私は、孤独感からアダルトチルドレンになり、アルコホーリクになった。
ASD・ADHDとしての私を受け容れてもらえなかったことは寂しかった。
他人に対して愛着を感じないことに、私は罪悪感と怒りを持っている。
そのことについて今日は考えてみたい。
ゆだねる、そして手放す
先日、手放すことができたことと、できていないことについて、改めて考える機会を得た。
昔に比べると、「個人」に対する憎しみや恨みや恐れや不安は手放すことができてきた。それは、ACA・AAでそれぞれの12ステップ・プログラムに粛々と謙虚に取り組んできた結果である。
あんなに大きかった親や社会的成功者への恐れと不安が、自分の心に占める割合はごく僅かとなり、彼らが生きていても死んでいてもさほど気にならないくらいになってきた。
しかし、今でも無条件に反応してしまうものがある。
それは「コントロール」だ。
仕事の人間関係が嫌いで、基本的に人間が嫌いなんだと思って生きてきた。
人間そのものが嫌いなのではないんじゃないかしら?
私はアニメや漫画や映画が大好きで、人の物語に涙する感受性を有している。こんなに芸術で描かれる人間の喜怒哀楽に心の動きを感じるのに、私は本当に人が嫌いなのだろうか?
「本当は人間を好きでいてほしい」と願いにも似た思いを持ってきた。
・上下関係をつけるマウント合戦
・資本主義的なギブアンドテイク
こういうパワーゲームを土台にした「損得マシーン」との関わりが嫌いなだけで、人間そのものは好きなのではないか、と仮定してみよう。
フラットに損得抜きで語り合い交流する人間関係を、私はむしろ好きなんじゃないか。
じゃあなぜパワーゲームに反応するのか?過剰な反応の裏には恐れと不安がつきもの。
私の恐れと不安があるからだ。では私の恐れと不安はなにか?
私は「そのままを見て受け入れてほしい」という願いが満たされてこなかったことから、『これ以上傷つくこと』を恐れている。
これは真実だろう。
・他人に品定めされたくない
・わかったような口ぶりでたかを括られるたくない
・損得で関わりを持とうとされたくない
・能力を比較したくない
だから私は、他人との対戦ゲームをいっさい楽しめないし、性格診断的なアルゴリズムには無条件にアレルギーを感じる。
仕事の人間関係は、今も昔も唾棄すべき穢れた関わりのようにしか見えない。
損得をベースにしてしまうと、どんなに他人にとって魅力的な目標であっても、達成すること・共同で活動することに、価値を感じることができない。
そのままを見て、ただ受け入れる。
私の願い。
「私のそのままを受け容れてほしい」
という願い。
そのためには私がそのままで無くてはならず、そのままを貫き続ける勇気が今、必要なんだと思っている。
そうしてそのままでいたときに残る関係が、本当に大切な関係であると言える。
その関係の間ならば、対戦型のゲームだろうと経済活動だろうと、楽しめるはずだと期待している。なぜなら土台に心理的安全性が担保されているはずだから。
結果が出ても出なくても楽しめる、本当の遊び。本当の友人。
そういうものを夢見ている。
さて、そのままということで改めて考えてみよう。
私は人間が好きなのではないか?という願いは、実は自分を全量に見せるために己を欺く虚偽の感情ではないか?
私は心から好きなものは、キャンプだ。
なぜなら、キャンプは人間とではなく自然と対話する趣味だから。
キャンプは比較しない。
競ったり争ったりはもう部活やら学歴やら就活やら散々やってきて、心底ウンザリしている。
他人に勝つことに意味も無い。
自分に勝つことに意味がある。
だからキャンプが好きなんだと思う。
キャンプは、完璧さとか他人との比較などは全く関係ない。
楽しめればいい。
不足や不完全さはむしろ歓迎される世界。
キャンプサイトは、他人と程よい距離感が保てる。
それぞれの在り方が尊重される独立した空間。
だからキャンプが好きなんだと思う。
ということは、私は他人と適度な距離を保ちたいと思っている。
できるだけパーソナルエリアを侵害されることなく、快適に生きていたい。
恐れや不安があるからなんだというのだ。私は、嫌なものは嫌だ。
先輩だからと会って間もないのに呼び捨てタメ口をするやつなんかは、大嫌いだ。
その時点でATフィールド展開し、近寄らせることも近寄ることもない。
だいたい、少し長く生きているだけだ。その結果こんなクソみたいな社会を作っている連中の、何が誇れる?
そんなかたちで、私には結局、共同体の一員としての感覚をもつことができない。そしてそれは悪いことではない。私のそのままの姿だ。
ずっと他人とは脅威で、警戒すべき「同胞」で彼らは一番の敵だった。敵は身内だった。
たしかに、守られてきただろう。一人では生きてこられなかったろう。
だから感謝しろ、心を開けというのは、レイプと同じだ。
金を払ったんだから股を開けというようなもの。望んだわけでも無く産まれ落ち、散々苦しめられてきたことも事実なのだ。股を開くか開かないかは、私が決めることだ。
金を払ったから、恩があるから、救ってきたから、といって私の苦しみはプラマイゼロにはできない。
つまり、まだまだ理解してもらってない。
それは、私がありのままの自分を許していないから。
まだ「できるだけ良いもの」として自分を見せようとしている、飾っているから。
飾らない私を表す。それが理解してもらう唯一の方法。
理解できない、受け容れられない、という結果だったとしても、私が飾らないことが重要なのだ。本質の表出の結果であることが最も重要だ。
私は何が好きなのか
スポーツジムでは、他人との距離が近いだけで、イライラする。チラチラと蠅のように視界に入って邪魔だからだ。
私が決めた予定・私の空間を邪魔するやつは、基本的に死んでほしいと思う。
誰がどんな話をしていたか、なんてあんまり記憶に残ってない。他人がどうなるか・どう感じるか・どう思うかは、自分ほど興味をもって観察することができない。
私はやっぱり、私にしか興味が無いんだと思う。
自分とどれだけ正直に向き合ってきたか。
他人との比較、わかりやすい成功。これらはあまりその人の味わい深さとは相関しない。
仕事・出世・売上・賞罰・勝負。
それらの勲章をひけらかし振り翳すほど、空っぽの証。
自分の深淵を覗き込む自信がない、と言っているように聞こえる。
己の弱さを認めじっと目を逸らさずに生きてきた人をこそ、尊敬する傾向にある。
それが一番等しく難しいことだからだ。
勝つよりも成功するよりもはるかに難しい。
「……ひとつだけ言っておこう。君はぼくを乗り越えると言ったが……。君よりも9年も長く生きてるから教えてやろう……。他人を負かすってのはそんなむずかしい事じゃあないんだ……。もっとも『むずかしい事』は!いいかい!もっとも『むずかしい事』は!『自分を乗り越える事』さ!ぼくは自分の『運』をこれから乗り越える!!」
出典:集英社「ジョジョの奇妙な冒険」 作者:荒木飛呂彦 から引用
それぞれの人生は、交わらない異なる時空のようなものだ。
人間は結局、皆誰もがひとりだ。
生まれてから死ぬまで。
それは、偽ることができない。
同じと勝手に思っているだけで、実は同じではない。
違うと勝手に思っているだけで、知覚している違いは本質的な違いではない。
他人を見ている限り、全部自己満足だし、全部思い込みだ。
自分のなかの真実が、客観的にも真実かどうかはどうでもいい。
自分のなかでゆるぎない真実ならば、それこそが真実だ。
自分と向き合うこと。その末にたどり着いた今の「真実」をそれぞれに見せ合うこと。
その違いを楽しむこと。その謙虚さと努力に敬意を表すること。
尊敬で繋がること。
私が唯一ほしい他人との繋がりは、それだ。
本物であればよい。それは少しでいい。