【哲学】自省録(マルクス・アウレリウス)

哲人皇帝。マルクス・アウレリウス。

私は彼を尊敬している。

古典の最高峰の一つ、『自省録』。

この名著は一度読んでおいて損はない。

 一つ一つの行為に際して自らに問うてみよ。

「これは自分といかなる関係があるか。これを後悔するようなことはないだろうか」と。

瞬く間に私は死んでしまい、それまでの間のこともすべて過ぎ去ってしまう。

現在私の為すことが、叡智を持つ、社会的な、神と同じ法律の下にある人間の仕事であるならば、それ以上何を求めようか。

引用:『自省録』(マルクス・アウレリウス)P142

私の一生。

それは永い時の流れのごく一部、ごくわずかな一点に過ぎない。

誰もがそうだ。どんな偉い人も、どんな賢い人も、どんな金持ちでもそうだ。

他人に軽んじられるとか、病で死ぬかもしれないとか、豆粒のようなちっぽけな存在が団栗の背比べをやっている。

なんてくだらないんだ。

私は与えられた今を全力で生きる。それ以外に無い。シンプルだ。

今までもそうだった。これからもそうだ。そして肉体がいつか朽ち果てる。

精神はどうだろうか。

精神は、愛によって繋がった者のなかで生き続ける。

それが『叡智を持つ、社会的な、神と同じ法律の下にある人間の仕事であるならば』。

それをいつも点検せよ、とアウレリウスは言っている。

きちんと「それができている」という自信があるならば、他に何を求めようか。

おっしゃるとおりである。

「これは自分といかなる関係があるか。これを後悔するようなことはないだろうか」

自分の私利私欲のために他人を傷つけるものではないか?

私が子々孫々に誇れるようなことだろうか?子供の前で包み隠さず言えるだろうか?

私が関われる範囲だろうか?他人の境界線を越えて侵害するようなことはないだろうか?

そうではないなら、誰に恥じる必要もなく、臆する必要もない。

自分の内をみよ。内にこそ善の泉があり、この泉は君が絶えず掘り下げさえすれば、絶えず湧き出るであろう。

引用:『自省録』(マルクス・アウレリウス)P134

内が濁っていると、目を逸らしたくなって人は外を見る。

そのほうが楽だから。

誰それが不正をしただの、何かに違反しただの、そういう挙げ足を取って正義を振りかざす側に回ろうとする。

そういうとき、私の心は病んでいる。

そういうときこそ、自分の内をみよ。

自分の内にある、良心・インナーチャイルド・善なる魂の声に耳を傾けよ。

その声に素直に応じればいい。

外に向いているうちは、内に眠る善の泉は渇いたままだ。だから満たされない。

何をすべきか見失う。

焦りと恐れと不安にさいなまれる。

だからこそ、苦しい時こそ、内に目を向ける。

自分は何を求めているのか、何を恐れているのか、何が不安なのか。

その奥にある善なる己の言うことを聞き、徹底的に信じること。

アウレリウスの師である、奴隷の哲学者:エピクテトスは「人が何を思い、何を考えるか、この「意思」だけは何人たりとも、たとえ神でも奪えない自由なものだ。(中略)人間にとって「意思」以上に優れたものはないのだ。」と言った。

唯一誰にも侵害されない、尊い「意思」。

それを他人に譲り渡してはいけない。損得で見失ってはいけない。

「気に入られたい」「よく思われたい」

他人にどう思われるかを気にするということは、他人に「意思」を差し出しているのと一緒だ。

心の底から自分の人生を楽しみたいのなら、「意思」を手放してはならない。

「意思」の出発点は、常に自分の内なる善に根を張っていること。

それが、人生を生きるということだ。

人に善くしてやったとき、それ以上の何を君は望むのか。

君が自己の自然に従って何事かおこなったということで充分ではないのか。

その報酬を求めるのか。

それは目が見えるからといって報いを要求したり、足が歩くからといってこれを要求するのと少しも変りない。

なぜならば、あたかもこれらのものが各々その特別の任務のために創られ、その固有の構成に従ってこれを果たし、そのことによって自己の本分を全うするように、人間も親切をするように生まれついているのであるから、なにか親切なことをしたときや、その他公益のために人と協力した場合には、彼の創られた目的を果たしたのであり、自己の本分を全うしたのである。

引用:『自省録』(マルクス・アウレリウス)P186

他人に何かを施す代わりに何かを盗もうとする人で、この世は溢れかえっている。

give-and-take。損得で行動する人たち。

こうした人々が「デキる人」と、もてはやされるこの世は、狂っている。

我々があるべき本来の在り方とは、遠く離れた生き方だ。

我々はひとつであり全部。世界を構成するごく一部であり、世界そのものでもある。

何もかもが、ひとつであり、別々なのだ。

ということは、この世に敵などいない。競争相手もない。

敵とは、受け入れがたい自分自身のことである。

自分に与えられるものが、必要な全てのものだ。すでにすべてはそろっている。

勝ち取るとか、つかみ取るとか、ビジネスの分かりやすいサクセスストーリーやハウツー本ではよく目にするが、それは錯覚に過ぎない。

富も名声も、誰のものでもない。

ある時代の一点において手に入れているようにみえても、全ては世界のものであり、誰のものでもない。

だから、周りにいる人よりたくさんのお金を集めようと執着したり、時の権威に認められようとゴマをすったりすることは、何の意味もない。

手に入るものは、虚構だからだ。

自然界にあるものは、それぞれがそれぞれを全うすることで、成り立っている。

己の良心に従ってすべきことをしていれば、金が無かろうが、誰にも認められなかろうが、それで完璧だ。

なぜなら、人生とは誰かに見返りを求めて生きるものではないからだ。

君がまわり道しいしい到達しようとねがっていることは、これを自ら自分に拒みさえしなければ、どれでも今すぐに手に入れられるのだよ。

それには全過去を打ち捨て、未来を摂理に委ね、ただ現在のみを敬虔と正義の方向に向ければよいのだ。

敬虔というのは、君が自己に与えられた分を愛するようになるためで、これは自然が君に定めたものであり、また君をこれに定めたのでもある。

また正義というのは、君が自由に、そしてまわりくどいことは抜きに真理を語り、法律に従い、ものの価値相応の行為をなすようになるためだ。

他人の邪悪や意見や言い草や、また君の周りに蓄積している肉の感覚に縛られるな。それはその感覚を覚える部分の知ったことだ。

引用:『自省録』(マルクス・アウレリウス)P229

自分を受け容れるということ。

「全過去を打ち捨て、未来を摂理に委ね、ただ現在のみを敬虔と正義の方向に向ければよい」

これほど心強い言葉があるだろうか。

『いくらまわされても針は天極をさす』とは高村光太郎の言葉だが、まさに良心、存在そのものとはそういうものだ。

心が過去という過ぎ去ったことに、いくら振り回されようとも、未来を憂い不安に思う心に、いくら翻弄されようとも、針は天極をさす。現在という天極に集約される。

「己に与えられた分を愛し」「自由に正直に良心に従う」という、天極に向かう。

それを含めた、自分を超えた大きな流れの摂理を受け容れ、素直に生きること。

それが、私が目指す生き方であり、たどり着いた天極である。

この『自省録』には、悟ったようなことばかりが書いてあるわけではない。

生々しい苦しみを吐露する、等身大のアウレリウスに会うことができる。

私には常に連絡を取り合うような生きている友は少ないかもしれないが、本を開けばいつでも同志に会える。

だから、私は孤独ではない。いつでも親友がすぐそばにある。それがはるか昔の会ったこともない哲学者だとしても、回り道しいしい到達しようとねがっている限り、同じ世界を生きている。

良心に基づいて生きる限り、そうやって生きてきた今までの人々と繋がる。

真に孤独を癒すのは、この繋がりであり、繋がりを感じるには、自分を偽らないことだ。

そしてこの繋がりは、善行と愛によって綯われている。

何よりも誰よりも、強く美しくつながる。

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