【依存症】依存症になってよかったマジで

私は、アルコール依存症だ。

断酒して5年が過ぎ、もうすぐ6年になろうとしている。

本当にいろいろあった。

「お酒をやめて良かった」と思っていることはもちろん、

「依存症になってよかった」と思っている。

そんなわけねーだろ、と思うだろう。

5年前に未来の自分がタイムスリップしてきてそんなことを言いだしたら、私も「なめてんのかコノヤロウ」と確実に殴りかかっていると思う。

それくらい信じがたい、心境の変化だと言える。

お酒というドラッグの要らない世界

お酒を嗜む人からすれば「お酒を飲めないなんてかわいそう」と思うだろう。

私は飲んでいたころそう思っていた。下戸の人を、可哀想だと思っていた。

私は断酒してから、よく「人生の半分損してる」とか「楽しみが減って可哀想だね」とか言われた。

全然かわいそうじゃないから、安心してほしい。

むしろ飲んでいる人のほうが可哀想だ。人生の半分がお酒なんかで占められているだなんて、昔の私みたいですね、と思って逆にマジで可哀想だなと思う。いやまてよ、私は9割がお酒だったわ、レベルが地獄で草。多分昔の私よりはかわいそうじゃないわ。

お酒を飲んでいるときは、アルコールでラリっているので、脳がドーパミンによって「楽しい」と勘違いする。いわゆるキマっている状態だから、その場の状況を錯覚する。

この間シラフで職場の食事会に参加してみたが、びっくりするほどおもしろくない場だった。

仕事の愚痴ばっかりだし、大した話もしていないし、知的な刺激が全然ない。それなのに1時間も着座して話を聞いているのが、とてつもなくしんどかった。こんなしんどいこと、そりゃ酒でも飲まなきゃやってられねぇよな。どんなもんなのか試しに行ってみたけど、途中で帰った。もう行かないだろうな。

今私にお酒が要らなくなったのは、お酒が無くても楽しいからだ。いや、むしろ無いほうが楽しいからだ。

お酒を飲んでいたのは、人生がつまらなすぎたから。早く終わりにしたい、でも終わりにできない、という絶望を少しでも紛らわせるには、薬物が必要だった。私が合法的に手っ取り早く仕入れられるドラッグが酒だった。ただそれだけ。

生まれた国が違って、モルヒネやコカインやヘロインが手に入る環境なら、それに手を出しただろう。

違法か合法かなんて関係ない。記憶をぶっ飛ばせればそれでいい。仮死状態になれるならなんでもいい。そんな感じだっただろうと思う。

現実が嫌すぎて、何かで紛らわせていた。その必要がなくなった。その変化は何だろう?

余計な荷物がなくなった

私は余計なものをたくさん抱えすぎて、歩くのもしんどくて、でも歩くしかなくて、酒を浴びるように飲んだ。

余計なもの、というのは、私の心の中にあるゴミのような価値観と強迫観念だった。

「親の期待に応えないといけない」そうしないと愛してもらえない

「いい大学やいい会社に行かないといけない」そうしないと愛してもらえない

「一流のビジネスマンになって活躍しないといけない」そうしないと捨てられる

「善良で正しくなくてはいけない」そうしないと愛してもらえない

全部、そんなことはなかった。

親の期待は勝手に親が持っているだけで、別に応じる必要はない。

親になってわかったが、正常な親は、子供が元気に自分らしく生きていさえすればそれでいい。

恩返しも必要ない、生まれてきてくれただけでもう十分に親孝行だから。

私の親が異常だから、私をコントロールしたかっただけで、私は親の顔色を窺う必要など全くなかったことが分かった。

なので、この思い込みは余計だったから捨てた。

いい大学、良い会社、一流のビジネスマン。

そんなものは何の価値もないことが、自分の頭で考えて物事や社会を観察していたらわかった。

使い潰しやすい人的資源を確保するための、政府や企業にとって都合がいいブランドイメージだ。本質的な価値はそこにはない。

だって、本当に価値を測れるなら学歴と職歴が輝かしい人はみんな素晴らしい人格者のはずじゃん。

でも実際は違うよね?みんなも薄々わかってるでしょ?

良い大学を出ていてどんなに優秀な成績を収めていてもクズみたいな人間はゴマンといる。優秀とされている官僚や政治家や医師が、このコロナ騒動でどう立ち回ったかをみてみてよ、一発でわかるでしょうよ。

一流のビジネスマンは私からすると「詐欺がよくできるだけのスーツ野郎でしょ?」というイメージ。

ビジネスとは所詮騙し合いの椅子取りゲームであり、それが人より得意なだけ。ゲームの得意不得意は人間性や人間的魅力とは相関しない。

私はクズや詐欺師にはなりたくない。だから、私にとって追いかける価値のない物差しだとわかった。

これも余計だったから捨てた。

善良さ、正しさ、というのは自分の良心で判断するしかない。

それを「他人に○○と思われよう」としている時点で、そもそもズレていた。

私は大いにズレていた。

他人が思う善良さや正しさは、他人の物差しであって、それは他人の数だけある。そんな千差万別のものさしすべてに対応するなど不可能。つまり、全員に好かれ評価されることなんて、できるわけがないってことだ。

自分を否定されて傷つくのが怖いから、他人に悪く思われたくなかっただけだ。

裏を返せば、傷つかなければいいだけだった。

他人は私のことをそんなに真剣に見ていない。表面を切り取ってあーだこーだ言っているだけだ。または、自分の内面を私を鏡に使って映し出して何かを言っているだけだ。

だから、他人が下す私の評価というのは、とるにたらない。勘案するに値しない。そんな大した影響力の無いもののためにオドオドしながら顔色を窺って生きるのは、とてももったいない。

