【発達障害】「社会不適合者」と呼ばれて

私は自分の疲れを認識するのがとても苦手だ。

「あれ、今日布団から起き上がれないな」

「なんかネクタイ締めようとすると、嘔吐くんだけどなんでだろ」

「立とうと思ったら膝に力が入らなくてこけちゃった」

みたいなことがある。

そこまできてはじめて、「あれ?俺ってもしかして疲れてる?」ってなる。

その不思議について今日は書いてみる。

やりたいこと・やるべきことに集中しすぎる

私は、とにかく目の前にやりたいことややるべきことがあると、それに一点集中してしまう。

意識が全部もっていかれるというか、勝手に突っ走っていて、止まらない。

以前は、やりたいことなんてなかったので、とにかく仕事にまい進していた。

「もっと良くするには」「もっと早くするには」

そんなことが常に頭を占めていて、思いついたアイデアを形にするために具体的なアクションを描き、実行する。

ゲームをしているときの感覚に似ている。

この武器をつくるには素材は○○が〇個が足りないから、このモンスターを〇匹倒して、次は成長させるのにこれが足りないから・・・と、次々どんどん進めようとする。

ゲームの場合も、睡眠も食事も忘れて没頭してしまう。

なんかイライラするな、体の調子悪いな、とゲームの目的達成の進捗が悪くなり始めると気づく。

その感覚は「強迫的」というのが語感としてとてもしっくりくる。

「やろう」が「やらなきゃ」になり「なんでもっと早くできないんだ」になる。

具体的なアクションに意識が集中しすぎるあまり「楽しむ」から意識がどんどん離れていく。

こんなに疲れてイライラしてまで、なんでやってたんだっけ?とふと我に返るときがある。

諸刃の剣

これは「過集中」という発達障害の傾向のひとつである。

良い面も悪い面もある、いわば諸刃の剣だ。

良い面としては、並外れた集中力と意欲で、常人には困難なことを実現する突破力を持つという側面がある。

たとえば、社会福祉士の国家試験を7日で合格したりすることができる。

妻からもよく「その集中力うらやましい」と言われる。

ふつうは、そんなに一つのことだけに長時間没頭することはできないらしい。私には感覚がわからないけど、楽しい・好きと思っていても、途中で飽きたりして、中断しても全然嫌じゃないそうだ。

私は中断されるとパニックに陥り心が引きちぎられるような気持ちになる。そしてしばらくその不快感を引きずって生活することになる。

たとえば、今こんなふうにブログを書いているけど、書き切るまでに邪魔が入ってしまうと、尋常じゃない怒りとストレスに苛まれる。叫びたいくらいイライラする。頭のなかでは続きを書いているのに、今この瞬間にそれを文字にできないと、のちのち内容を忘れてしまったりして、それがものすごくキツい。

気持ちがノっているときに一気に書いてしまわないと、気持ちが削がれてもう続きが書けなくなってしまう。「続きを今更書いたって、どうせ気持ちの入らない、価値のない文章になる」ともう一人の私が呟くので、あとで続きをやっていてもどうも楽しくない。結局お蔵入りすることになる。

なので、マルチタスクで一つ一つの作業が途切れ途切れになる社会人の仕事は、私にとってとても高度な作業になる。

特に営業は突然電話が入って作業中断を余儀なくされる。急な連絡で予定が変わることが日常茶飯事だ。会社の方針ですらコロコロと朝令暮改を繰り返したりする。狂気の沙汰だ。よくみんな普通の顔をして働けるよな、といつも感心する。私はとても無理だ、向いていないと自覚している。

気持ちがせっかくノっているときに限って、クソつまらない会議で時間を拘束されたり、PCを開いてはいけない時間帯に差し掛かったりしてしまう。

やりたいけどやれない。その不快感に堪え神経をすり減らす。

時が経ち「さあ、もうやってもいいですよ」と言われても、もうその頃には心も体もエナジーはゼロだ。もはややる気はない。でもやらないといけない。締め切りがある。とてもつらい。

理解されない私の感覚

宿題をやろうとしていて母親に「早くやりなさい」と言われてしまい、やる気をなくす。

そんな経験が一度はあるのではないだろうか?

やろうとしていたことは、他人が指図した瞬間に「やらされ仕事」になる。言葉では言い表せない何か大切なものが台無しにされてしまった。そんなふうに感じるだろう。

それに近い。その台無し感をより強く感じ、かつ尾を引くタイプ、と思ってもらえるととてもイメージしやすいかもしれない。

しかし、なかなかこれは社会人としては受け入れられにくい。

「なに甘えたコトいってんだよ、気分がどうこう言ってないでやれよ」

「そんなの気分転換すればいいじゃん、上手にできないのが悪いんだよ」

「みんなそのルールでやってるんだから、わがまま言うなよ」

幾度言われたことだろう。正直に話せばそんなふうに「わがまま」な「怠け者」で、扱いにくい「社会不適合者」とレッテルを貼られてきた。

ちょっとお菓子を食べたりコーヒーを飲んだりして気分が変われば、どれだけいいか。それで変わるならいくらでも食べるしいくらでも飲む。

まあそんなふうにしてアルコールの鎮静作用を利用し、いや乱用した結果、アルコール依存症になるまで頼りに頼ったわけだが。

ルールなんてクソくらえ

勝手にお前ら定型発達が設定した謎のルールになんで従わねばならんのだ。

ルールは変えられる。私は私の特性を変えられないんだ。

やりやすいようにルールを変えるほうが合理的じゃないか。

それで雇用主が望むパフォーマンスに近づき、より早く目的が達成できるなら、そのほうがWin-Winじゃないか。なんでルールのほうを重要視するんだ、意味が分からん。

今までも、今も、そう思っている。

要は楽に管理したい、リスクを最小限にコントロールしたいから、行動を縛っているだけだ。

管理する側が責任をとらされないために、楽してリスクを回避したいだけだ。

でも責任者は、責任を取るためにいるわけで、全体の最適化を考えるならリスクを背負ってでも多様な働き方を認めるのがリーダーがすべき仕事であり責任である。

自分が楽をするために仕事をするんじゃないよ、と思う。

この世は多数決が好きだ。

過半数の人間が賛成するなら、それが正義になる。

残りの半分以下に苦しみを押し付ける。生贄にするために悪のレッテルを貼る。

そりゃ、みんなで生きているんだから、守らないといけない最低限のルールはあるだろうさ。

でも、そのルールをできるだけ最小化して誰にでもわかりやすく実行可能性が高いシステムにするのが、本当に管理する側の人間のやるべきことなんじゃないの?

ルールを無駄にたくさんつくって「私はルールつくったんで、守らないやつが悪いってことで、あとよろしくね」って、そりゃあんたお粗末すぎるでしょうよ。

一方でルールを逸脱した場合に罰則をつけることには本当に熱心で、薬物依存の悪名高い標語「ダメ、絶対」のように、権威と恐怖と不安で押さえつけるような力技を多用する。

それ意味ないんだってば。逸脱した人を追い詰め排斥することで、問題をなかったことにするだけなんよ。問題を隠ぺいして真の課題に向き合わない、典型的な失敗例である。

そういうふうに、とがった個性を持つ個体を世間から爪はじきにして、仮初めの平和を維持しているのが、この現代社会だと思う。

だから、どんどん世の中がつまらなくなるのは当たり前だ。ルールでガチガチの檻の中は、金太郎あめみたいにどこを切っても同じような人間ばかりになるからだ。

お互いに監視し合って、ババ抜きでJOKERを押し付け合うように生きている。

本当にくだらない。

むしろ社会不適合者で結構

そんなつまらん社会に適合していることや、その社会で褒めそやされることに、いったいどれだけの価値があるだろうか。

私は言いたい。そんなものこそ無価値であると。

「こんなことをしたら、世間に笑われるんじゃないか」

「失敗したら、下手を打ったら、もう成功できないんじゃないか」

そんなことを思って、本当にやりたいことを我慢している人は、少なくないのではないだろうか。

はっきり言おう。

社会で成功することなど、大して価値はない。

他人が笑おうが気にするな。そんなのは金太郎あめの独り言だ。無視していい。

社会不適合者で構わない。

生きるのが下手でいい。むしろ、下手こそ良い。

こんなくそみたいな社会に馴染まないぐらいで、あなたの価値をあなた自身が勝手に下げてはいけない。

たとえば、私は誰も読まないようなこのブログを結構な熱量で書いているけれども、この文章がそんなに読まれなくても、それはそれで構わない。

この社会だ。まだ理解できる人が少ないということもあるだろう。今教科書に名前が載っているような偉人も、生前は全く評価されなかった、ということが往々にしてあるくらいだ。

私は私を通してこの世界を知るために、文章を書いている。そして、それは私がやりたいから始めたことで、楽しいから続けていることだ。

それにこそ、最も尊い価値がある。

実益があるとか、社会的に意義があるとか、それらはいずれも後付けだ。

人間の行動の本当の理由は、だたひとつで、「それをやらずにはいられないほどやりたい」から。

素直に生きよう。それが命を授かって、私たちが人として最もすべき重要なことだ。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする