欲望に素直であることが前提条件だ。
「自分はどうありたいのかを最優先する」
「嫌なことを嫌という」
「ほしいものを欲しいという」
そしてそれらは流れる水のように流動的で、コントロールできないし、とらえどころがない。
そういう在り方そのままを受け容れて、社会・他人との境界線で押し合いへし合いしながら生きていく。
己の良心と正義に則り、己が信じる最良の実現に向かってうねりながら熱を迸らせる道のりこそ、手づかみ感のある幸せの具体的なかたちなのだ。
組織としての最適化とは、まるで逆なのである。
組織からすると、水のように流動的でコントロールできないのは困る。手足が勝手に動いては、求める体全体のバランスが保てないし、目的が達成できないからだ。
つまり、組織は、個が幸せを求めて動いてもらっては困るのである。
だから、「共依存」させることにより、支配してコントロール下に置こうとする。
男たちにとっての母、というのはそういう意味合いだ。
言うとおりにやっていれば、褒めてくれて、大事にしてくれて、責任から守ってくれる。
組織や共同体を優先することを、素晴らしいことだ、私たちは間違っていないんだ、と盲目的に信じて疑わないように、繰り返し繰り返し刷り込まれてきたのである。
例えば学校で。
例えば家庭で。
今まで歩んできた社会生活そのものが、組織の人間として最適の部品になることを奨励していて、共依存になるための英才教育だったと考えられる。
だからなんとなく皆が、この美しいと教えられてきたこの社会に対して、一種の気持ち悪さがぬぐえないのである。
勤め人が病んでいく理由
この「組織における最適化」と「個としての最適化」が拮抗しているので、私たちは悩み苦しんでいるのではないだろうか。
社会に否応なく育てさせられた共依存的な性質から、組織に奉じ、家族に奉じ、それで間違いないはずと最適化をすればするほど、個としての幸せは失われていく。
自分ではなく皆を優先させられるようになった自分は「大人になった」「成長した」と考えているし、皆そういって褒めてくれるけれども、その実自分の足で立っているとは言い難いということがなんとなくわかっているから、常に不安がつきまとう。
違和感に気づいて「個としての最適化」を進めようとしても、今度は社会そのもの「世間」が邪魔をする。
「いい大人になって聞き分けのないことを言うな」
「家族がいるのに何を勝手なことを」
「まともに育っていたらそんなことをするなんてありえない」
と口々に罵る。
共依存真っ只中の社会の構成員たちは、独りだけ抜け駆けして個の最適化にまい進する裏切り者をみると、許せないからだ。
お気づきの通り、「世間」というものの声は、共依存のそれだ。
一言でいえば「私は我慢してるのに、お前だけ我慢しないのは許せない」だ。
組織としての最適化を「大人の義務」「大人とはこういうもの」という倫理観や道徳観で正当化してきた自分が間違っている、本当は「個の最適化」が望みだったのだ、と知ってしまったら、頼りない自分のやせ細った足に向き合わなくてはいけないから、必死にそれを見ないために、真実に気づいた他人やきっかけをつかんだ他人を攻撃する。
そうやって、足の引っ張り合いをして、なんとかこの共同体を維持しなくてはならないという苦しみに対する怨嗟の声が「世間の声」だ。
では、私たちはどう生きるべきか?
そんなこと言ったって、国や家族や組織が崩壊すれば困るではないか。
結局、生きていけないではないか。
そう思うひともいるだろう。
それも確かに真実で、私たちは弱いからこそ共同体を創り、自然の脅威や命を狙う者たちから身を護ってきた。
社会の構成員としてのアイデンティティをなかったことにはできないし、一部保有していなくては、私たちが完全なる個として命を繋いでいくのは難しいかもしれない。
結局最も重要なのは、「あなたはどう生きたいか?」ということだ。
共依存しているのが居心地がいいし、子供が苦しもうがパートナーが苦しもうが、私はここから苦しい思いをしてまで動きたくない、というのであれば、それがあなたの生きたい姿のはずだ。
でも、本当にそうだろうか?
今まで本当に居心地がよかっただろうか?
毎日苦しかったのではないだろうか?
それを変えることは、自分にしかできない。
自分の感情や欲望は、自分しか知らないんだから。
あなたのことは、あなたしか知らない。
私にあなたの何がわかるのか?と問われれば、私はこの貝木泥舟の言葉を返したい。
色々調べた。だが、そうだ。何も知らない。
重要なことは、何も知らない。
お前のことは、お前しか知らないんだから。
だからお前のことは、お前しか大切にできないんだぜ。
そしてお前の夢も、お前にしか叶えられない。
組織としての最適化には、様々な理論がある。なぜならそれが「正論」だからだ。だからHowtoは世の中にいくらでも転がっている。
誰もが知っている。どうすればいいのか、何が正解なのか。それ自体は、実はとても簡単なことだ。
しかし、個としての最適化を求めることは、自分にしかできないし、答えは自分のなかにしかない。攻略方法もないし、王道もない。誰かに聞いても、その内容を自分の脳みそで考えなくては、答えには繋がらない。
どちらかだけの最適化だけを考えるのではなく、バランスなのだと思う。
組織に属していないと生きていけないなら、ある程度のラインを定めて従順な振りをしておいて、組織を利用するくらいの気持ちでいればいい。
相手は利用しようと思って私たちに関わっているのだから、逆に使って悪いことはない。
私は、優先すべきは、本来「個としての最適化」だと思う。
個人として人生の目的達成のために、ある程度社会を利用して、自己実現していく。
それこそが、イライラしたり誰かのせいにしたり言い訳したりしないで、堂々と人生を謳歌するための秘訣であるように思う。