私の話し方はムカつくらしい。
妻からそう言われることがある。あの妻に言われるくらいだ。相当ムカつくんだろう。
思い出してみたら、私が話していると、なぜかムキになってくってかかられることがある。
私としては、できるだけわかりやすく論理的に、単純明快になるように話しているつもりなのだが、それが癪に障るらしい。
正直、それだったらもうどうしようもない。黙るよりほかに手段はない。
思えばいつも、コミュニケーションは難解で面倒な行為だった。
「雑談」というのも習得するのに時間がかかった。
どうでもいいことを話す、というのは、私にとってとても難しかった。
何とか他人の「雑談」に聞き耳を立てたりしながら分析と検証を繰り返し、編み出したのが「相手が関心がありそうなトピックスをいくつか頭に入れておいて、その話題を振る」だった。
相手のことを全く知らない場合は、季節のこと、食べ物のこと、なんでもいいから共通点が見出せそうなトピックを選んで、相手に質問する。そして答えてきた解答について、同じような見解や趣味趣向がある場合は、同意する。「私はあなたと似た者同士で、敵ではないですよ」と警戒心を解くのが目的の「雑談」。
「雑談」はとても疲れる。
楽しくなんかない。
どこに地雷があるかわからないベトナムの荒野を裸足で一歩一歩踏みしめるような作業だ。
相手がどう思っているかなんて、その時々で変わるし、趣味趣向だって年代を経ると変化したりする。
そんなあやふやなことをいくら話し合っても、身になることは何もない。
「相談」なのか、「ただ聞いてほしいだけの愚痴」なのかも、判別するのが難しかった。
「相談」だと勘違いしてアドバイスなんてしようものなら、逆鱗に触れる。
「ただ聞いてほしいだけの愚痴」なのかと思って相槌だけ適当にしていたら、聞いていないと怒られる。
「相談」だったとしても、まずは相手の気持ちを受け止める工程を挟み、共感してから、隣に寄り添うように自分の意見を言わなくてはならないのだ、とわかったのは、つい最近のことだ。
こういうことを国語の授業でやるべきだと思う。古文や漢文をやってる場合じゃない。こういう大事なことを義務教育で教えといてくれよ。えらい苦労したよ。
この「相談なのか愚痴なのか問題」は、私も逆の立場で不愉快になったことがある。
妻に仕事の愚痴を言っていたら「あなたって○○だからそうなるんじゃない?」と言われて、落ち込んだことがある。
つまり、俺が悪いってことね、と思うと、もう話す気も失せる。
聞き飽きているから終わらせたい、というニーズが妻にはあったのかもしれない。「私だって家事育児で疲れているし、そんなつまんない話聞く元気がない」というメッセージだったんだな、と後になって理解した。
もう仕事の話なんてしないようにしよう。
話して思い出してもいいことなんてないし、他人はどうにもならないし、ウザがられるくらいなら話すほうがストレスだ。
記憶の闇に葬り去るしかない。
会話して元気になる、という人の気が知れない。
疲れるだけではないだろうか。
私はとても疲れる。人に会うだけでもうヘトヘトだ。わざわざ疲れているときに会おうなんて、狂気の沙汰だ。
話すのが好き、という人をとても真似できないな、と思う。
私にとっては、話すというのはリスクだし、聞くというのはストレスだ。
私の話し方。
ブラック企業時代、上司に「日本語の話し方がなってねぇから、お前話し方講座にでも行ってこいよw」とバカにされて、真面目に受け取って自腹で学びに行った。
思い起こせば、あいつは私より話し方が下手だったと思う。身の程をわきまえず偉そうにのたまいやがって。いつか不幸になってほしい。
私は社会人になり、会話の構成に関する書籍を読み、分かりやすいプレゼン方法のHOWTO本を読み、要点をまとめてわかりやすく伝えられるように頑張ってきた。
しかし、肝心の何かが欠落している。
だから私が話すと、他人はムカつくのだろう。
その肝心の何かとは、概念化することができない共感覚というか、いわゆる『阿吽の呼吸』的なマナーなのかもしれない。
そして、私の「会話という行為に対する認識」に決定的に欠落しているのは「楽しい」という感覚だと思う。
会話が好きな人は、楽しんでいるからスムーズであり、共感覚が働くように、はたから見ていると思うことがある。
繋がることを喜び、楽しむという基本姿勢が、円滑なやり取りを可能にしている。
私にとっての「繋がる」は、見えない鎖で拘束されるようだと感じることが多い。
他人の欲、他人の思惑、他人の都合。
そういうものがべっとりと纏わりついた、忌まわしい呪いの鎖。
それでお互いの身体をぐるぐる巻きにされるみたいで、不快極まりない。
仕事では特にそうで、損得しか考えていないクズ野郎たちの欲と都合に振り回されるので、あまり他人と関わって仕事したくない。
しかし、人間は社会的な生物なので、その鎖の拘束がなくては、生きていくのは難しい。
自分だけで生きていければ平和でストレスフリーだが、そうはいかないので、生きていくために呪いとストレスを背負う。
生きるって、しんどいなって思う。
私の話し方がムカつくって、俺からしたら全員の話し方がムカつく。話そのものがムカつくよ。それでも我慢してんだから、そっちだって我慢しろよ、と言いたい。
こっちだって関わりは最小限にしたいよ。
できるだけしゃべりたくもないし、そうそう他人に伝えたいことも無くなってきた感すらある。
だって、他人は結局好きなように生きるんだもん。俺がいようが居まいが。
俺だってそうだし。他人がなんて言ってようが、自分が思うように生きるし、そういう風にしか生きられない。
寂しさや焦りがあったのは「陽キャであるべき」というべき論に囚われていたからだ。
陽キャだろうが陰キャだろうが、自分らしく生きていればそれで100点満点だと知った今、他人はさらにどうでもいい存在になった。
そんなどうでもいい存在に、とやかく言われたくない。話し方が気にくわないなら、話を振ってくるな。俺も話さないから。
なんかもう、人口1/10くらいになって、たまにしか人間に出会わない世の中になればいいのに、と思う。
多すぎるよ、有象無象が。嫌でも視界に入ってくるし、有難みが感じられない。
しかも口を開けば似たようなことしか言わなくて、内容がつまんないんだよな。
それで楽しめなんて無理がある。内容をもう少し煮詰めてから雑談に興じてほしい。
まあ、他人の問題なので、私がどう思おうが他人にしか変えられない。
別に私は悪くないのに、とかくこの世は生きづらい。
疲れたなぁ。