【AC】「子どもを産むのは親のエゴ」問題について

こんなツイートが流れてきた。

今回は「子どもは親に感謝すべき」という洗脳の間違いについて書いてみる。

子どもをつくったのは親の責任

「育ててもらった恩も忘れて」

「ここまで大きくなれたのは誰のおかげだ」

とは、 よく目にする親側のセリフである。

確かに親が働いて稼いだお金で、子どもはご飯を食べて育つ。

母の世話がなければ生きていけず、泣くことしかできない赤子の時期もあった。

しかし、産むと決断したのは親である。

産まないこともできた。しかし産んだ。

それは自分の人生の選択であり、働いて養わなければならないことも、毎日世話をしなくてはならないことも、容易に想像できたはずだ。

それでも産むことを選んだ。

「親のエゴ」というキーワードでTwitterでは拡散されていって物議をかもしているが、もっと近いニュアンスとしては「親の決断」だよなと思う。

決断には当然責任がともなう。ある行動を選択するということは、その行動がもたらす責任を負うことを委細承知したということだ。

産みたくて産んだのではなかったかもしれない。SEXで気持ちいいなということ以外はよく考えていなくて、たまたまできてしまって、そのとき中絶する金銭的な余裕がなかったかもしれない。あるいは避妊していたけれど授かったのかもしれない。

しかしSEXしなければ受精は起こらないので、SEXをするという選択をした時点で、親になる可能性を排除しない、という行動を選択している。

ということは、結局自分が選択した行動を経ているので、背景はどうあれ責任は発生する。

当時はそこまで考えていなかった、と言っても現実は変わらない。責任も無くならない。背負ってしまったなら、それはともに歩むしか選択肢がない。

責任は感謝とは関係がない

この人が言うことはもっともで、親に感謝するかどうかは、子どもが判断することである。

「感謝」という感情を生むのは、子どもの心であり、その心に感謝の気持ちが宿らないのは、親にはどうしようもない。

私は親になったが、子どもたちが私に感謝してくれるとは限らない。むしろ恨まれるかもしれないとさえ思っている。

なぜなら、この世は生き地獄だから。

特に現代社会などは、功利主義・合理主義・結果主義によって沈みつつある泥船である。いずれ大きなカタストロフが起きてすべてがひっくり返り大混乱になる。

とてつもない痛みと苦しみを味わう世代になるかもしれない。

いや、そんな時代でなくとも、生きることはとても苦しい。

努力は報われるとは限らない。個体差が冷酷に粛然と存在する、弱肉強食の世界。そのなかで生き延びなくてはならない。傷つくことや傷つけることを避けては通れない。

そんな空間に招待するのである。「おめでとう」と言いながら。

そんなことをされて、感謝するだろうか。

基本的には感謝しないのではないか、と私は思う。

なので、そんな地獄にわざわざ生み落としておいて、感謝を請求するというのは、はなはだ筋違いである。

親の責任を果たすのは、感謝をもらえるからなのか。そうではない。

責任を果たすのは、行動の当然の帰結であり、自分自身の問題である。

他人である子供に、自分が負った責任の一部を押し付けてはいけない。

なぜ感謝されたいと思うのか。

それは、自分の「所有物」として子供の存在を認識しているからだ。

自分が与えたものを返してくれるのが当たり前、なぜなら自分が満足を得るためのおもちゃだから。そんなふうに考えているから、感謝されないことに憤る。もらえるはずのご褒美をもらえなかった子供のように。

つまり、親がまだ精神的に子供なのである。

子どもを尊重すべき独立した別人格として見ていないので、自分の手足のような感覚で思い通りになると思っている。

その傲慢さが、子どもに呪いをかける。子どもは呪いに長きにわたって苦しむことになる。

感謝されるわけがない。

感謝されるのではなく感謝する

むしろ、感謝しなくてはならないのは、親のほうだ。

「母の無償の愛」などというが、無償の愛を受け取っているのは親のほうだと思う。

子どもはどんな親でも、自分の親を愛さずにはいられない。どんなに愛されていないと薄々感づいていても、どこかで自分のことを愛してくれるのではないかという希望を健気に手放さない。

虐待されていても、子供は親をかばう傾向がある。本当は愛してくれるのではないか、優しくしてくれるのではないか、抱き締めてくれるのではないか。そう切なる願いを込めて、小さい体で精一杯できる限りの愛情を示す。

自分の存在を全肯定してくれる存在。それが我が子という存在だと思う。

そんな得がたい思慕を捧げてくれる存在が、他にあるだろうか。およそ他人には期待できない貴重な体験を与えてくれる我が子。感謝するのはむしろ親のほうだといえる。

私は親になることが不安だった。

子どもが嫌いだったから。後になってそれは、私がまだ子供を生きられていなかったからだとわかった。

無邪気に笑って自由に素直に感情を表現することが許されている子供を見ると、我慢ならなかった。とてもイライラした。

それは、私がそんなふうに子供時代を過ごすことができなかったからだった。

アダルトチルドレンを自覚し、回復のために12ステップ・プログラムに取り組んでいくにつれ、その苛立ちはゆっくりと氷解していった。

私も本当は、キラキラと感じるままに笑って泣いて、親が定めたあるべき姿ではなくありのままの姿を肯定されていると感じながら、満ち足りた幼少期を生きたかったのだった。

『子供を生きれば大人になれる』とは、かの有名なクラウディア・ブラック先生の著書だが、大人になるためには、子どもをしっかり生きなくてはダメなのだというのは、よくわかる。

「親のエゴ」問題の真相と解決策

結局この「親のエゴ」問題の真因は、大人たちの未熟さだ。

親になった人が、まだ子どもをちゃんと生きていなくて大人になってもいないのに、親になってしまったというのが、問題の根本だろう。

もちろん、親も人間なので完璧ではないし、育てながら一緒に成長するものだ。それだけ、子どもたちは親に様々なギフトを与えてくれるという裏返しでもある。ここでも、親は子どもからもらいまくりだ。

完璧ではないにしろ、せめてもの最低ラインとして、親は子どもを生き切っていなくてはならないのだ。

今親として未熟な人間が親をし、感謝を取り立てているのは、本人の性質が悪だからではない。その前の親世代の課題を引き継がせられて、その人も苦しい幼少期を過ごしてきたのだと思う。私のように。

気の遠くなるような世代間連鎖のすえに、私たちは存在している。

社会では、我々は個として存在をジャッジされがちだが、そんな簡単な問題ではない。根深い、何代にも続く病が、今この瞬間に表面化しているだけだ。

つまり、社会の問題だ。この親が悪いとか、この親は良いとか、そういうのではなく、能力でランキングをつけたり経済的利益のために人格をそぎ落としたりしてきた社会そのものによる哀しい産物のひとつが「子どもに感謝を強要する親」だということだ。

親を怨むなとは言わない。しかし親もまた独立した別個の存在「他人」であり、その人の人生は本人にしかどうにもならない。そのことも、理解する必要がある。

私たちは生まれてしまった以上、生きていくしかない。

他人は変えられない。自分の行動・自分の認識しか、変えることはできない。

ならば、感謝を求めてくる親には「残念だけど無理なので、あとは自分のためにがんばってくださいね」と手を振って、自分の人生にしっかり焦点をあてて今この瞬間を生きていくしかない。

自分が世界に与えることができる愛に、力を注ぐ。

自分の感情を、良いも悪いもなく素直に受け取る勇気を持とう。

私たちのこれからは、私たちが選択していく。そしてそれは謙虚に素直に向き合っている限り、自分以外の何かの導きによって、必ずどこかに繋がっている。

良いことばかりではないだろう。でも、悪いことばかりでもないかもしれない。

その受け取り方を、私たちは決められる。

古代の哲学者エピクテトスも、唯一「自分の意志」だけは自由だ、といっている。

何をしようと決めるか、何を好きだと思うか、何を尊いと思うか、は、本人が決められる唯一の自由なのである。

何をするかを、他人に委ねていないだろうか。

他人にどう思われるかびくびくしながら、他人に嫌われないように行動を選択するというのは、その唯一の自由を他人に受け渡していることと同じだ。

会社の命令で嫌だけどお金のためにしかたなく人生の大半をつまらない作業で浪費する。

嫌われるのが怖いから、行きたくもない集まりに行く。

そういうことをやめること。そこから、親として生きる第一歩が始まる。

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