1、私は、◯◯することへのこだわりから離れられず、この執着のために日々の生活がままならなくなっていることを認めた。
これは、〈認知のステップ〉で、一種の「敗北宣言」です。とにかく自分は「困っている」。いろいろやってはみたがどうにもならず、もうお手上げ状態である…と認めることから、このステップは始まります。
出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P208より引用
「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ /大和書房/斎藤学
人に認められること=承認欲求
「私は、人に認められること=承認欲求へのこだわりから離れられず、この執着のために日々の生活がままならなくなっていることを認めた。」
私は、人に絶対に負けたくないし、認められたい、評価されたいと強く思う傾向がある。
そのため、攻撃的な態度をとったり、人との関係に軋轢を生んで孤立したりする。
今までそうした自分の問題で、人を遠ざけてきたように思う。
私の問題だった。人が冷たいわけでも、私を阻害しているわけでもなく、私が人を遠ざけたのだと思う。
そして、私はそのことで苦労してきた。寂しさを感じてきた。恨みや憎しみを己の中に育ててきた。
生き方が、歪んでいると思う。
たしかに私はASDとして当初社会から受け入れてもらえなかったことは事実だと思う。
虐められ孤立させられたことで人への不信感が膨張していったことは、確かに外的要因だ。これは当時「変えられないもの」だったと思う。
だからこそ今、この腐りきった社会に少しでもいい影響を与えていきたいというモチベーションになっているというのもある。
しかしながら、今フラットに存在を否定されることなく対話できる人々に囲まれて、はたしてそのまま恨みや憎しみを引きずる必要があるだろうか。
今、このライフスキルは必要ではない。
昔のように疑心暗鬼になって、意味もなく言葉の裏を読んだり、悪意を勘ぐったりしなくてよいのに、私が、そうして生き方のスタイルを変えていないから、私の周囲の見え方も変わらない。
私の問題だというのは、そういうことだ。
なぜ認められたいのか?
認められたい、負けたくない。
その根本はなんなのか?
おそらく由来は、機能不全家庭での経験にある。
私は結果を出さないと認めてもらえない、愛してもらえないという不安とともに幼少期を過ごしたように思う。
スポーツで、学業で、周囲の子よりも優れていることが、親を喜ばせ悲しませないための唯一の方法のように感じていた。
親を悲しませないために、私は行動を選び、考え方を選び、人生を選んでしまった。
その生き方はまるで操り人形のようで、生きている実感がまるでなかった。誰かの他の人生を生きているようで、成功しても嬉しくなかった。ただただ失敗だけが恐ろしかった。
その苦しさは今も私の中に大きな爪痕を残している。
比較されることは、生きるか死ぬかのゼロサムゲームのように感じる。
だから、例えば対戦ゲームなどは全然楽しめない。
負けることは許されない。負けている状況はあってはならない。だから、簡単に対戦相手に勝てないなら、対戦相手をゲームに参加できなくしよう、排除しなければという焦燥感にかられる。たとえばPCを攻撃してサインインできなくしたり、直接暴力を加えて別の形で報復したりしようと考える。
抱えきれない怒りでコントローラーは壊すし、感情を全く制御できなくなる。
そのことを、私はとても恐れている。
承認欲求を見て見ぬ振りをしてみようとしたこともある。
私はそんなものは欲しいと思っていない、と一生懸命自己洗脳しようと試みたり、大した価値がないという証拠を集めようとしたり、さまざまなそうした抵抗は、大きすぎる感情の揺らぎの中に飲み込まれて、ことごとく失敗してきた。
見ないようにしようとすればするほど、それは大きく重くなって背後から追いかけてくるのだった。
「いろいろやってはみたがどうにもならず、もうお手上げ状態である」とあるが、まさにその通りである。
結局私は、人に褒められたいし、認められたいし、人より優れていたいのだ。
それはまぎれもない本当の気持ちで、それに蓋をせずに認め、その欲求に振り回されて問題が起きていて、それを自分ではどうすることもできなかったことを認めるべきだ。
それこそがスタートなのだと思う。
勝っていること。
認めてもらっていること。
そういう他者評価でしか、自分の存在価値を自認できていない。
なぜか?
自分で自分を認められていないから。自己肯定感が低いから。「自分が認める自分」を信じていないからだ。
自分の価値観やこれでよいという人生の指針を本当に信じることができれば、それをこそ人生の柱に据えて、堂々と生きていくことができるのである。
そのためには、自己効力感を持ってさまざまなチャレンジをして、成功も失敗も味わう経験を積み重ねることで、自分は乗り越えていくことができるという真実を体得していく必要がある。
それを幼少期に過干渉な両親から取り上げられて、健全な自我を育めなかったことが、この自信のなさの根源である。
しかし、今、親から離れて自立して生きている。それだけで私は私を褒めてあげてもいいのに、それを褒められずに自分にも他人にも厳しくあたり、完璧を求めて責め立てている。それは不健康なやり方を必要がないのにまだ続けているということだ。
過去は変えられない。未来はわからない。
しかし、今なら影響を及ぼすことができる。今の生き方なら自分で選ぶことができる。
まとめ;「もう自分には手に負えない」と認める
アルコール依存症でもそうだったが、「私は酒に対して無力であり、自分にはどうにもできないこと」を認めることから、問題に取り組む前提が整う。
無力であると認めることは、コントロールできないと認めることであり、認めがたいものである。
なぜなら、風に舞う枯れ葉のように、とても弱い立場にたつことを許すことになるように感じるからだろう。
でも、私は承認欲求に悩まされ、それに全く太刀打ちできなかったことを認めざるを得ない。
本気でこのコントロールを手放すには、まずこの立ち位置に立たなくてはならない。
続けてステップを踏んで己から逃げずに見つめ直していきたい。