【共依存】違うからおもしろい

私は妻と結婚してよかったなー、と心から思うことがよくある。

今日は入籍記念日。

空は青く澄んで晴れ渡り、鳥の声と虫の音が聞こえる。

秋の訪れを予感させる涼しい風が吹き、まだ夏の余韻を残す暖かい日差しが降り注いでいる。

妻と私

私と妻は、全く違うタイプだ。

「なんで結婚したの?」と知人から訝しげに聞かれるほどに。

私はASD/ADHDで、人間が基本的に苦手だ。

人の集まりなどは、極力避けたい。近くに人がいるだけで疲れる。

ひとつのことにしか集中できない。マルチタスクができない。

熱中しているときに他人に邪魔されると発狂しそうになる。

しかし、集中すると驚くべき行動力と創造性を発揮すると言われる。

そして愚直で嘘が下手で、論理的な思考が好きだ。

なので、冗談がわからないし言うのが下手だ。

妻は、友人にいつも囲まれている。

求められて、よくいろいろな人と交友している。それが楽しいらしい。

抜けているところはあるものの、基本的に同時進行でいろいろなことを片付けていく。

集中する、というのが苦手で、本人は何かに没頭できないことが悩みだという。

しかし、今を最大限に楽しみ機嫌よく過ごすことについてはエキスパートであり、その生き方はとても清々しい。

本人も言っているが、本人の言動の8割は冗談で構成されていて、虚実入り混じるというか、なんとなくニュアンスで伝わればいい、というコミュニケーションスタイルである。

私は妻と出会ったとき、なんとなく直感があった。

「このひとなら、ありのままの自分を表現しても否定されないのではないか」

「私に無い世界を見て、私に無い発想で驚かせてくれるのではないか」

その直感は当たった。

私とは全く違う、世界観と背景を持っていて、私には驚きの連続だった。

妻も実は同じように感じていたようで「こいつ、変わってんな」と思ったそうだ。

私の印象は「ロボットのようだった」とのちに妻は語る。

いろいろ考えながらしゃべっているので、いつも反応がワンテンポ遅い。

冗談を言うと、毎度真に受けて青ざめる。

それを妻は「おもしろい」と感じたらしく、しつこく交際を申し込んでくる私は特にタイプではなかったが「おもしろそうだから」と交際をOKしてくれたらしい。

当時の私はと言えば「この直感を感じたのはこの人だけだ。この人に交際を申し込んでダメだったら、おそらく今後もダメだろう」と謎の焦燥感を抱えて猛アタックしていた。

おもしろそうだから。

たったそれだけの感覚がきっかけで繋がった縁だった。

それが二人の子宝に恵まれて、今最も幸せな人生の時間を過ごしている。少なくとも私は。

人生とは、数奇なものだ。

似ているからうまくいく?

