自称エリートだらけの職場で働いている。
確かに、一流大学を出て一流企業に勤めている。年収だって平均に比べてもらっているほうだろう。
しかし、その実態や現状認識は、実に shabby だ。気が狂ってしまったんじゃないかと思うくらい短絡的だったりする。
それでも自信満々を装っている。むしろ逆に見ていて面白い。こちらが赤面するほどショボい内容を誇らしげにプレゼンしてくれるのだから鑑賞しごたえがあるというものだ。
社内会議が昔からものすごく退屈で嫌いだったのだが、最近は一周回ってエンターテイメントだなと感じるようになってきた。全員がアホみたいな指示に振り回される姿は実にシニカルで情趣を感じる。
何も私もただただ傍観者を決め込んでいるわけではない。
営業戦略的にも社会貢献的にも意味がないことについては「意味がないからやらないほうがいい」と提案し、合わせて理由と代替案を論理的に説明する。それらは我ながらだいたいいつも正しい。しかし「大企業」の「エリート」と自称する彼らにとって、それは受け入れがたい内容のようだ。
一歩引いて彼らの言動を観察していると、だいたい社会心理学の用語でこの3つに該当する行動をよく選択している。
・認知的不協和
自分が信じてきた認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感のこと。この不快感を解消するために、矛盾する認知の定義を変更したり、過小評価したり、自身の態度や行動を変更すると考えられている。イソップ童話で、キツネが届かなくて手に入らないブドウを「酸っぱいに決まっている」と思い込んで諦めようとしたときの思考方法と同じ。
商売というのは、古今東西 信頼関係を丁寧に築くことが必要不可欠である。
営業を「自分の利益のために顧客にゴミを高値で売りつけて金をできるだけ多く巻き上げる仕事」と勘違いしているビジネスマンが多いが、実はそういう詐欺とは違う。
営業が、商材を「きっかけ」とした有形無形のサービスを顧客に価値を提供する、それがその先にある社会を豊かにする。
先にあるものが見えていないと、小銭をあさましく漁るハイエナと同じに見える。残念ながら同僚はほぼハイエナだ。全然信頼も尊敬もしていないくせにゴマをすり煽てて褒めそやして、金くれ金くれと群がっている。
今まで自分がそういう中身のある仕事をしてこなかったので、ハイエナのような振る舞いをしなくては売上は上がらないと思い込んでいるのだ。
だから私が社会貢献を前提とした提案を落ち着いて推奨しても、
「それは時間がかかりすぎるから今は無理だ」(じゃあいつならできんの?)
「我々営業(のような下賤のもの)をそんな風に顧客は見てくれないに決まっている」(そんなに情けない仕事しかやってないの?)
「そもそも社会貢献自体、机上の空論、ただの自己満足だ」(それを言うなら、あなたはむしろ詐欺のほうが儲かるし向いてるんじゃない?)
という風に認識を歪めたり自分や私を過小評価して、できるだけ見たくないものを見ないようにする。
大きい組織の末端の人間はだいたいそんなもん。
・認識共同体
同じような考え・現状認識・心の反射を持った集団。「朱に交われば赤くなる」「郷に入っては郷に従う」に示される通り共同体という組織内での『常識』を生成する。共通認識により集団生活が送りやすくなるというメリットの反面、自分たちと異なる考え方を受け容れられず、無視しよう、排除しようとする。すなわち思考が硬直化し無意識に偏るデメリットがある。
そういうハイエナ根性で生きてきた人ばかりが集まっているので、会社のなかでそれが当たり前になる。
本当はそんな卑屈なことはしたくない。
仕事に誇りを持ち理想を高く持ち実行する人でありたい。
もっと認められたい。
自分だって納得していないのに我慢してやっているんだから、他の人間も我慢すべき。
そんな鬱憤を抱えているけれど、自分の在り方を変えることができない。
なぜなら、自分の決断に責任を持つのが不安だから。他の社員と違うことをやって失敗して笑われるのが怖いから。
変えることができない自分を恥じている。
そんななか、完全に価値観をオーダーメイドに転換して楽しそうにしている私が横にいると、内心我慢ならなくなってくる。
「あいつの考えていることは取るに足らない」
「私のほうが実績が上がってるからあいつなんかより俺のほうがすごい」
「あいつは仲間じゃないから距離を置こう」
そんな風になるべく涼しい顔をして「おまえなんか相手にしてないよ」というポーズを取り出す。
・センメルヴェイス反射
「Semmelweis reflex」。通説にそぐわない新事実を拒絶する傾向、常識から説明できない事実を受け入れがたい傾向のことを指す。人は自分が信じてきたことと違う説を聞くと、今までの常識が崩れ去る不安と恐れから反射的に拒絶し、反対意見を持つ人・集団を攻撃する反射をもっている。
しかし、それでも相手がダメージを受けないとなると、だんだんイライラしてくる。
そして攻撃し始める。
例えば会議中に重箱の隅を楊枝でほじくるような質問をしてみたり。あえて情報をまわさないようにしてみたり。
子どもっぽい嫌がらせをして自分の心を落ち着かせようとする。
どんだけおじさんおばさんになっても、この子供らしさは失われない。人とは本当にいつまでもたいして変わらず幼稚なものなんだなと感じる。
反射しまくり。
なぜ彼らは社会心理学的反応の一歩先に進めずにいるのか
「私はエリートだ」
「他の人より優れてるから今があるんだ」
「私のいる場所は素晴らしい場所なんだ」
そう思いたい。思い込んでいたい。
そうでないとわかってしまったら、怒りと不安で自分が大きく揺さぶられ掻き乱される。
なぜか?
それまでにやりたくもないことをやらされ、競争にさらされ、重圧に押しつぶされそうになりながら生きてきた人生が間違いだったと思い知るから。
だから、ちゃんと見るのが怖い。
人間はみんなそうだが、善悪は主観で決めている。
優劣も主観で決めている。正しいか間違いかも主観で決めている。
確実に保障された、善くて優れていて正しいことなんてない。
何か絶対的に正しい法則やルールがあるのだと思ってずっと探してきた私がいうんだから間違いない。
そんなもんはない。
「自分が」何を大切にし、どう行動するか。これしか我々に拠り所はない。
つまり自分の美学。信念を拠り所にするしかない。
それが人生の背骨だ。最も信頼できる主軸だ。
自分の背骨を育てるという重要な仕事を、
他人に預けてきたのだ。他人に奪われてきたのだ、私もお前たちも。
誰に?
親や学校や社会に、だ。
親が過干渉してきたりこの日本社会がゴミだったりと環境要因があり、決して私たちの内的要因だけのせいでこうなったわけではない。
寄ってたかって「好きに生きてはいけない」と思い込まされてきたから。
自分が好きに生きていないから、他人が自分らしく生きていることに反応して、苛立ち無視し軽く扱い、よりにもよってその人の邪魔までしようする。ご苦労なことだ。
そういう幼い頃の私たちが最も憎んできた社会をつくる存在に、今まさになっている人たち。
それが『自称』エリートのみなさんの本当の姿だ。
拍手!!
まとめ:社員のみんなは ACの12ステップやればいいと思う
これが喜劇と言わずしてなんだというのだろう。
私たちを苦しめたものに知らず知らずのうちになり、地獄を再生産している。
それは私たちが「不安」と「恐れ」にコントロールされているからだ。
具体的には『ACのための12のステップ』のSTEP4にある「権威ある人たちを恐れること」という課題だ。
■権威ある人たちを恐れること■
権威ある立場の人たちを恐れることは、親たちの非現実的な期待ーわたしたちがそうできた以上のことを求めたことーの結果であるかもしれません。
彼らの裁くような、批判的な、責めるようなやり方と、つじつまの合わない怒りは、わたしたちの他人との関わり方に影響を与えてきました。
私たちは権威ある人たちを、その人たちがわたしたちに非現実的な期待を持っているかのように思ってしまい、彼らの期待に沿えないのではないか、と恐れてしまいます。
他の人たちが単に何かを主張しただけなのに、私たちはしばしばそれを怒り、またはコントロールと誤解してしまいます。
このことで威嚇されたように感じるかもしれないし、さらにそれに対して、わたしたちの過剰に敏感で脆弱なやり方で反応するかもしれません。直面や批判を避けるために、私たちは自分の統合や価値を犠牲にして、力を持つ人のそれに合わせていくのです。
自分がどれくらい有能であるか正当に評価できなくて、他の人と比べ、自分は不十分で不適当であると結論するのです。
権威あるひとたちを恐れることは、わたしたちに次のような問題を引き起こしているかもしれません:
●拒絶や批判を恐れる
●ものごとを個人的に受け取ってしまう
●ごまかすために傲慢に振る舞う
●自分を他の人と比べる
●自分が正しいことに固執する
●不適当、または無能であると感じる******
『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
67Pより引用
もうまさに、って感じじゃない?
本当は自分に確固たる自信も指針もない。だからパワーゲームの勝者に引き寄せられていく。そして権威ある人の言うことを聞いているほうが楽だから、次第に自分の魂の隷属を正当化しだすのだ。
「恐れ」と「不安」で、現状を変えることができない。いや違うな。
「できない」という体裁をとりながら積極的に心の奥底では「変えない」ほうを選択している。
変えられないのではなく、変えないから変わらないのだ。それが事実だ。
なぜなら、そのほうが勇気がいらなくて楽だから。
私はずっと、ずっと楽をしてきた。人のことは言えない。
だから最近まで何が楽しいか何が好きかもわからないまま、言われるままに人生を生きてきた。
結果がこのざまだ。
自分にふたをし続け、他人を見ようともせず、自分を見ようともせず、自分を信じようとせず生きてきた結果、病気になった。
アルコール依存症になり、REM睡眠行動障害や強迫性障害に悩まされ、今でもうつ病を併発している。
だから私は、『自称』エリートを気取る社員を見ると、いつも自分を思い出す。
断酒会やAAで同じアルコホリックを見て当時の自分を思い出すように。
彼らは私そのものだ。
だから自分と区別して優越感に浸りたいわけでもないし、攻撃したいわけでもない。
ひとつ願うとすれば、彼らもまたアダルトチルドレン(AC)という概念に出会い、自分の「不安」と「恐れ」の正体に出会えますように、そのようなハイヤーパワーの導きがありますように、ということくらいだ。