【依存症】お酒しかなかった数年前のGWを振り返ってみた

こんにちは、ちあき です。

GWも残すところあと少しですね。

世の中的には長い休みですよねー。10連休とかすごすぎ!

今日は断酒例会で酒を飲みまくっていた時の長期連休の話になり、自分自身を振り返っていました。

とにかく酒を抱えて引きこもった3年前までのGW

妻と出会う前、独りで迎えたGWの記憶は、あまりありません。

ずっと、酒で酩酊していたからです。

連休の最初の夜にしこたま酒を買い込んでましたねー。

ビール・ワイン・ストロング系チューハイ・ウイスキー・ジン・ウォッカ・リットル単位の焼酎…

なぜこんなに買うのか?

酒を買いに出ると人に会ってしまうから。

そう、私は休みはとにかく人に会いたくなかった。

「やっと、人に気を遣わずに過ごせる!!」というのが、連休前の金曜日の感想でした。

人に会うのは今も疲れますが、当時は本当に苦痛でした。(なのに営業という意味不明さ)

聞きたくもない話に愛想笑いして。自分の話など怖くてできなくて。

「つまらなそうに見えて悪く思われないか」「失礼なことをしてないか」「言葉を間違えて勘違いされやしないか」とビクビク怯えて。

そんな針の筵のような平日が、やっと!やっと!小休止を迎えたぞ~!!やったー!!

という感じでした。笑

そして金曜の夜、カーテンも閉め切り、PCだけつけて電気も真っ暗にして、独りきりで飲み始めます。

飲んでは気絶・飲んでは気絶・たまに吐いてトイレに籠って・また飲んで気絶

気がついたら、もう連休も最終日。

「ああ、また明日から地獄の日常がはじまるのか…」

と思って最後の瓶を空けながら、さめざめと泣いて最後の夜も気絶するまで飲んでいました。

断酒していると「人といるのもいいかな」と思えてきた

こんな鎖国状態の私も、今は少しずつですが、人に本心を打ち明けたり、人の話を聞いたりすることが、いいことなのかもな、と思うようになりました。

それは断酒会に行き始めてからでした。

会社を懲戒解雇されかけ、運よく首の皮一枚繋がって戒告処分で済んで、それから悔しさと恨みで1年3ヶ月飲まずにいられていました。

しかし、転勤して環境が変わり、周りから懲戒処分をネタに馬鹿にされたり揶揄されたりしたことに負けて一度スリップしてから、もう自分の力ではどうしようもなくなりました。

妻に教えてもらって病院に繋がり、初めて断酒会に出席した時、私は生まれたての小鹿のように震えながら中を覗き込むような心境でした。

「もう、情けないけど自分の力だけでは、どうしようもない」

「でも、こんな人生の落伍者の集まりに参加するまでに落ちぶれてしまった」(超失礼)

「どうせやめたって、もう俺の人生は終わったも同然なんだ」

「これからは、今までの情けない自分を罰しながら、日陰で一生謝りながら生きていくんだ」

そんな気持ちで覗いた断酒会場の椅子に、ちょこんと仲良く座っている老夫婦がいらっしゃいました。

Kさんご夫婦は、旦那さんが依存症者本人で、奥様が酒害者家族でした。

口を開いたKさんの酒歴はそれはそれはすさまじいもので、警察沙汰・刃物も出てきて、留置所もバンバン入っているという、私が足元にも及ばない(と当時は勘違いしていた)ものでした。

そんな酒害を盛大にまき散らしてから、断酒を志し、以来30年近く断酒しているというではありませんか!

3:30に寺を訪ねて仕事前に4時間の座禅を組み、仕事終わりにまた深夜にかけて4時間の座禅を組み、それを毎日!10年続けたそうです。

そのエピソードを話す傍らで、やわらかい笑顔を浮かべている奥様。

比喩ではなく殺し殺されかけた修羅を乗り越えたお二人が、

「今は、断酒していて幸せです」

とおっしゃる姿が、私には太陽よりも眩しかった。

こんな未来があるのか、こんな未来もあるのか!

なら、もう一回頑張ってみよう。

こんな未来があるのなら、もう一回、覚悟を決めて『生きて』みよう!

この出会いが今も私を支えています。

断酒会って、本当に不思議なところです。

みんな言いっぱなし・聞きっぱなし。

終わったら特に感想を言い合うでもなく

「おつかれっしたー」と思い思いに散っていきます。

でも、心が・魂が、触れ合った実感があります。

お互いにあえて何も言わなくても「私たちは仲間だ」という共通認識が産まれます。

それは、私にとって素のままでいられる、とても安心できる空間であります。

言い訳やキレイごとを全部なくした生の感覚を話すことができる、数少ない私の居場所。

そうして自分のそのままを話すことで、私はヒトの魂に触れることができる。

そのままを聞くことで、自分の魂に触れることができる。

ああ、だから皆、あんなに人に会うと嬉しそうだったのか!

だから今、私はこんなに涙が出るほど、人に会えて、人に会うだけで感謝されることが嬉しくてたまらないのか!

