【発達障害】立ち話も電話も出社も嫌で仕方がないという話(神経発達症)

私は他人と話すと神経が削られる。

これはACを自覚して、回復プログラムに取り組んでからも変わらない。

ADHD・ASDと診断されてインチュニブを飲んでも変わらない。

おそらくは発達傾向として「コミュニケーション」にとても疲れを感じる性質なのだと思う。

かたや、他人と話すと元気になる、という人もいる。

本当に不思議だ。

どういう理屈で元気になるんだろう。

同じ発達傾向でも、ADHDの傾向が強い人は、割とこのタイプがいたりする。

私はどちらかといえばASD寄りなので、自閉傾向が強い。

昔の言い方でいう「高機能自閉症」というのに該当している。

コミュニケーションは取れるものの、得意ではなく、自分の世界に没頭しているほうが好き。

没頭しているときに何か邪魔が入ると、パニック障害に近いような癇癪を起こす。

小さい頃は、それでよく狂おしいほどの混乱に、ただただ泣き叫んで暴れていた。

そのたびに叱責され周囲に疎まれ、次第にこの状態をそのまま出すと他人に悪く思われると理解するようになる。

身体が成長するにつれて前頭前野が発達し、癇癪が起こっていても、何とか理性を働かせてブレーキをかけることができるようになる。

しかし、それは周囲に悟られないように耐えることであり、癇癪が起こらなくなったわけでは無い。

私の内部では、感情の嵐が吹き荒れていて、いまにも叫びだしたいほどの苦痛を内側に抱えていることに変わりはない。

じっと耐えているから、周りにはわからないだけ。

しかしそれも一日に何回も強いられると、さすがに疲弊してくる。機嫌は悪くなるし、頑健痙攣は起こるし、腹が痛くなる。

パッと出会ってしまった他人と立ち話するとか、かかってきた電話に取るとか、相手の都合がよくなるまで待機するとか、おそらく定型発達には些細なことなのだろう。

私にとっては、とてもキツい。

とっさに他人と立ち話するのは、基本的に全然楽しくない。話題に面白味があり楽しいときもあるが、どっと疲れる。

予定にない「立ち話」というイベントがはさまれることで、私がやろうとしていたスケジュールにズレが生じる。それがとてもきつい。急いで目的地に向かわないといけなくなったり、立ち話したことで新たに考え事のネタが浮かんでしまったりして、とにかく邪魔された感が強い。

かかってきた電話を取るなども、そのように邪魔になる。

何か作業をしているときに限ってかかってくる。

かかってきて不在着信が残る。それが気になる。

その時点で、今やっていた作業への集中力・没頭していた精神は、現実に引き戻されてしまう。せっかく1つの作業を完遂するためだけに研ぎ澄まされてのに、コールひとつで台無しだ。

そしてかけてみれば、大した用事でもなかったりする。はらわたが煮えくり返る。

こちらからかけるときもそうだ。

私は電話をかけるぞ、と思って決意をしてからでないと、話し出せない。

しかし、かけたときに相手が出るとは限らない。

折り返しが来たときには、私はまた決意を新たにし直さなくてはいけない。

電話ひとつでとても振り回される。だから電話は嫌いだ。

「1~2分で済むことじゃん」と思うだろう。

「そんなに気を張らなくても自然に話せばいいだけじゃん」と思うだろう。

そうできたら、どんなにいいだろう。

私は、一度にひとつのことしかできない。

そして自分が決めた順番にやることしかできない。

自分の順序・自分の作業への集中を乱されると、もう一度一からやり直しになるように感じる。

河原で石積をしていて、やっと半分積み終わったときに、横から蹴っ飛ばされて「あのさぁ」と話しかけられたら、どんな気持ちになるか、想像してみてほしい。きっと多くの人がキレるだろう。

あるいは、川のせせらぎを聞きながらただただ「石を積むこと」に集中したいのに、隣でデカい音楽をかけながらバーベキューし始めたら、イライラするだろう。

自分の時間に横やりを入れられる感覚は、これらに近い。

基本的に深い集中に入りきってしまえば、大したことでは引き戻されない。腹が減っても気づかないし、眠気も感じない。全神経を一つのことに集中していて、話しかけられても気づかないほどだ。

しかし入る途中や普段の状態は、ADHDの傾向が前に出ていて、頭のなかでは常に考え事をしている。五感は周りの会話や音や色や光をすべて拾おうとする。

世界は、やかましくてしかたがない。

音が聞こえにくく光の刺激が少ない水のなかが好きだった。だから習い事のなかで水泳は長続きした。今も海が好きだ。人が少ないビーチによく浮かびに行く。まるで水死体のようにずっと波に揺られてぷかぷか浮かぶのが好きだ。

ライブやクラブは大嫌いだ。まず音が五月蠅すぎる。光も不快。人が多すぎる。人の熱気で湿度が高く肌がべたつく。声を張らないと何も会話できなくて喉が疲れる。一つもいいことがない。

他人がいる空間にずっといなくてはならない、というのがもうダメだ。

オフィスに寄りたくない。他人に会うから。

会って話をしなくても、同じ空間に他人がいるのが嫌だ。気になって集中しにくい。

だから、どうしても大量にコピーしないといけない日や、提出物を出しに行かなくてはいけない日以外は寄らないし、寄ったとしても深夜か早朝の人がいないときに行きたい。

そうしたいのに、社用車の使用制限がかかって、出発前に上司にFacetimeで顔を突き合わせて連絡を取らなくてはならなくなった。

まるで地獄のような制度だ。

それだけで朝からもう疲れる。

朝晩にテレビ電話をしなくてはならない。それがどれほど苦痛なことか、定型発達にはわからないのだろう。

事務的に「今日も一日よろしく」「はい」で終われば1秒でよいのだが、「今日はどこ行くんですか?」だの「今日の○○クリニックどうでした?」だの聞いてくる。本当に止めてほしい。

業務連絡が必要なことなら、こちらから簡潔に話す。いちいち聞き出そうとしないでほしい。話さないということは、話す必要がないということだと、理解してほしい。ほっといてほしい。

同じような連絡を複数の人がやり取りするのも理解できない。

ひとつの内容の連絡は、1回でいい。

なぜ複数人から同じ内容を聞かせられないといけないのか、意味が分からない。

「ああ、それ〇〇さんから聞いたよ」と言われたときの私の脱力感たるや。

「ならわざわざ電話する必要なかったじゃん」とすごく気力を無駄にした気持ちになる。

おそらく、仕事においてこういう非効率的なコミュニケーションができる人は、仕事をしている自分が好きだったり、「仕事」という世界に浸っていたい・漬かっていたいんだろうと思う。

それはある種の逃避であり、依存でもある。

今の上司はまさにそうで、「ミスなし、モレなし、ダブりあり」がモットーらしい。

だからとにかく話したがるし、話させたがる。

本当に合わない。

MBAを取得しているんだから、ロジカルシンキングでいうところのMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)でいいじゃないか。なんで最も重要なダブりをありにするのか。

このモットーが無駄な仕事時間を生み、皆を疲弊させている。それをわかってない。仕事だけが好きな人なら、もっと浸っていられるからいいだろう。

しかし私は仕事なんて大嫌いだから、できるだけ脳のキャパを割きたくない。

割きたくないのに、無意味なことでメモリの使用率を圧迫するから、プレーヤー個人としての処理速度が落ちるし、アウトカムの質が落ちる。

つまり、仕事の遂行においても、マネージャーの存在は邪魔でしかない。

仕事というのは、人生のほんのごく一部だ。

そして、この世の仕事のほとんどは詐欺のようなものだ。

価値が低いものに価値らしきものを付与して騙しだまし高く売る。その差で儲ける。

詐欺に該当しないのは、自分たちが食べるものを必要な分だけ自分たちで作ることや、子どもを守り育てることや、人々の辛さや苦しみに寄り添い居場所をつくることだ。

つまり、自給自足のための家庭菜園・保育士や保護司・特定の居場所を運営する非営利団体などである。

お金は、全てが汚れている。

汚れをいくら集めても清くなることはない。

そればかりか、嫉妬や憎悪などの呪いを孕んだ呪物に近いので、それをたくさん手元においておけばおくだけ、人間が腐り、本当の幸せから遠ざかる。

だから、仕事など、生きていくために最低限でよい。

稲盛和夫や本田宗一郎を尊敬するビジネスパーソンは多いが、あれは「仕事」がバブル経済の崩壊前で「やればやるだけ承認欲求を満たすことができ努力が報われるゲーム」だったがゆえの理論であり、今の時代にはそぐわない。

仕事というゲームを「居場所」に見立てて、精神的な拠り所とした男性社会の宗教的幻想。

その背後には、仕事にかまける父親からネグレクトされ続けた母子が生むアダルトチルドレンという呪いを産んでいる。世代を超えて苦しめる呪いを産んでおいて、勝手に仕事を美化されてはたまらない。

仕事はただの労働だ。生きるために金が必要な社会だから金をつくるための作業だ。それ以上でもそれ以下でもない。それより重要なことは人生において星の数ほどある。

しかし、それが理解できる人は、金で殺し合いをしているこの新自由主義・資本主義社会では、珍しい。

「金は命よりも重い」。みんなカイジの世界で生きている。話が通じるはずもない。

命より重いわけなかろうが。紙幣は紙きれだし、硬貨は金属の板だよ。皆が洗脳されて価値があると思い込んでいるだけ。

話が随分とわき道にそれてしまったけど、結局、仕事なんぞにいつまでも漬かって現実から逃避したいとっつあん坊やには付き合いきれない、ということだ。

勝手にやっといてくれ。そして余計な意味のないことで私の貴重な時間を奪わないでくれ。

そんなことを本当に言うと相手が顔を真っ赤にして怒り狂うことは、今までの経験で心得ている。だから口には出さないのだけれど。

妻には「勤め人は向かないからやめたほうがいい」と言われる。

本当にそう思う。

人間が向いていない、ともいえる。

社会不適合者というのは、こういう人をいうのだ。やれやれ。

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