【AC】全く自信がなかった私が「世間」に全く動じなくなったのはなぜ?

最近私は本当に、世の中の価値観に左右されなくなってきた。

なんていうか、仕事していてすごく楽になった。

抗うつ薬を飲んでいるからというだけでは説明がつかない。それほど今までの思考の転換が起こり、ある種脳内では革命が起きているともいえる。

それを思い出しながらつらつらと書いてみたい。

それまでの私

思い出してみると。

私はとにかく「他人の評価が怖かった」。

どう見られているんだろう?嫌われていないだろうか?何か間違いをしていないだろうか?そのせいで仲間外れにされないだろうか?

そんなことばかり考えながら他人と言葉を交わしていた。

楽しいはずがないよね。

あとは、すごくすごく他人に認めてほしかった。

例えばの話、多少無理が祟ってそのあと数日寝込んだりすることになったとしても、他人に認められるためなら、多少の無理は通して頑張る我慢強いやつだった。

そうやって自分の時間とか健康とか、いろいろなものを犠牲にして頑張ったのに、他人が思うように認めてくれないとき、私は怒り狂った。

我慢したくないものを我慢して、それでもほしいと思った承認が得られなかったときの苦しさはとんでもなかった。

だから、毎日毎日何かに追い立てられるように仕事をしていた。そしていつも苦しかった。

何が私をそうさせたのか?

結局これって「アダルトチルドレン」として獲得してきたライフスキルがそうさせているんだよね。

社会(親や地域社会)に与えられた「正しい」をちゃんといい子に守らないといけなかった。そうでなくては世界に居場所がなかった。

それって相当世界を歪ませるし、自分の「楽しい」を「正しい」で叩き潰されると、心が壊れちゃうから、痛くないと思い込もうとして蓋をする。心はそういう防衛本能を持っている。

だから自分の本当の気持ちにふたをするようになる。「自分が何を考えているのか、何が楽しいのか、どうしたいのか」が次第にわからなくなる。

そして頼れるのは「正しい」だけになる。社会に押し付けられてあれだけ嫌だったものさしだけが、自分を支える価値であり生きる基準になる。

こんな屈辱的なことはないよね。

喩えるなら、めっちゃ親が憎くて殺したいくらい嫌いだけど、学生だから親に学費出してもらってご飯恵んでもらわなきゃ生きていけないみたいな惨めさ。みんなが学生の頃味わったあの苦さに似ている。

だから心のどこかでは納得していないし、怒っているし、自分の「楽しい」を叩き潰されたことを哀しくつらく思っている。そしてそれらのことを心の奥底では憎み続けている。

だから、「正しい」から外れている人をみると、ものすごく攻撃したくなる。

従いたくなかったものしか頼れるものが無い自分の惨めさを見たくないから。

自分が我慢して我慢して「これでいいんだ」と思い込もうとしている「正しい」を否定されてしまったら、自分が今まで我慢してきたことがいかに愚かなことか、気づいてしまうから。

気づいてしまったら、その大きすぎる後悔と怒りに圧倒されて自分がぐちゃぐちゃになってしまうから。自分で抱えられる自信がないから。

そんな理由で、必死で見て見ない振りをする。

そういうひとが、ほとんどと言ってもいいかもしれない。びっくりするほどたくさんいる。自覚している人もいない人も、大体そんなことが苦しみの根幹。

12ステップに出会って

私はありがたいことに、12ステップ・プログラムに出会った。

最初は胡散臭いなと思っていた。「神」とか言われたら誰だって引くよね。

でも、考え方や物事のとらえ方は、確実に私の真の病巣にリーチしてきた。

本当に思っていたことを思い出すために、私は今までの様々な心の澱みを、このステップの力を借りて見つめ直さなくてはならないということが、取り組んで初めて自覚できるようになっていった。

本当に少しずつ、少しずつだった。

アルコール依存症という病を患ったことを、恥ずかしいと思っている自分にも出会った。

どうしても他人に認められて社会的地位を得たいけど、己の失敗がもとで得られない現実を受け容れられなくて、「んなもんいらねーや」と突っ張っている寂しさにも出会えた。

「自分だけなんでうまくできないんだろう・・・」と思って世界がとにかくおそろしくて、周りの人間がみんな自分をバカにして責めているように感じてきたけど、貶めて責め続けていたのは、本当は自分自身だった。

そのままで受け容れてもらえなかったから、何者かにならないといけないと思い込む。

だから、様々な「応急処置」をしながら、自分以外の何かになろうと一生懸命に努力していたのだ。

でも、人を繋ぎとめるための欺瞞を塗り固めれば塗り固めるほど、覆われて心の呼吸は苦しくなる。本当の自分で世界に接することができていないから、いつまでたっても「ここにいてもいい」という本当にほしい実感を得られない。だって、ここにいるのはいつまでも「自分」じゃないから。受け容れられているのは「自分」じゃないと思うから。

そういう様々なことが点で理解できるようになり、あるときバーッと線になる。

「ああ、そういうことか」「全部あったのに私は何を足りない足りないと今まで嘆いていたのだろう」と。

何も着飾る必要はなかった。

ただ、自分の心の赴くままに在ればいいだけだった。

小賢しく策を弄して他人にちょっかいを出さなくても、私は私のままでよかったんだ、生きていてよかったんだ、ということに気づく。

そうすると、不思議なことに、未完成である自分と同じように、未完成の他人もまた、受け容れられるようになる。

私が完璧でない自分を受け容れないでイライラしているから、他人も受け入れられなかったのだ、という単純な状況を俯瞰的にとらえることができるようになる。

自分が感じたことや思うことを堂々と丁寧に正直に伝えることこそ、「最も優しいこと」だったんだとわかる。「相手のことを思って・・・」と自分の本心でないことを言うのは、関わりの責任を相手になすりつけているだけ。要は傷つかないための責任逃れ。だから私は他人と友達と呼べる関係になれなかったのか。

相手ではなくて、自分のあり方の問題だったことを理解する。自分を大切にできる人だから、相手を大切にできる。

相手をどうこうするんではなく、自分がどうあるか。それだけだったことを知る。

世の中の矛盾に気づいて

そうして自分のなかの霧が晴れていくと、やっと世の中が見えてくる。

以前は恐ろしいほどに立派で正しくて、私を全否定してくるんじゃないかと思っていた「勝ち組」と呼ばれる「権威ある存在」は、実はただの狂人だったのだとわかってくる。

この世の大多数が適応しているこの社会が正しい、と多数派である「世間」を信仰してきたけれども、信仰に足るほど立派でもないことが見えてくる。

自分の利益のことばかり考えて、他人が傷ついたり踏みにじられたりすることに鈍感で、都合の悪いことは見て見ない振りをし、考えたら辛くなることは考えない。

本当にみんなそういう弱さを持っていて、それだからこそ人間で、その人間がつくった社会は、実は全然いいものじゃない。

今の日本を見ていてもわかるけれども、一部のお金持ちや比較的余裕があるひとが今までの暮らしを守ろうと強い存在に取り入って、他の人を間接的にどんどん殺している。

自分のために他人を殺すことを平気でできる、あるいはそういう情景にも関心を持たないでいられる。それが「社会人」であり「常識人」の姿だった。

社会が狂っているから、その社会に適合できる人間もまた、人間でなくなっていっている。

これが生まれてからずっと感じてきた違和感だったということに気づく。

私が苦しいのは、社会システムが狂っているからだった。

そっちに近づかなければと30年以上苦労してモデリングしてきた対象は、ただのクズだった。

だから違和感があったし、納得いかなかったのだ。

「世間」や「常識」なんてたいした価値も力もない

そういう真理に気づいて、私は視界が拓けた。

「ああ、なんだそういうことか、私が劣っているとかじゃない、狂ってるんだ」

そう思うと、世の中のあらゆる社会的権威や社会的地位や資本主義経済を主軸とする価値観に、何の執着もなくなる。

たとえば「エリートサラリーマン」だと自分の社会的地位や収入を誇り他人を見下す同僚Aがいるとする。

いやいやw

Aさん、あんたなんもわかってないじゃん。結局グローバリズムっていうシステムの奴隷になってるだけだよ?

出世するってのは企業という金儲けマシーンの奴隷としての素質を認められたってことだよ。やったね!プロの奴隷として会社から認定されて嬉しい?よかったね!

一生懸命他人に言われたどうでもいいこと毎日やって、自分さえよければいい、という品性が下劣な生き物に成り下がって、「人間」からどんどん離れた歯車になってるじゃん。人をやめてモノになる。そんな人生が誇れる人生なの?お金集めがうまいことが人間の価値だと思ってるなんてかわいそう。それはシステムの部品としての利用価値だよ。

あるいは、バナナを求める猿と変わんない。承認欲求と自己顕示欲を満たすために出世・昇進という社会的価値を求め、物欲や性欲や所有欲を満たすために貨幣を求める。それって虚しくない?やってることは、くだらないゲームだよ?命において大切なことには、何ひとつ気づいていないまま、人生を終える。ああ、そういう鈍感力を誇ってるってこと?なら納得。

自分のほうが稼いでる?あのね、金ってのは今の社会じゃ人間性を削って換金してんの。鰹節みたいに。あんたの人間性あとどんだけ残ってんの?

たとえば社会から「お前は発達障害だから」「お前は依存症者だから」とレッテルを貼って社会に無理やり合わせるよう強要されたり、侮蔑的な態度をとられたとする。

いやいやw

依存症になるほど追い詰められたのは、半分は自分の無力さだったけど、半分はこの社会が狂ってるからだよ。

無力なのはお前らも同じ。それなのにこんな狂った社会に適合できている(と勘違いしたまま生きられる)お前らのほうがよっぽどだろ、どっちかっていうと。

発達障害が「劣ってる」って誰が決めたよ?

そりゃお前らだろ?狂ったお前らの狂った基準だろうが。勝手にひとをそんなクソしょぼい型で語ってんじゃねー。

今の資本主義社会に適合できているから自分たちのほうが有用だなんて勘違いしてんなら、そっちこそおつむが弱い。

誰も動けないときに動ける突破力、多くの思考を巡らせて独自の世界観を構築できる多角的同時思考能力。そんな力を生かせずに病気にしちゃうような未成熟な社会を変えてやるために俺たちが生まれてきたんだよ。

とまあ、こんなふうにドーンと跳ね返すことができる。

誰のどんな特性だって、個性だと受け容れる度量をもつことができる。

倫理に反し他人を簒奪しない限り、人はどんなふうでも生きていっていいと、本気で確信する。

むしろ間接的に人殺しをしまくって他人から奪いまくっている今の常識人というサイコパスたちに、何も言われる筋合いもない。

しかたなく、今はバナナ(金欲・性欲・名誉欲)が欲しいだけのお猿さん(世間のひと)たちと共存していかなきゃいけないから、お猿さんが頑張って考えた「資本主義経済社会」というクソ詰んでる下らないワンダーランドにもたまに顔出して適当にお茶を濁しつつ(必要最低限の収入を稼ぎつつ)、バナナなんかは猿にくれてやって、もっと自分が面白いと思うものを追いかけていけばいいのだ。

一度しかないんだから、猿に合わせて終わってちゃもったいない。

この社会がクソなら、少しでもマシになるようにがんばってみよう。それは、これからを生きていく多くの人のなかにも自分が生きていくことになる。

私は、それが最も高尚で面白い生き方だと思っている。

だったらそう生きればいいだけなんだよな。

まだまだやれることはあるし、私はこれからどうあっても、何も悪いことなど無い。

良いか悪いかは、私が決める。それは誰にも奪われないことなのだ。

私は無力で自分以外の大きな力の流れに全く逆らえないけれども、その力を信じ委ねる限りにおいて、私は完璧に自由で、足りないものは何もない。

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