と、最近は「人と会ったり話したりするのも悪くないんじゃないかな」思うのです。

数年前のGW、酒瓶を抱えて映画やニコニコ動画を観ながら、さめざめと泣いていた当時の俺に教えてあげたい。

「そんなに、他人は痛みばかりを与えてくる存在じゃないよ」

「自分も他人もそのままに触れ合えれば、こんなにも癒されることはないよ」と。

夢に出てきた恩師が思い出させてくれた昔ばなし

東北に赴任していた時、とてもお世話になった整形外科のO先生が昨夜、夢に出てきました。

「元気にやっとるかね」

「はい、先生にお世話になっていたときよりも、ちゃんと真剣に生きてますよ(笑)」

「そうかい、そうかい。せっかく生きてるんだから、やりたいことやって精一杯全力で生きんとね。」

「そうですね。当時は先生がおっしゃっている意味が分かってませんでしたよ。」

「そうだろうと思ったよ(笑)。」

先生はご存命なので夢枕に立つという表現は正しくなく、「おい!まだ勝手に殺すなよオイ!」と怒られそうですが、久々に夢ででもお会いして今朝は嬉しかったですよ、先生。

O先生のご専門は「筋ジストロフィー」で、国立病院勤務にも拘らず患者さんやご家族のために休日も個人的に動くなど、本当に日夜奮闘していらっしゃる、それはそれはエネルギッシュな先生でした。

■「筋ジストロフィー」とはどのような病気ですか?

筋ジストロフィーとは骨格筋の 壊死 ・再生を主病変とする遺伝性筋疾患の総称です。筋ジストロフィーの中には多数の疾患が含まれますが、いずれも筋肉の機能に不可欠なタンパク質の設計図となる遺伝子に 変異 が生じたためにおきる病気です。遺伝子に 変異 が生じると、タンパク質の機能が障害されるため、細胞の正常な機能を維持できなくなり、筋肉の 変性 壊死 が生じます。その結果筋萎縮や脂肪・ 線維化 が生じ、筋力が低下し運動機能など各機能障害をもたらします。

引用:難病情報センター:筋ジストロフィー(指定難病113)

当時小児(5歳から7歳くらい)で発症した患者さんだと、その地域ではだいたい20歳代で亡くなるケースが多く、先生はそうした若年の患者さんとそのご家族を多く担当してこられました。

私は先生のご専門を調べ、営業として毎週訪問していたわけですが、筋ジストロフィーの話になるといつも悲しい気持ちになってしまいました。

たぶん暗ーい顔をしていたんでしょう。

ある日、先生が言いました。

「君は、『筋ジストロフィーの患者さんって可哀想だな』と、思っているね?」

「はい、だって20歳までしか生きられなくて、全身も思うように動かないなんて…」

言葉に詰まる私に、先生は笑いながら言いました。

「それはねぇ、偏見だよ。君の。」

私はその言葉を聞いたとき、背中からドッと冷たい汗が出るような、心臓を握りしめられるような心地がしました。

それは、真実を言い当てられたときに胸に突き立てられるあの独特の感覚でした。

先生の言葉は氷柱のような鋭さで私を貫きました。

「偏見…ですか…」

「そう。だって、可哀想な人生かどうかは、その人自身が決める事だろう?

君が決める事じゃない。君の物差しで決められることじゃないし、測れることじゃない」

「君の物差しで、勝手に可哀想だと決めつけるなんて、非常に無礼なことだろう?」

穏やかに笑いながら先生が放ってくる言葉に、私は顔から火が出るくらい恥ずかしい気持ちでした。

先生によると、患者さんもご家族も

『自分たちに与えられた運命を覚悟して真剣に生きている』ということでした。

「この子とは20年しか一緒にいられない」

ではなく、

「この子といられるこの20年を全力で楽しもう!」

という輝きを放っている、私はそれに何度も救われてやっと医者できている、とおっしゃっていました。

それは、魂の輝きだ、と。

それを思い出すにつけ、

私はいま、ちゃんと与えられた運命を受け容れて、

全力で、真剣に、覚悟して生きているだろうか? と思うのです。

アルコールに溺れて様々な人を傷つけ迷惑をかけ、

早期に昇進してマネジメント層になることを期待されて転職してきて

最下層まで降格され、懲戒処分まで受けて、いつクビになってもおかしくない。

だから、可哀想か?

否。

それは、もうどうしようもないこと。

罪を悔い改めて、償いながら、前を向いて生きていくしかない。

そう、もうやってしまった罪は消えない。

もはや、私にはコントロールできない、動かしようもない、仕方がない事実なのです。

私がこれまでやってきたことや生きてきた道は、

他人から見れば

「自業自得」「身から出た錆」と思うかもしれない。

「もう終わったな」「負け組で可哀想」と思うかもしれない。

私にとっては、受け容れるべき「私の人生」という運命なんだろうな、と思います。

私の運命そのものは、恥ずかしいことでも、可哀想なことでもない。

20歳まで生きる運命を背負ってこの世に産まれた筋ジストロフィーの子が、

決して『可哀想な人生』などでは無いのと同じように。

テニスクラブで知り合った、重症筋無力症の娘さんを授かった女性が、朗らかに笑いながら言っていました。

「〇〇ちゃんがせっかく産まれてきてくれたのに、『どうして』とか『なんで私の娘だけ』なんて、嘆いている時間がもったいない。私たちに神様が与えてくれた時間をもう、精一杯思いつく限り楽しむ!それっきゃないでしょ!だって、私たちはもう、そうでしかないんだもの!

この人の笑顔は本当に美しいなと思った記憶があります。

奇しくも、やはり先生もおっしゃっていたのでした。

「君にはしたいことがあるかい?ちゃんと、『生きている』かい?」

「せっかく生きているんだから、生きている間に好きなこと・したいことをするしかないよ、君。そんな浮かない顔している間に、どんどん時間が過ぎていく、それは実にもったいないじゃないか」

「どう生きるかは、君自身が決めて、君が思いっきり精一杯思いつく限りの楽しいことや成し遂げたい事をやりつくすことだよ。そうやって楽しむために、今、まさに君は息をしているんだよ。」

「私も患者さんに教えてもらったんだけどね。どんなに欠けていたって、どんなに悔やんだり羨んだって、もう、君も僕も、そうでしかないんだから、そのまま限界まで燃えるように楽しむこと以外、やるべきことは一つもない。

先生、今は少しちゃんと『生きている』気がしますよ。

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