【共依存】呪いを愛と騙る

引用:『呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校』

人工甘味料と共依存

私は、この五条悟のセリフに違和感がある。

呪いなのは、愛ではなく、偽愛。

つまり共依存ではないだろうか。

彼は、共依存を愛と混同しているように思う。

人工甘味料は「つくりもの」であり偽物である。

人工甘味料には、サッカリン、アスパルテーム、ネオテーム、スクラロース、アセスルファムKなどがある。

カロリーゼロやシュガーレスを謳っているほとんどの商品には、これらの人工甘味料が使われている。

砂糖(蔗糖)の350倍(200~700倍)があると言われるこれらの物質を、一般的に人々はあまり気にせずこれらの物質を日常的に摂取している。

実は、砂糖のほうがまだマシなほど、人体には有害な物質である。

知らず知らずのうちに「ホルモンに作用する」「味覚を鈍化させる」「依存性がある」「腸内細菌への影響」「うつ病のリスク上昇」「腎機能低下」「脳卒中・心筋梗塞のリスク上昇」など様々な悪影響を受けている。

罪悪感に悩まされず甘いものを食べたい。

その欲望を狙って、金儲けのために製品化された毒物。

売るほうは金が欲しい。買うほうは言い訳が欲しい。

言い訳を金と交換している。無意識に自分自身を犠牲にして。

そこに愛はない。自愛も他愛もない。

共依存はまさに、この取引関係によく似ている。

「他者承認」が通貨。「安心」という自分への言い訳。

本当は、自分も他人も愛していない。大切にはしていない。

他人を道具に使っている。

偽りの「安心」を得るために「他者承認」を引き出す、あるいは与える。

そうして、しんどい人生から目を逸らし、見て見ぬふりをする。

人工的なその場しのぎ。

偽りの安心は、不安と恐れに苛まれる人にとって、甘美で刺激が強い。

「もっとほしい」「まだ足りない」・・・際限なく求める。

他人に気に入られるために自分を押し殺す。

他人から望む反応を引き出そうとコントロールしようとする。

自分のことを蔑ろにして、他人のことばかり考える。

基本的に人工甘味料のように本来は毒なので、摂れば摂るほど病んでいく。

気づけば、より多くの大切なものを手放している。

他人ばかりで占められた心。その芯には何もない。

スカスカのままの自分に、いずれは途方に暮れることになる。

他人も自分も承認していないので、通貨は底をつき、ついには尽くしていたはずの他人すら忌避して離れていく。

なにも無くなる。

共依存という偽愛は呪いになる

呪いのように自他を縛る鎖になるのが、共依存。

「あなたのためを思って」という前置きから始まる精神の束縛。

愛を騙り、呪いをかける。

たとえば親子。

「あなたのためを思って」と親は子に言う。

○○をしなさい。○○を頑張りなさい。○○になりなさい。

転ばぬ先の杖を両脇に抱えて、口うるさく指示する。

人生は、本人が決めて、本人が行動の責任を経験する権利がある。

その権利を取り上げて、自分の所有物のように扱う。

モノとして扱われた子供は、嫌だという気持ちを殺す。

私は愛されていると信じたい。この苦しい過干渉が愛だと信じたい。

だから、親になったとき、あんなに嫌だったはずなのに、我が子に繰り返す。

世代間連鎖が巡り巡る。呪い以外の何物でもない。

たとえばカップル。

「あの人は私が居ないとだめだから」と男の世話を焼く女。

相手が立ち直ろうとすると、ダメなところを必死に探す。

相手がダメでなくては「ダメな人間を支える私」という存在理由を失うから。

相手が自分より下でなくてはならない。ダメでなくてはならない。

だからいつまでも変わらない。

「あの人はいつまでも、どれだけ言っても変わらない」

心の底では変わらないことを望んでいるんだから当然のこと。

自分が相手をダメなままでいるように縛り付けている。呪っている。

相手は相手で「よくならなくていい」という甘さに溺れ依存している。

用意された「ダメなひと」という飼育スペースのなかにいれば、尊厳を失う代わりに、わかりやすい痛みを感じなくて済む。

しかし偽りの甘さで心の渇きは癒えない。閉塞感は静かに精神を押しつぶしていく。

いつか殺し続けてきた本当の思いは、鬱積し腐敗して恨みとなり爆発する。

ぶつけられて狼狽し「私はこんなにあなたに尽くしてきたのになんで」「あなたのためを思ってやってきたのにひどい」と嘆く。

全ては、身から出た錆。

まとめ:あなたの中の最良のものを

共依存は一見すると、愛と見紛う。

愛とは、そんなに粘着質ではない。取引関係ではない。見返りを求めない。

ベクトルは、双方向というより循環であり、潜在的である。

損得とは切り離された、爽やかな贈り物のようなものだ。

受け取るか受け取らないかは、相手に委ねる。

あなたのなかの最良のものを、ただ手渡すだけ。

『あなたの中の最良のものを』

人は不合理、非論理、利己的です

気にすることなく、人を愛しなさい

あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう

気にすることなく、善を行いなさい

目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう

気にすることなく、やり遂げなさい

善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう

気にすることなく、し続けなさい

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう

気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう

気にすることなく、作り続けなさい

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう

気にすることなく、助け続けなさい

あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい

たとえそれが十分でなくても

気にすることなく、最良のものをこの世界に与え続けなさい

最後に振り返ると、あなたにもわかるはず

結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。

あなたと他の人の間のことであったことは、一度もなかったのです。

マザー・テレサ

実は、愛の対象は「他人」という特定の相手ではない。

「全てあなたと内なる神との間のこと」というのは、そういうこと。

内なる神とは、人によっては「良心」であり、自分のなかにある、自分より大きな「流れ」を意味している。

諸行無常。

全ては移ろい、川の流れのよう。

その流れに身を任せる、水の一滴に過ぎない。

私たち一人一人は。

自分・他人と区別するのは自分の心。

水の一滴同士で「あっちが優れている」「こっちが正しい」とマウントを取り合い喧々囂々としているのが、世の中。

本来はもともとひとつ。

水を型にはめることができないように、大河のすべてを意のままにコントロールすることなどできないように、私たちには変えられないもののほうが多い。

他人だけでなく私たち自身もまた、本来コントロールできるものではない、ということ。

川の水が、太陽に光り輝くように、そのなかに命を育むように、愛とは、すでにそこにある。

どこにでも宿る美しい輝き。

だから、他人という水滴が、自分の行いを認めるか認めないかなど、気にする必要もない。

川全体に届くか届かないかも、気にするようなことではない。

今この瞬間に、最良だと信じられることをする。

他人に非難されようと、世間に認められなかろうと、自分が最良だと思うものを、無理のない範囲でただただこの世界に与え続ける。

それだけでよい。それしかできない。

それが愛である。

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