【雑談】出会いがあれば別れもある

I do my thing and you do your thing. I am not in this world to live up to your expectations, And you are not in this world to live up to mine. You are you, and I am I, and if by chance we find each other, it’s beautiful. If not, it can’t be helped.

上述の「ゲシュタルトの祈り」のように、人と人との繋がりは良くも悪くもコントロールできないものだ。

先日、私のことを知ってくれて、私の記事を読んで、よかったといってくださる人が声をかけてくれて、とてもうれしかった。今日地震きて死んでもいいかも、と思うくらいうれしかった。ありがとうございました。

縁というのは面白いもので、まるで用意されているかのように、そのときに必要な人がお互いに引かれあう。

逆に言えば、人の価値観や生き方はどんどん変化していくので、自然と切れていく縁もある。

かつては気の置けない友人・恋人として深く繋がっていたとしても、お互いの状態が変われば自然と離れ離れになる。

そのときお互いにとって何か意味があって、時を共にする。

正直、かつて仲が良かった人と疎遠になり、さらにはあからさまに拒絶されていたりすると、しゅんとする。

自分が悪いワケでもなく、相手が悪いワケでもないので、特に誰かや何かを責める必要はないのだが、「そっかー、残念だな」と思う。

でも、その次の瞬間には、すっかり忘れて楽しく過ごしている。

私は最近「嫌うこと・憎むことに執着しなくなった」と気づいた。

おそらく理由は2つある。

ひとつは、ACとして12のステップを踏み、日々棚卸しを続けていることによる変化だと思う。恨みや憎しみは、書き尽くせるだけ書き尽くした。語りつくせるだけ語りつくした。負の感情を自助グループという安心安全の居場所で吐き出しつくしたので、今がある。

一度表に出さないと、手放すことは難しい。それが何であれ。内に秘めて隠している限り、それは火山のなかで轟々とうねる溶岩のように熱を帯びたままだ。

噴火して、自分の身を焦がしてでもある程度まで吐き出して、ようやく沈静化する。

それと同じだと思う。

もうひとつは、他人の価値観と他者の評価にタッチしようとしなくなったことだ。

私はACとして「過剰に発達した責任感」「世話焼き」「見捨てられ不安」「コントロール」「権威ある人を恐れること」「承認を求めようとすること」などの問題を抱えていたし、今も名残があると思っている。(※これらの問題に興味がある人は、過去記事「12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録」シリーズで詳しく解説しているので、お手数をおかけしますがこちらから遡ってご参照ください)

しかし問題を自覚したことによって、かつてのようにACとしての歪んだ衝動によって盲目的に強烈に突き動かされることが少なくなった。

第三者が評価するかしないかに関わらず、あらゆる存在には一定の価値があり、それは薄っぺらい金銭的・実利的な指標で量れるものではないことを理解した。

客観とは主観から構成されている。結局は主観の集合でしかない。そして他人の認識は、他人の問題であり、他人のものだ。完全に正確な客観的評価というモノは存在しない。

私たちは「他人にどう思われるか」をまったく気にしなくていい。「他人のなかの自分像」というのは、他人のとらえ方の問題で自分の問題ではないからだ。

私が他人を自分のフィルターを通してしか認識できないように、相手の認識機能にも限界があることを受け容れること。その受容が落ち着きとなる。

相手を変えよう、というのは傲慢なことだと知る。

相手には相手の価値観があり、他人がどう私を評価するかは他人に権利があり、他人の問題でもある。そしてたとえば「他人の家の庭の雑草が手入れされているかどうか」が私にはあまり関係ないように、たいした問題ではない。

同時に、他人の評価や価値観は違う宇宙の事象であり、アンタッチャブルなのである。

去る者は追わず来る者は拒まず。

お互い、好きなように人生楽しく生きればいいんじゃない?

そんなふうに思っている。

憎しみを抱いて執拗に攻撃するような状態は、特定の人物に異常な好意を寄せる状態と似ている。どちらもどこか心を病んでいるだけなので、そんな態度を向けられて「少し嫌だな」と思ったら堂々と距離を取るのがよい。

権利を侵害したり、境界線を侵害したり(暴力や支配など)する人には、毅然とNOを突き付けて、堂々と距離を取るのがよい。

相手を変えようとしてはいけない。

相手を変えることはできない。

変われるのは、相手が変わりたいと思ったときだけ。そして「変わる」というのは、相手自身にしかできない仕事だ。私たちの仕事ではない、相手に任せよう。

私たちにできる事はせいぜい、素直に落ち着いて意思を伝え、必要とあらば距離を取ることくらいのことだ。だから、実はとてもシンプルなのだ。

その結果、出会いがあれば別れもある。

嘆くようなことではなく、受け容れることであり、自然で必要な変化でもある。

無理して繋ぎとめておこうとするほうが不自然で、いずれそういう縁は腐れ縁となり、己を縛る腐り(鎖)となる。

あなたはあなたのままで、正々堂々と生きているのが一番良い。

そうやって生きていれば、ちゃんと必要なものが、必要な分だけ、あなたのもとに用意される。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする