【発達障害】ASD(自閉症スペクトラム)としての生きづらさ

発達障害の私の特性は、人を傷つけやすい。

①中断させられること

たとえば私は、一つのことに集中しているときに煩わされるのが、ものすごくストレスだ。

ブログを書いているとき。

仕事をしているとき。

食事をしているとき。

寝ているとき。

何かをするためにマインドセットした後に、それを中断しなくてはいけないとき、神経がブチブチと音を立てて断裂するような感じがする。

精神が千切れる音がする。

また集中し直そうとしたときには、完全に気が削がれていて、思い描いていたことが霧散している。

そんなことが繰り返されると、もう何もしたくなくなる。したいと思っていたこと、したいという感情自体が、煙のように消えてしまう。

他人と接する可能性があるときは、いつ何時でも自分がやっていることより他人のタスクを優先できるようスタンバイしておかなくてはならない。

つまり、100%集中などできはしない。

100%集中して作り上げたものでなくては、不満は必ず残る。やり切っていないからだ。全力を尽くしたと言えないものを、私は私自身が好きになれない。

せっかく気持ちを多少込めたとしても、それを見るたびに「邪魔さえされなければ」という我執が首をもたげる。そんな不快なものは、いっそ存在しないほうがいい、とゴミ箱行きになる。

私の文章も、考えていることも、取るに足らないチラ裏にでも書いておけよという内容かもしれない。実際そんなレベルのものだ。それの多少の良し悪しに拘って何になる、という思いもあるにはある。

しかし、私が今まで綴ってきたものは、そのときそのときの全力のひと振りであり、だからこそ読み返したときに気づきがあるのも事実だ。

だからのめり込んでしまって、周りが見えなくなる。

②予定変更

たとえば、予定変更があると、動揺するしイライラするし、パニック状態になりやすい。

あらかじめ考えていた予定や効率や心構えを、一度全部ぶち壊しにされる。本当に挫けそうになる。

「なんだそのくらい、さっさと気持ちを切り替えればいいじゃないか」と言われるけれど、みんなどうやってやっているのか、本当に不思議でならない。

感覚的には、数日かけて進めたゲームのセーブを全部消されたくらいのインパクトがある。それを「そのくらい」と捉えてさっさと切り替えて過ごすなんて、私は何回輪廻転生してもできる気がしない。

もはや悟りを開き何にも動じない心に至るしか道はないと思っている。

予定が変わってしまったら、とにかく深呼吸して、落ち着く。呼吸に意識を集中させる。

でないと、気づいたらパニックになっていて呼吸をしていないことがあるからだ。呼吸がうまくできずに、ノルアドレナリンが放出されてどんどん気持ちが不安定になっていくから、最初が肝心。

生きていかなくてはならない

こんな調子で、恐る恐る生きている。

この世で、社会的な生き物として、つまり人として暮らしていくためには、常に他人がすぐそばにある環境に適応しなければならない。

予定変更など日常茶飯事だ。そうなってもパニックになったり、人や物に当たってはならない。

それだけのことだと思われる、それらのことが、とてつもなく難しくて辛くなる。

その場に応じたTPOをわきまえ、自分のタスクは確実にこなしつつ、他人にも気を配り、社会全体の最適化を目指さなければならない。

なぜなら、それができない場合、一番近くにいる誰かを蔑ろにしたり、邪魔されるストレスをぶつけたりして、傷つけてしまうからだ。

私は人を傷つけたくない。

でも、生きている限り傷つける。

ASDとしての生きづらさはここにある。

生きているだけで、ストレスなのだ、この世は。

私が人を傷つけずにいるためには、究極で言えば、私がいなくなることだと思う。

ゼロになればマイナスは生まれない。何をかけてもゼロだ。存在がない、ということはある意味で「影響を及ぼさない」という価値がある。

自分が自分らしく生きてあまり社会的に難だと思われない人には分からないだろう。不協和音を奏でることしかできない亜種として生きる人の気持ちは、亜種にしかわからない。

精いっぱいやってきたつもりだが、さらなる改善を見込むためには、自身の心情と思考プロセスの説明を簡潔に分かりやすく伝える技術が不可欠だ。

だからこそのアサーティブネスなのだが、今はなんだかすごく疲れた。

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