【共依存】シリーズ「わたしの共依存」②妻

私は、妻と出会って付き合おうと考えた当時、共依存的な関わり方をしていたと思う。

救えるという思い上がり

妻は、私と出会ったとき、アルバイトをして実家で暮らしていた。

家は全体的に裕福とは言えず、仕事も昼間から日付が変わるまで立ち仕事で、かなり厳しい労働環境だった。

元カレと一緒に九州まで行ったが、モラハラに耐えかねて別れて帰ってきたばかりだった。

私は、出会ったとき、妻の率直で屈託のないところに惹かれた。直感的に「この人は嘘をつかない」と思った。「この人ならちゃんと話を聞いてちゃんと返してくれる」と期待した。長い付き合いのなかでそれは紛れもない事実だったと判明したし、今も変わらない。

しかし、それだけでなく、私は卑しくも、この人なら『救える』のではないか、と内心舌なめずりをしていた。

一緒にいることで金銭的なメリットが提供できるから、『好きでいてもらえる』と思った。

金銭的に私のほうが稼いでいたから、よりよい生活をさせてあげることができると思った。

仕事をしなくても生活できる環境を与えられれば『感謝してもらえる』と思った。

何かを差し出せるから、交換条件として好いてもらえる、という打算を働かせていた。

つまり、好条件だと思った。

私なんかでも、わたしみたいな欠陥品でも、必要としてくれる人だと思った。

それはとても失礼な考え方だったと思う。

相手をリスペクトして好意を寄せるのではなく、コントロールできそうだからという条件を好きになるというのは、相手からしたら「ふざけんなよ」と憤って当たり前だと思う。

かわいそうだから助けてあげよう?

お互い喜ぶじゃないか、これは良いことだろう?

「おいお前、嘘をつくなよ」と自分の胸ぐらを掴んで吊り上げたい。

「承認を求めようとすること」「見捨てられ不安」由来の満たされなさ。

その満たされなさから「世話焼き」をして自分の問題から目を背けただけだ。

その人そのものの生きる力や人間性を本当の意味で尊重していない、下にみている。

そんな卑しい自分の姿を発見した気がする。

一緒に暮らすにつれて、自分の未熟さや至らなさのほうが浮き彫りになっていった。

救うはずが、その実救われてばかりだった。

妻は自立した、はるかに自分よりも立派な「大人」だった。

私のほうだったと気づいた。救われたかったのは私のほうだった。

妻はACではないので、自分の価値観を持っていた。そして自分を自分で褒める技術を持っていた。人と比べなくても自分を楽しむスキルがあった。それは私にはないものだった。

私が持っていないものを持っているから、私はこの人に惹かれたんだな、という本心にも気づけた。

同じであるからこそシンパシーを感じて行為を抱くことがあるように、異質であるからこそ尊敬して、眩しく感じることもある。

妻に対して私が感じた感覚はまさしく後者であり、共依存的な思考で近づいたことは否めないが、とても魅力的に感じた理由はそれだけではないということもわかった。

私が共依存的に関わったが、共依存ではなかった妻は取り合わなかった。

私の歪んだ関わり方を、妻はしっかり拒否したし、それによって見限ることもしなかった。

だから今、お互いにアサーティブに話そうとしたり、謝罪をしあったりすることができる。

私の歪んだ感じ方や関わり方について正直に話して、それを相手の受け取り方に委ねることができる。

相手のニーズを先回りしてコントロールしようとすること

私は、相手の望んでいること、ことに負の感情の揺れ動きに敏感である。

それは、母親がヒステリックで常にご機嫌をうかがって生活していた経験が大いに関係していると思う。

今何で不機嫌になっているのか、何に対して不満を持っているのか、という情報から、自分がどう振舞えば相手が笑顔になるのかを考えて幼少期を過ごしてきた。

私は、そういう幼少期の生きるすべを大人になった今でも適用して、相手のニーズを先読みし『コントロール』しようとしていたのだ。

それがとてもつらい。

なぜかといえば、それは母が用いた手法で、私が最も忌避するものだからだ。

『コントロール』されたほうは、生ける屍に成り下がる。私はそうだった。

失敗しないように、損をしないように、周りとズレないように。

そういう「母親の望む未来」にたどり着けるように、母親は私をコントロールしようとしてきた。

何とも言えない、充実感の無さ。

自分で生きていないからだ。自分を生きていないからだ。

そういう活力を、最も重要な喜びを、己の欲で他人から取り上げるというのは、最も卑劣なことだと思う。

その卑劣な行いを、自分自身がやっていた? にわかには信じがたく、信じたくなく、目を背けたい事実がそこにあった。

幼少期に鍛錬してきたからこそ、その妄想にも似た予測は、現実によく当たってしまう。

自分のことより、他人の心の動きばかり追ってきたから、その観察眼には磨きがかかっているように思う。

これは悪いばかりではなく、良い作用もある。

相手のニーズを推し量れて、今の心の動きをつぶさに観察できるという能力が磨かれた結果、営業として今飯を食えているわけで、他人が望んでいることを理解し共感すること自体に罪はない。

罪は、コントロールしようとすること。

コントロールすることにばかり熱中して、自分の心の声を聞かなかった振りをすることだ。インナーチャイルドが声を枯らして叫んでいるのに、知らない振りをすることだ。

自分の本当の声に、耳を傾ける

共依存的な関わりをしていると自覚できるようになってきた今、私は、私が「正しい」と思って関わってきた関係を冷静に見直す時期に来ている。

その試みは、正直、私にとって世界の底が抜けるようなインパクトがある。

とても怖い。

しかし、やはり見直さなくてはならない。

気づいてしまったら、徹底的にしなければ。そうしなければ気が済まない。私はそういう風にできている。

苦しみぬくとしても、己のなかの本物と対峙して出した答えでなければ、私自身が納得できない。

少しずつ、ゆっくりでも、確実にやっていこう。無力を受け容れている限り、私にはそれができるはずだ。

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