似ている人を好きになったこともある。

しかし、それは長続きしなかった。

似ている、ということは、同じであることを期待させる。

全く別の人間なのだ、違って当然。なのに、ちょっとでも違うと、裏切られたように感じる。

それはなぜかというと、自分の延長線上に相手を見てしまうから。

寄る辺のない自分と相手を「同化」させることで孤独を埋めようとすると、移植した細胞が拒否反応を起こすように、様々な軋轢を生じさせる。

似ていれば似ているほど、期待は大きくなり、それが叶わないとき強い怒りを感じる。

相手は自分とイコールなのだから、自分の思う通りに動いて当然と思い込む。

とんでもない傲慢だが、勝手にそうとらえてコントロールしたがる。

意に沿わない結論を相手が出したとき、「間違った結論」に至った「原因」があると信じ込み、相手の結論を変えようとする。

相手を尊厳ある別人格の個体として尊重していない。

尊重し合えない関係は、互いに怒りと恐れと不安を生む。どんどん不快になっていく。

なので、片一方が精神的に自立した結果、違和感に気づいて離れようとする。

すると、まだ相手が自分と地続きにいると信じているもう一方は、恐れと不安から激しく抵抗する。自分の半身を無理やり引き剥がされるような恐怖の感覚に陥る。

これが当人たちが「共依存」の状態にある証明でもあり、病んだ関係の末期症状でもある。

嫌いなのに、離れられない。好きなはずなのに、一緒にいるだけで苦しい。

終わりを告げる側が罪人扱いを引き受けて切り離さない限り、この地獄は続く。

告げられたほうは、被害者という免罪符を片手に握りしめて、相手に罵詈雑言を浴びせたり、泣いたり謝ったりして憐れみの情を催すよう働きかけたりする。

そして、それでも結論が変わらないことを悟ると、センメルヴェイス反射よろしく、相手のすべてを否定して拒絶する。

つまり、この場合、似ているからこそ、うまくいかなかったといえる。

似ているからこそ「理解し合える」という幻想を信じてしまった。

だから、その幻想を維持できなくなった瞬間、夢から醒めるように関係も終焉を迎える。

そして、修復不可能なほどに傷んでしまう。

人間は誰もが不完全だ。

完璧な人間など、この世に一人もいない。

だから、不安にもなるし、寂しくもなる。

誰かに認めてもらわないと、自分には価値がないのではないか、と不安と焦燥にかられる。

理解し合えるもう一人がいれば、と夢想する。

しかし残念ながら、他人と「理解し合える」というのは、不可能だ。

共感することはあっても、他人の感情や世界観をそっくりそのまま実感することはできない。

人間が鳥や虫の気持ちを想像することはできても、実際に彼らになることはできないのと同じように。

理解しているつもりになるだけだし、理解してもらえたつもりになるだけ。

すべては妄想だ。

違うからこそ、おもしろく、違うからこそ、知らなかった新しい自分を知ることができる。

それは喜びであり、生きていくうえで必要な刺激だと私は思う。

外界との輪郭を得るからこそ、「自分」という認識が成立している。

違う角度から光を当ててくれる光源が、自分とは違う人である。

だから人間嫌いの私も、哲学書を通じて古代ローマの哲学者などの死者が考えてきた思想に、自分の価値観のカタチをみて、ワクワクする。

死者は嘘をつかない。生に固執して偽りを言うことがない。

生きている人は、自分を利するため、生き残るために、息を吐くように嘘を吐く。

それは良い悪いではなく、生きている限り当然のことで、私もそうだ。

だから、そういうものだと思っておくのがよい。

嘘を言うかもしれない他人と、いくら言葉を重ねても、最終的に完全な理解に到達することはできないだろう。

言葉には限界があり、表現にも限界がある。

そのなかで互いに意味を推し量り、理解を確認し、なんとか繋がっているのである。

その蜘蛛の糸のようなか細い繋がり。

それをいくら集めても、心もとなさには変わりがない。

むしろ、糸が切れる毎に、儚い細さを実感するたびに、より寂しく孤独感を募らせていく。

この終わりなき孤独の連鎖から抜け出す一つの処方箋。

それが、「違う」を「おもしろい」と捉えることだ。

違うから許せる。

違うから自分が見える。

違うから魅力を感じる。

違うから、愛せる。

違いを受け容れるから、自分も他人も違っていいんだ、と思える。

目を覆いたくなるような欠点が、眩く光り輝く美点に変わる。

自分とは違うひとを、受け容れ許すこともできる。

そして、他人を赦せる人は、他人からも許される。

財布のひもをがっちり引き締めている人に対しては、 愛想の示しようもない。 手は手でなければ洗えない。 得ようと思ったら、まず与えよ。

引用:高橋健二編訳「ゲーテ格言集」新潮文庫

結局、求めていた承認や安心感というのは、違うからこそ生まれるものなのだ。

同じでいよう、そうすれば傷つかないで済む、と己の保身のために似ていると思い込める他人に近寄っていって、最終的にはそれまでより深く傷つく。そんな不毛なことはもうやめよう。

違ってもいい、合わなくてもいい。

合わなければお互いに距離を取ればいいだけのことで、お互いはそれぞれありのままであればよい。双方には善悪はなく、正誤もない。

おもしろそうだから。

たったそれだけの感覚がきっかけで繋がった、私と妻の縁がこのうえない良縁だったのだから、間違いない。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする