【哲学】潮が何か運んでくる(トムハンクス主演映画から考える人生論)

これから どうするか?

息をし続ける

明日も太陽が昇り

潮が何か運んでくる

引用:映画『キャスト・アウェイ』

なんだかトム・ハンクスの映画が目に留まって、続けて観てしまった。

「観てしまった」と書いたが、結果的に観てよかった。

『キャスト・アウェイ』と『フォレスト・ガンプ』がすごく心に響いた。

今観るべき巡り合わせだったんだな、って思った。

人生は、なるようになる

これは『フォレスト・ガンプ』の主人公フォレストのお母さんが言ったセリフ。

開けてみないと分からない。

食べてみないと分からない。

生きてみないと分からない。

本当に、想定外のことばかり起こる。

奇跡のような巡り合わせがあったり、悪夢のような地獄を経験することもある。

本当にその時になってみないと分からない。

でも、わからないからこそ、コントロールできないからこそ楽しいし、価値があるんだと思う。

私もうつ病になったり、アルコール依存症になったり、ADHDと診断されたり、ACと自覚したりするとは、夢にも思ってなかった。

でも、それらは何かに私が気づけるように、あらかじめ用意されていたかのようだと、今は思う。

世界とは脳の信号が創り出す仮想現実に近い。限られた情報を私の身体が電気信号にして脳に送り、脳が自覚する世界が、この世界の見え方だ。

そういう意味では、世界は捉え方次第であり、自分の「思い通り」になる。

不幸だと思えば不幸だし、幸福だと思えば幸福。

起こったと知覚している現象を「哀しい・つらい・怖い・不安」と意味付けすれば、世界は悪意に満ちていて絶望的な地獄にみえる。

起こった事・起こる事をあるがままに受け容れ、私が善く生きるために何か与えられたものだと思えば、それは「喜ばしい・有難い・かけがえのない」ものになる。それがどんなに客観的に悲劇的であっても。

私は首になりかけてよかった。そのおかげでアルコールの問題を抱えていることに向き合えた。

私はACでよかった。愛情とは何なのか?を真剣に考えるきっかけになった。

私は発達障害(神経発達症)でよかった。人と見え方が違うことで、常識や世間がいかに空虚かに気づくことができた。

私はうつ病になってよかった。うつ病になったのは私が悪いんじゃなくて、社会が歪んでいるからだと気づけた。

私がそう思えば、そうなのである。

私の脳が、物事の意味を定義し、そこから自分なりの何かをつかむことができるように、全ての事象は与えられている。自分の身体も、人との出会いも。

人事を尽くして天命を待つ

これも、フォレストのお母さん。いいこというよなー。

なんだかずいぶん有名な映画だったらしいんだけど、観るべきときは今だったのだろう。

私は、今とても失望している。そして苦しんでいる。

今している仕事に価値を見出せない。

この会社に所属していて全く誇らしいと思えない。それどころか恥だと思っている。

私がやっていることに、私の良心が拒否反応を示している。

「これは善行ではない」と。

だからなんだか、とてもやる気がしない。熱も込められない。

全て本質からズレていて、私にとってはどうでもいいゲームの一つにしか思えない。

しかし、今の生活、家族を養っていくには、今は辞めるのは得策ではない。頭では分かっている。しかし体が拒否っている。困ったものである。

今ある状態、今与えられている状況。

この辛い状況も、何かに気づくために、いや、思い出すために、与えられているのだろう。

全てはもうすでに準備されていて、私は良心に従って勇気をもって生きていきさえすれば、必ずなるようになる。

というか、なるようにしかならない。

できることは、今与えられている状況でベストを尽くすこと。

何よりも自分を大事に、心に正直に、私が今できることを、できる範囲で、やりきる。

ただそれだけ。

やってきたことをやるだけ。やれることをやるだけ。

結果は関係ない。「結果」という意味は私が後からつければいい。

他人は関係ない。他人とは、別の世界。脳が違うから。同じだと思い込んでいるだけで、違う現実を見ている。

「他人とは別の宇宙だ」という言葉を聞いたことがある。

まさしくその通りだと思う。

脳が違うので、違う。世界の見え方も、法則も、何もかもが。だから、比べようがない。定型発達や発達障害など、実は存在しない。

定型発達だろうが、ADHDだろうが、ASDだろうが、LDだろうが、それは人間が勝手に考えた仮説。宗教と同じ。

それぞれが全員、少しずつなのか、実はとんでもなくなのか、生きる世界が違う。

その違いが多数派からみた、偏差値であり、集団生活で問題視されるかどうか。それだけだ。

集団生活で問題視されるかどうかも、その集団がどういう価値観でどういう社会を形成しているかによって、違う。

たまたま貨幣経済社会で、たまたま金になる仕事で働かないと生きていけない社会構造で、たまたま学校というものがあって、たまたま暗記してアウトプットする「勉強」という遊びを皆が真剣にやっているだけだ。

全部、正しさなんてない。だから学歴も社会的地位もフォロワー数もチャンネル登録者数も、私にとってはなんの価値もない。

価値があると思う人には価値がある。それはそれ、違う宇宙の話だ。

私は私が「善い」と感じることをすればいい。与えられたすべてをつぎ込んで。

まとめ:あまり気負わず、息をし続けよう

これから どうするか?

息をし続ける

明日も太陽が昇り

潮が何か運んでくる

引用:映画『キャスト・アウェイ』

冒頭のこれは『キャスト・アウェイ』で主人公が終盤にいうセリフ。

時の流れは、それぞれに流れている。時間は絶対の概念ではない。相対性理論じゃないけど、定量化できるものではないし、過去から未来に流れるのでもない。それぞれが捉えたように、時間すら在り方が変化する。

縁も、何か大きな、私なんぞがわかりもしない力に導かれるように、結ばれたり離れたりする。

人生は、いつまでも続くわけでは無い。明日、いや今夜、唐突に終わりが来るかもしれない。それは誰にも分らない。わからないから貴重で、尊い。

与えられた最後の一片まで、使い切る。味わいつくす。

そのために、息をし続ける。できる限り、やれる限り。

生きている意味があろうがなかろうが、先行きが不安だろうが順風満帆そうだろうが、関係ない。それは次の瞬間にはひっくり返るかもしれない。

「潮が何か運んでくる」というのは、そんな未知と可能性の言語化だ。

何でもコントロールできる、思い通りにできる、という大脳新皮質の驕り。

私はその理性という病をこじらせて依存症になった。だからその貧弱さがよくわかる気がする。気がするだけで、そんなにわかっていないかもしれないが。とにかく、理性や科学というのは、それっぽく見えるだけで、実は宗教と変わりない。

だから、そんなに身構えなくてもいい。

「世間」は尤もらしいことを突き付けてくるかもしれないけど、そんなのは「そういう可能性もあるかもね」というだけなので、「自分は違うかな」と思ったら違うんだ。それで全然かまわない。

自分の「善い行い」「善い生き方」を素直に正直に考えて実践するだけでいい。

あとは自分の力の及ばないことだから、受け容れるしかない。

人生とはそれだけなんだ。悩むほどのもんじゃなかった。

と、仕事がつまらないと愚痴るか細い声の主が書いている。

弱くていい。本来弱いんだ人間というのは。だから、支え合いながら助け合いながら生きている。それに気づいて感謝できれば、その瞬間からあなたは幸せ者の仲間入りだ。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする