【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑨(承認を求めようとすること)

今回は、承認を求めようとすること について棚卸ししていきます。

承認を求めようとすること とはどんなもの?

■承認を求めようとすること■

機能不全の育ち方をしたので、わたしたちは承認されなかったり、批評されたりすることを恐れます。子どものとき、わたしたちは親や祖父母や兄弟姉妹や重要な他人から、愛と承認を受け取ることを絶望的に浴していました。わたしたちの大部分にとって、それらが得られたことは滅多になかったので、私たちは今も他人からの保証を求め続けています。しかしながらこの承認の欲求・必要が、自分の生き方や考え方を他人の欲求・必要に合わせるという、私たちのやり方に重大な影響を及ぼしています。私たちは、自分自身をどうやって愛し、承認したらいいか知らないので、自分をよいと感じるために他人からの補償を求めようとします。また他の人たちに自分を好きにさせるように振舞うかもしれません。この「外に焦点を合わせること」は、わたしたちが自分の欲するものや必要とするもの、自分の感情や欲求に気づくことを妨げます。わたしたちは、他人の反応を見てその人たちを楽しませるにはどうしなければならないかを推し量り、彼らの私たちに対する印象を管理しようと試みます。わたしたちはすべての人を楽しませようと努力し、他の人を傷つけたくないので自分自身にとって破壊的な関係にしばしば留まります。

他人からの承認に対する必要・要求があるとき、わたしたちは次のようであるかもしれません:

●人の機嫌を取る
●批評を恐れる
●自尊心を欠く
●自分を無価値に感じる
●自分自身の必要・欲求を無視する
●失敗を恐れる
●集中力を欠くこと
●身体的な不快

******
『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
59Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

✨この本の購入はこちらからできます✨

https://aca-japan.org/docs/books.html

ACAに繋がってなくても、欲しいと言えば送ってもらえます。
お求めの際には、ここの名前は出さないようお願いいたします

「人の評価を気にしすぎてつらい」

いつも人と何かをするときには、息苦しさがありました。

今も正直、人と付き合うのは苦手でおっくうで、あまり楽しいと思えません。

何かをするときは、常に以下のような強迫観念で身を固くしがちです。

・失敗してはいけない。

・完璧にやらなくてはならない。

・結果を残さなくてはいけない。

・結果は人より優れていなくてはいけない。

人と付き合うときには、常に以下のような恐怖をともなう義務感があります。

・嫌われてはいけないし、できるだけ好きにならなくてはいけない。

・一度会ってしまったからこの人の個人情報を覚えなくてはならない(でないと失礼だから)。

・楽しませなくてはならない。

・自分のしたい話ばかりしてはいけない(相手の話を聞かなくてはならない)。

・また会いたいと思われる人物イメージ(明るい・知的・好感が持てる)でなくてはならない。

はじめの固定観念は「結果の評価」、2番目の義務感は「人としての評価」です。

なぜこのように、私は評価を気にするのでしょうか。

私は、「結果を残さなくては私に価値がない」と思っているからです。

私は、「本当の自分を見せたら嫌われる」と思っているからです。

それはなぜでしょうか。

それは、親との関係・幼少期の人付き合いにおいて、経験的にそう学んだからです。

承認してもらえなかった苦い経験

親は、私がうまくいったときにはとても喜びました。

私が失敗したり、他の子より劣った結果しか残せないとき、哀しみました。

「いいのよ、がんばったわね」と口では言いながら、顔と目は「なぜあなたは一番じゃないの?なんで負けてしまったの?」と言っているように感じました。私はその目を向けられるのが、すごく惨めで哀しい気持ちになるので、たまらなく嫌でした。

だから、結果を残して親に認めてもらいたい、親が喜ぶ顔が見たい、と思っていました。人に認められることが、正しいことで、良いことで、逆に言えばそうでなくては価値がない、と思い始めたのは物心がついて少し経った小学校の頃だったように思います。

私はそんなに運動神経が生まれ持って良いわけでもなく、抜群に頭がキレるわけでもありません。

それでも、クラブ活動や受験では他人と比較されますし、優秀な他の子の活躍をうらやましそうに見る両親の横顔を悔しさで唇を噛み締めながら、眺めていたような情景が思い浮かびます。

親は私を見ていないと感じました。

私が残す結果や社会的なステータスを見ていたと思います。

だから、私は寂しかった。

こっちを見て、と言いたかったのだと思います。

しかしそれは叶いませんでした。

奇しくも時を同じくして、幼稚園~小学校低学年にかけて、私は周囲の人間にも受け容れてはもらえませんでした。

独りで遊ぶことが好きだった私はよく保母さんや先生に「お友達と遊びなさい」と半ば強制的に好きなことを中断させられてやりたくもない集団行動のなかに投げ込まれ、ひどくストレスを感じていました。

「お友達」はそんな変わり者の私を嗤い、物をぶつけ、暴力を振るってきました。怒りを感じる瞬発力がなく、やり返すのが遅いため、少し経ってから何の前触れもなく復讐したりするので、よく私が加害者だと誤解され、叱責されました。タイムラインをよくわかってない他人から見れば、私が突如暴力を振るったように見えますからね。

「好かれなければならない」という生存戦略の行く末は

そんなわけで、私にとって他人は脅威でした。

いつ攻撃されるかわからない。反撃には賞味期限があり、攻撃されたら瞬時にしなくてはいけない。そしてそもそも、攻撃されないように、よく観察し行動を模倣して、うまく溶け込み、敵視されないようにしなくてはならない。

「好かれなくてはならない」=『「人としての評価」を高く保たなくてはならない』という思考にたどり着きました。

そこからは、作り笑顔の練習、声のかけ方や友人としての振舞い方、冗談の言い方、何が冗談と嫌味の境目なのかの見分け方、さりげなく嫌味を打ち返す即答話法、など、自分なりの処世術を行動心理学や人間観察を通じて学び、なんとか自分なりに集団に溶け込み合わせることができるようになった「つもり」でした。

しかし、やはりいつもまでも真似事では、違和感はぬぐえませんでしたし、何よりできたのは「知人」であって「友達」ではありませんでした。うまく騙せても、偽りの自分で接する限り、魂の触れ合いはありません。どうしても一定以上の距離には、近づくことも近づかせることもできないのです。そんな上辺だけの空虚な人間関係に嫌気がさして、行き詰まりを感じ、閉塞感で窒息しそうな毎日を送る羽目になりました。

その孤独感と、結果を残さなくてはならないという焦りや不安から、心を守り脳を鎮静させるためにエチルアルコールに頼ることになり、逆に脳を薬物でラリらせて、心を痛めつけることになります。

すなわち、アルコール依存症を発症するわけですが、今考えれば当然の帰結というか、因果関係として立派に成立する妥当な経路を辿っただけだったのだな、と思います。

承認を求めようとすることからの回復 ってどんなもの?

今、私はようやく、「優れた結果が残せなくても、私はここにいていい。」ということと、「人に好かれようと自分を偽らなくてもいい」ということを、自助グループに繋がり、棚卸しをしていくなかで少しずつ、認めてもいいのではないかと思えるようになりました。

□承認を求めようとすることからの回復□

自分自身の承認と、ハイヤー・パワーの承認に頼り始めるとき、承認を求めること自体はOKなのだということを、わたしたちは理解し始めます。他人を操ることはしないで承認を求めるやり方を身につけます。他の人たちの褒め言葉を受け入れて、その褒め言葉が心からの物であることを信じて、率直に「ありがとう」といえるようになります。わたしたちは自分の欲望に焦点を合わせて、「イエス」と思っているとき「イエス」と、「ノー」と思っているとき「ノー」と言います。

適切でない承認の求め方から回復するにつれて、わたしたちは次のようになっていきます:

○自分の必要を認める
○自分自身がどう感じているかについて本当のことを言う
○自分自身に対して忠実になる
○自分と他人に対する信頼を築く

******
『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
60Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

✨この本の購入はこちらからできます✨

https://aca-japan.org/docs/books.html

ACAに繋がってなくても、欲しいと言えば送ってもらえます。
お求めの際には、ここの名前は出さないようお願いいたします

さて、本当のことを言えば、私は今まで強がりを書きました。

ということを白状します。

というのも、あたかも気に入られなければならなかったから、それを欲していなかったけど、生きるためにしかたなくそうせざるをえなかった、かのような書き方をしました。

本当に望んでいることから今もなお目を背けようとしていたことを、ここに認めます。

私は、親にも、友人と呼ぶべき同世代の子どもたちにも、そのままでいいと言ってほしかった。仲間に入れてほしかった。私が生きたいように生きている姿を認められたかった。

私は、そうでない現実が辛かったし、独りで泣いている日のほうが、笑っている日よりも多かったことが、とても惨めで哀しいし、悔しいです。

そのままでも、生きていていいんだよって、言われたかったです。

そのままでも、あなたが必要だよ、って言われたかったです。

その願いが満たされなかったから、私は「そんなもの求めてない」と言いながら、卑屈にもご機嫌をうかがって、顔色に一喜一憂して、今まで生きてきたことを認めます。

自信がなかったのも、楽しくなかったのも、すべてそのような機嫌取りの態度で、他でもない私が一番自分を蔑ろにして生きてきたからに、ほかなりません。

私の場合は、受け容れてもらえなかったというどうしようもない、変えられないものを変えようと涙ぐましい努力をしてきた結果、本当になりたかった姿とは程遠いものに成ってしまっていたことを、事ここに及んでは認めざるを得ません。

「承認を求めようとすることからの回復」の項目で、特に心に刺さったのは、「自分がどう感じているかについて本当のことを言う」という文言です。

私は他人の印象を操作して、「気に入られる自分」であろうとするために、本当のことを言ってきませんでした。自分がどう感じているかについて知られることを恐れました。

なぜなら、自分の本心を話しても受け取ってもらえなかった手痛い失敗を繰り返してきて、すっかり恐ろしくなっていたからです。

しかし、棚卸しを繰り返し、どうしようもないものに囲まれながら自分自身が精いっぱい生きてきたのだ、ということを自覚するにつれて、私は自分自身を承認することができるようになってきました。

それは、素直に自分の言葉で話したこと、その精一杯差し出した言葉たちを自助グループの仲間が否定せずただ言いっぱなし聞きっぱなしで聞いてくれたこと、の2つによって徐々に実現してきました。

その結果、あんなに吹けば飛ぶほど頼りなく、他人の評価に右往左往していたのに、今では自分自身の感情と本質を頼り、またそれに従うことにこそ最も安心を感じるようになってきたように思います。

つまり、他人に承認を求めること自体は悪ではないが、他人というコントロールできない存在に求める以上、承認を得られないこともある、という「変えられないこと」を受け止める勇気を持ち、それでもやっぱり承認を求めてしまう自分の欲求そのものを否定しないで認める努力を始めたということです。

自分の承認欲求について、見てみない振りをすればするほど、純粋な願いだったはずのそれは、後ろめたいものとして色濃く影を落とし、心に棲みついてしまいます。

操らず、自然に生きること。

それでもらえた賞賛ならば、私は素直にそれを受け取ることができるかもしれません。

なぜなら、他人を操ろうとする心が、相手が発した言葉を深読みさせ、素直に受け取らせないようにするからです。

私がまじりっけなしに他人と関わり、YESのときにはYES、NOのときにはNOと言って堂々と胸を張って生きている限り、たとえ他人が嫌味で言ったり真意は他にあったとしても、私は私の世界のなかでは、他人の褒め言葉を真実と取ることができ、力に変えることができるでしょう。

その積み重ねが、自分への信頼、その自分を信頼してくれる他人への信頼を、少しずつ築いていくのです。

私は、この歪んだ強迫観念と義務感を否定するのではなく、「私があの頃を生き抜くためにはどうしても必要だった」と一度抱きしめることにしました。

そして、今は幸福にも必要がなくなった、それらの想いを手放し、楽しく生きられる生き方を、みなさんと一緒に探していけたらいいなと思っております。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする