【共依存】モノとして生きる空虚さについて

上司というか、職場の過干渉がきつい。

めっちゃうざい。

電話するのも嫌だし顔を見るのも嫌になってきた。

いよいよやばい。

結論としては、他人は変えられないので、自分の行動をどう変えるか、しかない。

極力接点を減らすこと。

仕事だけの関係だと割り切って、淡々と接すること。

できるだけ意識を割かず、『時間管理のマトリックス(4象限)』でいうところの第二領域=重要だけど緊急じゃない自分がやりたい行動に意識のキャパを割くこと。

それを徹底する。それ以外にできることはない。

ワーカーホリックの男というのは、仕事で褒められることに固執する。

これは、アイデンティティを、個として置くことができず、「社会的役割の商品価値」に置くからだ。

仕事で認められることが、唯一の生きていていい理由だからだ。

そう考えると、哀しい生き物なのである。

何を隠そう、私もそういう時期があった。

自分に自信がない。生きていていい確証がない。

「自分がどう生きたいか」ではなく「他人の目からどう見えるか」で生きている。

自分が嫌いで、ありのままの自分を肯定することができない。

自分のなかに輝く大事なものが何もない。

だからその空虚感を埋めるために承認を求める。

安野モヨコ先生の『後ハッピーマニア』の主人公、シゲカヨと同じだ。

「女の目」からどう見えるか、そのための結婚、そのための恋愛、そのための自分。

自分そのものを好きじゃない。だからそんな自分を好きな相手も愛せない。だから愛されていても愛し合えない。相互的な愛の交換ができないので、結局は関係は続かないし、本当に欲しいものはいつまでも手に入らない。

さびしさ。

さびしさを埋めるために男を道具として見てしまう。

だから、自分も商品である「モノ」として自覚してしまう。

だから「女」としての商品価値で自分を語る。しかも相対的に。

人間を人間として見ていない。自分も他人も。

だから限りなく承認を求めても、それは自分自身ではなくモノとしての自分なので、モノとして商品価値がなくなれば消失する承認をいくら両手いっぱい抱えきれないくらい集めても、決して満たされることはない。

形式的・物質的なハッピーをマニアのように集めても、それに「幸せ」は入っていない。

己のなかにしか、幸せは探すことができないのに。

そんな苦しみを生々しく描いている作品である。

そもそも、岡本太郎先生に言わせれば、幸せなんてものは、嘘っぱちだ。

自分がモノとして大切にされているのであっても、愛されていると勘違いできる、そういう突き詰めて考えない鈍い人が「幸せ」を偽っているだけ。

自分が自分として生きる。その過程で歓喜を味わう。今までのつらさが吹っ飛ぶくらい心が揺さぶられる瞬間に出会えば、この人生をもう一度生きてもいい、いや生きたいと思える。ニーチェのいう永遠回帰である。

それこそ「自己肯定感」というやつである。

自分のココが長所だから良いとか、これができるとかあれができるとかではない。それはモノとしての市場価値に過ぎない。

良いところも悪いところも、自分の人生の運不運も、まるっとすべてひっくるめて肯定できる。それが自己肯定感だ。生そのものの肯定だ。

そこまでいくと、結果はどうでもよくなる。

どういう結果であっても、自分のやりたいようにやること、自分の内なる声にしたがって素直に行動したかどうかが全てであって、何かを集めることには執着しなくなる。

他人のなかの自分の印象もそうだし、仕事の結果もそうだし、お金の多い少ないもそう。

結局は自分そのものの外側にある「概念」でしかないからだ。

外側に価値を置く限り本当の自分に価値を認めることはできないので、大して力を割くほどでもない副次評価項目が「結果」である。

そんなさびしさゆえの結果への執着。

そのノリを押し付けられると、げんなりする。

結果を出すことが正しいという信仰を持っているし、寂寥感・空虚感ゆえにそれに固執するのも分かる。自分もそうだったから。

しかし、いま改めて他人を通じて過去の自分を認識し、これほどウザかったのか…と愕然とする。黒歴史である。

仕事という興味のないMMORPGのギルドに無理やり入れられて、毎日「ログインしろ」「アレを集めてこい」「なんで同じ情熱でやらないんだ」って責められてやらされているような感じだ。

いや、ゲームだし。所詮ゲーム。これ本筋の人生のサブだし。どれぐらい一生懸命やるかどうかは個人の自由じゃん。押し付けないでくれます?って感じである。

資本主義社会はその「仕事ゲーム」に夢中になることを全力で肯定している。計算可能性・投資可能性・合理性を担保するために、人間は人間らしく不条理でいてもらっては困るからだ。

歯車のように、機械のように、予想できる欲望に支配されて行動してくれなくては、予測できないから。結局、社会全体がコントロール欲求に支配されているので、その社会という水槽で生きている私たちは病むに決まっているのだ。

この水槽の宗教と、私個人の価値観との乖離がとんでもなく大きすぎて、辟易としている、といったところなのだろう。

仕事ゲームを人生の中心に据えている人にとって、あるいはこの現代社会の価値観に照らし合わせると、結果なんてどうでもよいとコントロールを手放した私は「やる気がない」「仕事ができない」「優秀じゃない」「存在が我慢ならない、なんとかして思い通りに動かそうとしたくなる」そういう存在なのだろう。

さびしさを抱える人が仕事で偽りの自己肯定感を得るための比較対象として、格好の餌食になる立ち位置である。

比較して「俺のほうが優秀だ」「俺のほうががんばってる」「俺のほうができてる」と感じるために最適な比較材料として、つまり「モノ」として利用しようとする。

でも私はモノではないので、そういう材料として扱われるのは不快だから距離を取るだけだし、私が思う通りに動くので、他人のコントロール欲求を満たすために動くことはない。

そうなると「なんで思い通りに動かないんだ?!」とフラストレーションがたまり、責めたり罰したりし始める。

本当にウザい。しらんがな。好きなもの同士で勝手にやっといてくれよ。

たしかに江戸時代の五人組のように、組織はチームで動いているので、組織に従わないで好き勝手やっている人間には、ルサンチマンの負の圧力を発生し同僚がボコボコにするようにできている。特に日本は同調圧力が強い水槽なので、居心地が悪くなるのは当たり前っちゃ当たり前だ。

徒党を組むことがないスイミーのようなもんだ。

この濁り切った水槽で光を探すためには、のらりくらりと共依存的に関わってくるイネイブラーの同僚を躱しつつ、セルフケアで自分自身をご機嫌にしていくしかない。

とにかく光に集中すること。

しかし、困ったことに私は興味がなくなるととことん興味がなくなるので、最近仕事に興味がなくなり過ぎてタスクを綺麗に忘却することがある。これには本当に困っている。

上司が過干渉すればするほど、興味を消失していく。そして仕事が進まなくなる。

私を最も効果的に動かしたいのなら、最も良いのは放っておくことなのだが、結果をコントロールすることへの不安と恐れに苛まれているので、それは同僚たちにはできない。管理して強制しないと気が済まない。

無力を認めてくれるまでには、まだ時間がかかりそうだ。

憂鬱だけど、私は私として生きることしかできないので、のらりくらりとやらせてもらおう。

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