『言語ゲーム』という概念をご存じだろうか?
オーストリア・ウィーン出身の哲学者、ヴィトゲンシュタインという人が考えた。
この人は最初は「哲学上の諸問題と言われるもののほとんど全ては、定義の問題に帰着する。」と言っていた。
つまり「この世のあらゆる問題は、言葉を完璧に定義していて記述が論理的に正確であれば、簡単に解決できる。」っていう主張をした。
だけども、言葉は実は「完璧に定義すること」ができないことに気づいた。
たとえば同じ青を見てても、「全く同じように見えていて、それを『青』と呼んでいるかどうか」すなわち、『青』は全く同じことを指す言葉なのかは、確かめようがない。
なので後になって、冒頭の『言語ゲーム』という概念が生まれた。
人は、「言語を使ってルールに基づいて意味を伝える」ことをしているのではなくて、「ルールはその都度(各々が勝手に)変更しながら、言語を使って遊んでいる(ゲームをしている)」と捉えた。
言葉は、それぞれが受け取りたいように受け取っていて、そこに明確なルールなど実はないのである。
ルールを作っているのは自分自身
ここで私が興味深いなと思ったのが、「各々が勝手にルールを変えて言語を用いたゲームとしている」というのは、まさに人が生きる上で世界をどうとらえるか?という世界の見え方を定義しているところだ。
一言でいえば、人は見たいものを見る。
みんな、これに似た覚えはないだろうか?ルールを自分で作っていることを例えるなら・・・そう、雨。
「雨が降れば憂鬱な気持ちになる」と思い込んでいるとする。
その人は雨が降ると憂鬱になる。
しかし実際は、雨の日でもいいことはある。
でも、その人のなかでは、「雨が降る=憂鬱な気持ちになる」がルール化されているので、そのルールに基づいて世界が見えていく。
憂鬱な気持ちになるような出来事を選んで拾ってきて、「ああ、やっぱり雨の日は憂鬱だな」というルールに基づいた思考のゴールにたどり着く。
言語に限らず、人はその定義を自分のなかに創っている。
意味を、意義を、価値を、生み出すのはいつも自分の心だ。
言語ゲームとしての「仕事」
その視点で「仕事」を見てみよう。
ある人は「誰から見ても良い妻でいること」を「価値ある仕事」だと定義して、自分の趣味も楽しみも置いてけぼりにしながら、毎日やりたくもない炊事洗濯に追われて、寝る前になって毎日「今日も良い妻だと思ってもらえたかどうか」を点検して憂鬱になっている。
「良妻賢母ゲーム」とでも言おうか。
ある人は「社会から認められること」を「価値ある仕事」だと定義して、家庭も時間も犠牲にして、毎日やりたくもない仕事に明け暮れる。人に評価されるために結果を求め、結果を出すために何をすればいいか。それに特化してHOWTOを撫でて本質に触れることなく、「やるべきこと」をしたためたTODOリストに溺れていく。
「出世しましょうゲーム」とでも名付けよう。
そんな人は、この世の中にあふれているように思う。
みな、やりたいように何かしらのゲームをしているのである。
そして、それらのゲームが死ぬほどつまらないから、自分のやっているゲームが嫌になっている。
嫌になっているのに、嫌になっていることすら自覚できなくて、続けるうちに実際に自ら命を絶ってしまったりする。
あるいは、出所のわからない苛立ちを抱えてネットで他人の粗探しをして、正義の名のもとに無差別に叩いては、己の溜飲を下げようと必死だったりする。
あるいは、他人の人生に肩入れをして「あなたがいてくれてよかった」「あなたがいないと生きていけない」と言ってもらったり、そう錯覚したりするために、他人の人生のお世話ばかりをして自分のゲームのつまらなさを忘れようとしたりする。
あるいは、酒やたばこ、その他もろもろの薬物で脳を化学的に直接誤魔化して、ゲームから逃避してしまおうとする。
そんなに嫌ならやめりゃーいいのに、いつまでもプリプリ怒りながら、シクシク泣きながら、ゲームをしている。
ゲームは選べる。
なぜならプレイヤーは自分だからだ。
「良妻賢母ゲーム」がもう嫌になったなら、「私の人生どれだけ楽しめるかゲーム」にすればいい。
「出世しましょうゲーム」がもう嫌になったなら、「自分がやりたいことをしましょうゲーム」にすればいい。
なんでずれてしまったのか?
なんでしたくもないゲームを始めたのか?
それは「価値ある仕事」という言語が、自分で定めた言語ではないからだ。
どっかの誰かが「価値ある仕事」だと言っていたから。
そうじゃないだろうか。
どっかの誰かの言語でしゃべっている、ゲームをしている。
だからいつまでもやらされ感があるんじゃないだろうか。
あなたがやりたいゲームは?
「良妻賢母」がいいのか?
「出世しましょう」がいいのか?
本当に?
私が、あなたが、そう思っているのか?
そう思い返してみたことはあるだろうか。
私はなかった。言語ゲームの主導権はいつだって他人だった。
他人の言葉で、他人が望むイメージを具現化しようとしてきた。実に受動的でつまらない生き方だ。
そうして、私は自分の言葉を失った。つまり、自分の心を失ったのだ。
ルールは自分ででっち上げられる自由度の高いこの世のなかで、私は私の言葉で生きてこなかった!!なんともったいない。
例えるなら、自由度の高いフィールドが広大に広がるゲーム内で、一歩も動かずに「これが一番今流行っているらしい」と周りを見ながらビクビクして同じような作業をしているだけで、プレイ時間が終わるようなもんだ。
もったいない、もったいないぞ、そんな遊び方!!
せっかく奇跡のような確率でログインできたんだよ、この世界に。
あと少しのところでログインできなくて惜しまれながら流れていくアカウントだって、星の数ほどあるのに。
私たちはこの世界で何をしたっていいのに。
どんなゲームでも自分のルール設定次第で目指せるし、やってみることができる。
お金が稼げない?
社会的に認められない?
人から愛されない?
知るか、そんなもんは全部クソだ。
既婚者が未婚者より上だなんて誰かどっかのやつが決めたルールだ。
高学歴エリートが中卒より上だなんてどっかの誰かの妄想だ。
モテる人がモテない人より人間的に魅力的かどうかなんて、だれも定義できないし結論は出せない。
つまり、この世で価値があると思われていることなんてタカが知れている。
「なんとなく価値があるっぽい」だけで、それを多くの人が信仰しているだけ。
それが正体だ。
それをあなたが「いやー、それはそんなに興味ないんすよね」と言ってしまえばそれまでのシロモノばかりだ。何を恐れているのか、自分次第で価値を決められる、あなたがこのゲームのプレーヤーだというのに。
楽しいかどうか
この世で最も重要なことは。
私にとっても、あなたにとっても、最も重要なことは。
心の底から「楽しいかどうか」だ。
正しいとか間違っているとか、上とか下とか、そんなもんはゴミだ。
全然関係ない。あなたの人生には本当に関係がない。
それはどっかの誰かが言っている言語で、あなたが言っている言語じゃない。
言語を定義するのはどこまでも、あなた であり 私 だ。
ルールをでっちあげるのは、いつだってプレイヤー自身だ。
楽しもう。2021年は始まったばかりだ。
それぞれがプレイヤーでいる限り、今年は楽しい年にしかならないのだから。