【AC】無理して親孝行なんてしなくていい、という話

親孝行なんてしなくていい。

こんなことを言うと必ずといっていいほど

「育ててもらった恩を忘れてなんて薄情なんだ?!」とか

「そういって親孝行しないと、親が死んでから後悔するんだよ」とか

もっともらしいことを言って否定される。そんな経験はないだろうか。私はある。腐るほど。

しかし、真実は「無理してやるくらいなら親孝行なんてしなくていい」なのだ。

親になり子育てをするのは、たしかに大変

私には1歳になる娘がいる。

親になってみて想うことは、私の親も大変だったのだろう、ということだ。

予測不可能な動きをするし、ちょっと目を離したすきにすぐどこかに行ってしまう。

夜は3時間おきに起きて泣きわめくが、なんで泣いているのかはすぐにはわからない。

仕事をしてヘトヘトになって帰ってきて、今まで独りで世話をしていた妻に代わって面倒をみたりしていたら、あっという間に1年経っていた、というのが素直な実感だ。

私はASDとADHDという発達障害を持っている。

簡単に言えば、集団行動が嫌いで、他の子と遊ぶのが好きでなくて、変な遊びをずっとやっているような子だったと思う。興味のないことにはとことん興味がなく、忘れ物は多く衝動的にどこかに行ってしまうようなタイプで、泣いているときは夜通しぶっ続けで泣いていたこともあったという。

そんな私を育てるのは、根気のいる、とても神経が磨り減る仕事だったに違いない。

事実、私の母親は周囲に馴染めずうまくいかない我が子(私)のことを、いつも眉間にしわを寄せて悲しそうな目で視ることが多かった。ため息をついて、いつもしんどそうにしていた。

私は、私が自分らしく私のままでいると、この女の人を悲しませることになるのだな、といつも思っていた。

そんな風に、私の実家はいつも灰色の空気が流れているイメージで、それだけ私という子供を育てることは両親にとってストレスフルだったということはよく理解している。

それでも子供は恩を売られる筋合いはない

それでも、子供がこどもであることに、罪はない。

泣きわめき、泥んこになって遊びまわり、結構なケガをして痛みを知るのも、成長するうえではどうしても必要だ。

彼ら彼女らにとっての『仕事』は、元気に失敗しまくって自分らしく生きることだ。

そもそも、生まれてきたのは両親のおかげ、というが、両親が勝手につくったのだ。

父と母、セックスがしたいからしたのか、あるいは子供が欲しいからセックスしたのか、いずれにしても主体的に父と母がセックスすることを選んだからこそ、卵子と精子が受精し私がいる。

それで負荷がかかる責任は、父と母にある。

私は生まれる時点で、「人間として生きてみたいので、生まれた暁にはどうぞ世話してください何卒よろしくお願いします。この世に産まれて楽しく生きてみたいんです。」なんて要望は出した覚えがないし、現時点でどっちかっていうとそんなに生まれたくもなかったな、と思っているので、逆に言えば勝手に生みやがって本当にいい迷惑である。

それを勝手に「育ててもらった恩を忘れて」と言われても困る。

それでは、要りもしないのに押し売りしておいて、多額の請求書をまわしてくるどこかの悪徳セールスと変わりないではないか。勝手に生んでおいて何をこっちに責任を押し付けようとしているんだ、ふざけるな、と言いたい。

そんなこと言うなら、私に対する「生ませてもらった恩」を忘れていませんか?と言いたい。

さんざん愛玩動物のようにあれやこれやと自分の人生の飾りのように好き勝手しておいて、自分が弱ってきたら恩を返せだなんて、自分たち専用の扱いやすい奴隷でも育てたつもりなのだろうか。いい加減にしてほしい。

つまり、育ててもらった恩=生ませてもらった恩なのであり、事実上相殺されるため、子供は育ててもらった恩を返す必要はない。

自分の面倒を自分でみる気がない人はまともな親ではない

よく、老後は娘にみてもらおうとか、長男家族の世話になろうとか、それで介護うつに悩まされたりノイローゼになったり、認知症になった義母を虐待してしまったり、死に至らしめてしまうということもニュースに取り沙汰されている。

人間は、結局は独りである。

どれだけ理解しあえると思っていても、自分と全く同じで、自分の肩代わりをしてくれる、ということはない。

助け合い、つながりあい、お互いに支えあうことはできても、結局は自分の力で生き抜くしかない。その根本がないと、助け合いやつながりのつもりがいつの間にか、健全ではない依存関係になってしまう。共依存やイネイブリングが、まさにそれである。

助け合いもつながりを持つのも、お互いに心理的に自立し自由に選択できている状態で「やりたい」と思うからするものではないか。

「やるべきものだから」「必要とされているから」という外的要因で、着手することではないのではないか。それはいずれ破綻する。なぜなら、本心では「やりたくない」ことかもしれないのに、無理にやることになるからだ。

そんなわけで、育てた見返りに子供に介護をしてもらおうなど親側が期待することは、言語道断だと思う。

親からしたら、それはそれはありがたいだろうと思う。頑張って育てた子供が、最後まで面倒を見てくれて、「お父さん、お母さん、ありがとう」と言われて手を握られながら生涯をとじる、なんとも吐き気のするくらい甘ったるい、都合のいい最後ではないか。

それは親からみた子供の理想像であり、それが世間の「常識」として君臨しているからタチが悪い。

「常識」はいつも大人の立場で語られる。だから子供の気持ちは盛り込まれていない。

そんな親側の常識を押し付けられて、納得いかないままに皆がそうしているからと従い、歪んだ軋轢を代々引き継いているのが、日本の伝統的な「家」という制度である。

親は、「子どもの幸せ」が望みではなかったのか。

「子どもの幸せ」は、子ども自身にしか決められない。

子どもが自由に幸せを見つけられるように、独り立ちしたら、それまでの自分の教育を信じて、できるだけ干渉せず、意志決定の邪魔にならないように、自分のことは自分でするのが、最も親として徹底するべきことなのではないだろうか。

「自分のことは自分でできるから、あんたたちにはもうあんたたちの生活があるんだから、私なんかにいつまでも構ってないで楽しく生きてちょうだい」

こう、本心から言う親になりたい。

それは死の心細さはあるかもしれない。生涯をとじる前に自由にならなくなった体や頭に不安を覚えて、誰か親しみを覚えている人にそばにいてほしくなるかもしれない。

そうなったとき、思い浮かぶのが娘や息子だけのような、脆弱な人間関係のつながりや助け合いでは、やはり健全ではないのだ。

父母と言えど、結婚したら子どもは別の家庭を創るのであり、子供だった頃とは違い、「元・家族」と言っても過言ではない。

つまり「他の家にお世話になる」という意味では、近所を頼るのと何ら変わりない。それぐらいの遠慮があってしかるべきである。

それなのに、子供だから、育てた恩を着せているから、親孝行はするものだから、と「やるのが当たり前」と思っているほうこそ間違っているのだ。

「親孝行」という世間的に響きの良い言葉でごまかして、やってもらうのが当たり前と勘違いするだけでは飽きたらず「あんたたちもこれだけお世話になった大好きなパパやママのお世話やりたいでしょう?」と言わんばかりに居直っているその厚顔無恥な態度が、いよいよ気に食わないのである。

いくら一時期とても世話になっていても、基本的に年老いた老人のお世話がしたいわけがない。

まとめ:私は親孝行はやらないし、子供にも要求しない

私は、やりたくない。

だからやらなくていいと思っている。

むしろ、「普通の素敵な家族」というオママゴトに付き合わせるために勝手に配役してこの世に産まれさせられて、どれだけ苦しかったことだろう。その負担分で育ててもらった恩を超過しているので、差額を請求したいぐらいである。

あくまで子供は望んでもいなかったのに、親が勝手に生んで勝手に育てたのだ。恩があったとしても、子供のほうも育つうえで苦しかったのだということを勘案するべきだ。

親孝行をしない、というだけで済ませてもらえて、むしろ感謝してもらいたいくらいだ。

親孝行は「この両親にならしたいな」と子供が思うからする、ラッキーボーナスみたいなものだ。勘違いされては困る。そもそも、無くて当然なのだ。

だから私はパートナーとこの生きづらい世の中を生き抜くために、一生懸命、自分の人生を生きるつもりだ。

私のその後ろ姿が楽しそうなら、子供は生まれてきたことを希望に思うだろうし、勝手に楽しいことを見つけていくだろう。その背中をそっと押してあげることぐらいだ、親にできる事は。

まずは、自分が主人公の、自分の人生を、ちゃんと生きるのが先です。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする