【依存症】断酒しててもやっぱつまんないなと思う話

なんか、どいつもこいつもイラっとする。

誰も彼もがわかったようなことを言ったり、私を内心非難したり馬鹿にしたりしているように感じる。

何かを一生懸命話していて、相手に反応されてもされなくても、マイナスに受け取られている気持ちになり不安と苛立ちを感じる自分がいる。

誰にも必要とされておらず、なんの影響力もなく、生きていても死んでいても大した差などない些末な存在だと思うと、このまま煙のように消えてなくなりたいと思う。

断酒して2年半経ったにも関わらず、いったいこの希死念慮といい自己肯定感の低さといい、何が変わったというのか。

飲んでないこと以外に私の世界はあまり変わったように感じない。

私は、生きていく自信を今失っているのだろう。

失うほどの自信など持ち合わせてなかったはずだが、いったいどうしてこれほど疑心暗鬼になっているのだろうか。

まず一つには、疲労だ。

私は人が大勢いる場所に行くと疲れる。

そうした機会が最近は特にたくさんあった。

私には結局そういうのは向いていない。

仕事は最近忙しくなった。

担当エリアが拡がり、期待されている疾患領域だからと上からの圧力や干渉が増えた。

成功させなくてはいけないというプレッシャーを感じながら精一杯やってきたが、意味のない指示が多すぎて辟易している。

成功させるためにやりたいと思っていることに集中させてもらえない。その苛立ちから、うつ状態が悪化している。

もう一つは、気付いてしまったからだ。

自分の本当の気持ちを抑えなくてもいいことに。

ありのまま感じていいということに。

私は今まで、正しいことしかしてはいけないし、倫理的に間違った感情を持つこと自体が罪だと思っていた。

なぜなら、教師だった両親はいつも正しく、私は正論に叩き潰されていたからか、ある種諦めていたからだ。

私が何か一生懸命感じたり考えたりしたって、どうせ正しい何かが、絶対的に君臨していて否定される、と思ってきた。

だから、感じたり考えたりして発言することは無意味で、正解を探して、ただ当てはめて生きていけばいいんだと思っていた節がある。

社会人になって、地頭力がどうとか言われ出したときはひどく困惑した。

自分で考えるって言っても、「常識」や「普通」というなんらかの正解があるんじゃないのか?

正解はないって、設問が間違っているからそんなことが起こるんだろう、と。

しかし、実際は世の中には正解などなく、「常識」や「普通」をはじめとする「正論」はこの上なく薄っぺらい概念で、実はただの陽炎だった。私は自分が感じるように感じて良かったのに、勝手に諦めていただけだった。

両親がひたすら水戸黄門の印籠のように振りかざしていた「正論」の正体を知った。

正しいことしか許容しない家庭=私の家庭がしていたのは、愛情という隠れ蓑を用いた真綿で首を絞めるような虐待だったと知った。

暴力や暴言ではなかっただけで、見えない虐待だったとは知らなかった。

ある意味、支えにしていたものたちは、その本性を顕すと、ものの見事に砕け散った。

私は心底、頭にきているのだろう。

今まで信じてきたルールが偽物だった、その偽のルールを強いてきた両親への怒り。

納得いかないがルールなら、と従ってきた自分の愚かさへの怒り。

未だにそのような馬鹿げたルールを重視する世界への怒り。

やりたくないことをやらないでよかったのに、無理してやらざるを得なかったことへの誰に対してなのかわからない怒り。

今まで無為に過ごした30数年の人生全てに、私は頭にきている。

なぜか?

それは、認めたくないからだ。

自分の無力さを、愚かさを、至らなさを。

愚かな両親に翻弄されて無駄にした時間を。

しかし、私は無力だったし、今も無力だ。

それは、しかたがない。当たり前のことだ。

私は当時子どもで親しか見本になる人間がいなかったし、他の家庭とは隔絶された共依存家族の檻の中から、いくら他人を見ても客観的には見られなかったので、ヒントを得がたかった。

今も、無力な出来損ないの人間だ。

一生治らないアルコール依存症という病を患い、今でも人が好きにはなれそうにない。

意味のないことはとりあえずやるなんてできないから、損ばかりして煙たがられている。

何か特別なことができるわけでもなく、文章を書けばご覧の通り大したことは書けないし文才を磨いてきたわけでもないから、たくさんの人に何かを届けられるわけでもない。

お世辞にも頭が良いとは言えない。回転は鈍いし記憶力は良いとは思えない。

こんな粗大ゴミのような生肉と血と糞の塊として、まだまだ生きていかなくてはならないのか、という鉛のような疲労感が、見聞きする全てを色褪せさせていて、いちいち癪に触る。

恨み言を言ってもしかたがない。

私以外の個体も、欠けた部分がある出来損ないなのには変わりはない。

それなのに楽しくないのは、私の感じる感覚や捉え方の問題だ。

私は、私以外を変えられないし、私以外に問題はない。

糞のような世界だと感じているなら、感じ方を変えるしか、道はない。

あるいは、感じること自体を終わらせるしかない。

ふたつにひとつ。

感じ方を変えるために、そのまま感じて歪みなく自分の感情を捉えられるように、AC(アダルトチルドレン )の12ステップに沿って棚卸しをしていく。

それに取り組みながら、同時に深い深い洞を覗き込み、その暗く陰鬱な空気にうんざりしてきている。

今率直に感じているのは、人に接するのは疲れるからやはり好きじゃないということと、生きるのはやはり、とても大変なわりには、とてもつまらないということ。

私は感じていいと思って感じてみたら、存外につまらない人間で、やっぱりどっちかって言えばあまり生きていたくないのかな、とがっかりしている。

感じてもよかった感情を感じているはずなのに、やっぱシラフの世界なんてこんなもんで、阿鼻叫喚の地獄から賽の河原に来たくらいにしか変わりなく、やはり疲れる。

酒は飲まない。

しかし、酩酊状態の頭のなかより世界がキラキラしているとは思えない。

蓋を開けて「やっぱり何もありませんでした。」になるのが怖いし認めたくないのだろう。

棚卸しをして、ひどくつまらない生きるに値しないような自分が出てきたとき私は絶望するから、それが怖いのだ。

しかし、見に行くしかない。

疲れをとったら、覗き込みに行こう。

そんならいっそ消えちゃえば?というのはそれを覗き込んでからでも、遅くはない。

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