言いたい奴には好きに言わせておけばよい。それで私の価値は一ミリも棄損されない。

これも余計だったから捨てた。

ぜーんぶ、私が大事だと信じていた価値観は、余計だった。だからぜーんぶ捨てた。

そしたら、とても身軽になった。

ちゃんと自分の心の声が聞こえるようになった。

今まで余計なゴミに埋もれて聞こえなかっただけだった。

私の心は死んでなかった。ちゃんと叫んでいた。叫んでいたのに気づかなかった。だから心が病んで動けなくなったのだった。

自分の心の声をちゃんと聴くようになったら、やりたいことや楽しいことや嬉しいことがなんなのか、わかるようになる。

そしてそれを素直に聞いて、素直にやっていれば、私は私をどんどん好きになるし、世界もどんどん輝いてみえてくる。

やりたいことをやれる世界。楽しいことや嬉しいことに満ちた世界。

そんな世界を、薬物キマってぼんやりした脳で過ごしたくない。もったいなさすぎる。ちゃんとクリアな五感で楽しみたい。酒?そんなもん飲んでる場合じゃない。

だから、私にはお酒が要らなくなった。

というか、私の世界から無くなった。必要ないから。

依存症という宝

私は、酒を憎んでいるわけでは無い。

むしろ、地球上にあってくれてありがとう、と思っている。

私のためにあったのだとさえ思う。

だって、酒に頼って失敗しないと、私は本当のことに気づかなかったから。

私は酒でごまかして生きてきて、運よくしっかりうまくいかなかった。大きな挫折と痛みをもらった。

上手くいかなくて悩んで苦しんで、運よく死なないうちに問題に向き合うチャンスをつかんだ。

「自分の力だけではどうにもならないことがある」という事実を知るチャンスを。

それほど、酒をやめる前の私は傲慢だった。

成績も、業績も、年収も、他人からの愛情も、人生も、全部コントロールできると思っていたのだから。

なんてやべーやつなんだ。そんなんできるわけないだろ。

努力次第でなんとかなる、今評価されないのは自分がまだまだだからだ、と信じていたので「もっと頑張らなきゃ」「もっとちゃんとしなきゃ」と思っていた。

あのねー、そんなに人間万能じゃないんよ。

頑張ったってたかがしれとるし、ちゃんとできないことだってあるんよ。人間だもの。

私はたまたま、ちょっと受験勉強ゲームで点数が取れて、ちょっと運動できる体だったから勘違いしちゃってただけで、人間はどれもこれもが本来どんぐりの背比べ。大した差など無いし、個体ごとに多少能力値に差があるのはしかたがない、埋めようがない、努力は万能じゃない。自分を買いかぶりすぎただけ。

たまたま受験できるだけのお金が出せる両親のもとに産まれた幸運。

たまたまお客様が契約してくれたから業績が出た幸運。

たまたま五体満足に生まれてきた幸運。

ていうか、この時代・この国に産まれたという幸運。

全部、運である。実力は運である。

たまたま運がよかっただけだ。自分の頑張りは、たまたま生まれた結果を後付けで自分の功績だと解釈したにすぎない。

プロスポーツ選手にしても芸術家にしても、たまたまそれに没頭できる環境と、たまたまそれを上手にできる才能があっただけだ。全部、運です。

だから、やれることはそりゃやるけど、なるようにしかならんし、そもそも何かで結果を出すのは遊びであって、人生の本筋じゃないから、楽しくないならやらんでいい。

前の自分より、上手くなりたい、かっこよくなりたい、それがおもしろいからやるんだよ。

あくまでも比較対象は過去の自分。他人じゃない。他人は違う宇宙。前提が違うから比較しようがない。

それで一喜一憂するのは、走り幅跳びの選手がマラソン選手に100m走を挑んで勝った負けたと嫉妬したりマウント取ったりするのと同じくらいくだらない。

好きなように走り幅跳び楽しんで極めりゃいいじゃないの。

自分が楽しいことを極める。人生はそれだけよ。

何でもできるわけじゃない。

人それぞれに長所も短所も違う。

私はそんな当たり前のことも、競争社会で洗脳され過ぎて忘れていた。

とにかく競争で勝って生き残らなくちゃいけない。だから頑張らなきゃいけない。

テメェの人生は仕事かよ。全然つまんないよそんなの。そりゃ飲むよね、っていうね。

他人にとって当たり前のことが、私にはできない事もある。それが当たり前で、それでいい。

だから誰かと比べて自分を嫌いになる必要なんてなかったし、できないことは悪いことじゃなかった。

できないのに助けてと言えない、私の弱さが、私を追い詰めていただけだった。勝手に苦しんでただけ。独り相撲ってやつです。

弱くていい、ダメでもいい、他人を頼ってもいい、他人のために生きなくてもいい、私は私で良い。

そういうことに気づくために、私は依存症という病気が必要だった。

この病気が無かったら、私は私の生き方に何ら疑問を持つことなく、そのままおじいちゃんになって死んでいただろう。

そう思うと心底ぞっとする。ずっと「なんでこんなに楽しくないんだろ?でも満たされているはず、私は幸せなはず」と自分を誤魔化し毎日毎日小首をかしげながら、せっかく与えられた時間をクソつまらん競争に投資して、後悔しながら人生を終える。

そんな世界線もあったわけだ。その悪夢のような世界線から、私を分岐してくれた依存症。

ああ、依存症のおかげで、私は一度死に、もう一度生きるチャンスを与えられたのだ。

だから、私は本当に心からこう思う。

依存症になってよかった、と。

うらやましかろ^^

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