【依存症】水のように生きる、ということ。

こんにちは、ちあき です。

久々更新です。

今日は久しぶりに断酒会にいけました。

そこで感じたことをちょっと書いてみたいと思います。

異動になりました

部署が異動になることになりました。

一応希望している領域にいけることになり、いいことなのですが、問題が一つ。

上司がまた変わること。

現在の上司は、依存症には想像力が働かないタイプの人でした。

私がアルコール依存症になったことは「恥ずかしいこと」で「あまり言うべきではないこと」だと、今の上司には映るようで、私が飲み会をすべて断ることもあまりよくは思っていない人でした。

それ自体は仕方がありません。人のとらえ方はそれぞれなので。

でも、アルコール依存症の病態と私の状態を説明して、チームのメンバーにも説明して、

「でも今はもう治ったんでしょ?」とか

「そんなの言い訳で飲めるのに頑張らないだけでしょ」とか

そういう勘違いをいちいち訂正するのは、結構大変でした。

またそうなるの正直面倒だし、嫌だな…と思ったんですよね。

自分の酒害を話したとき、眼の奥に揺らぐ侮蔑・嘲笑・憐憫。

それらをまた一から目の当たりにしつつ、『できないこと』を話して助けを求めるのは、やはりそれなりに勇気と覚悟がいるものなのです。

それでも、私は、そうでしかない。

しかし、それで怖がって隠していても、しかたがありません。

だって、飲めないんだから。

だって、飲んで失敗してきたんだから。

だって、できないものはできないんだから。

そこから逃げて目を背けてきたから、私は私を見失ったのだから。

今度は逃げないで向き合うと決めた。それが私の断酒なのだから。

今回、初回の面談で、新しい上司に素直に『できないこと』を伝えられたのは、私にとって大きな進歩でした。

私は今まで、人に、現実の自分よりもよく思われようとしてきたのではないかしら。

なぜ? 現実の自分には自信がないから。

アルコール依存症をバカにされる。

自分がやってきた過ちで人から見くびられ、軽んじられ、陰口をたたかれる。

「許せない、見返してやる」「俺の頑張りをどうして認めてくれないんだ」と、

私は他人に対して、認識を変えさせよう、そのためによく見せよう、と『背伸び』していました。

しかし、どう受け取るか、どう考えるかは、相手の問題です。

相手の器の成熟度にも左右されるし、何よりそれは「私にはどうすることもできないこと」というタッチできないカテゴリの事柄だということです。

だから、アルコール依存症のことをどれだけわかりやすく丁寧に話したとしても、理解してくれるかどうかは相手次第。

コントロールすることができないこと。

それと同じように、相手がいくら

「そんなんじゃだめだ」

「お前は頑張っていない」

「そんなことで恥ずかしくないのか」

と感じ、私に言葉を投げかけたとしても、私は、ただ、私としてしか生きられない。

言われたことが腑に落ちれば、行動を変容させるかもしれないけれど、それはどこまでも

「私がそうしたいと思った」からするわけで、誰かに言われたからするわけじゃない。

誰かに言われたから変える、というのは、今までやってきた『背伸び』と同じだから。

私は私として生き、私として死ぬ。

それ以外の道はありません。

それを「許すことができるようになった」のではないかしら…と思うのです。

自分も自分以外も許せない生き方は、自分も他人もしんどい

私は、許せませんでした。

自分をバカにする他人も、馬鹿にされるようなアウトカムしか出していない自分自身も。

飲めないから機会を失う、同僚の飲み会の中で交わされる会話についていけない、そんな惨めに見えた自分自身。

どれだけ言葉を尽くしても分かってくれない、分かろうともしない、思い通りにならない他人。

ああ、そんな風にすべてに憤り、青筋を立てて顔を真っ赤にして、私はどうしたかったのでしょうか?

そもそも、思い通りになることなど、そんなに世の中にはないのですから。

ブルースリーは、「友よ、水のようになるのだ」という言葉を残しています。

水は、たとえば川を流れるとき、川の在り方に沿ってしか、流れていけません。

傾斜・角度・川幅・方向…すべてが外の力で完璧に決められていて、それを水自身はどうすることもできません。

しかし、水自体はどんな形にもなれる。

速く流れることも、激しく打つことも、穏やかに揺蕩うことも。

そして、水は、水以外の何物でもなく、唯々、水であり続けます。

こっちの水とあっちの水のどちらが優れているとか劣っているとか、水自身は何も比べません。

比べる気持ちがある人(第三者)が、その気持ちを込めた目で視て、優劣を勝手に決めつけているだけ。

その勝手な優劣は、人の目の数だけ存在することになります。これが他人の評価、というもの。

つまり、そんなものを気にしていたら、そのニーズのすべてを満たすために、水は水で在ってはいけなく、他のどんな物質にもそれを成し遂げることなどできません。

「出会うすべての他人の意に沿おうとする」というのは、すなわち、水を水でなくす=「正体をなくす」ということです。

私たちは、正体をなくしてしまった。アルコールという薬物で、土台無理なことをしようとする自分自身を、隠しだまし裏切り続けてきたのではなかったか。

そう思うのです。

そりゃ、苦しいですよね。だって、「自分が自分で在ってはならない」って24時間365日思い続けているんだから。

そんな自分を許してくれない他人にも、常に苛立ち恨みを抱えているのだから。

そんなあなたを見た他人も、ずっと刀の切っ先を向けられているような、責められているような気持になっていたでしょう。

お互いに苦しいだけですよね。

水と水を較べない。水が水である事を、もうそろそろ許そう。

水=自分・他人と置き換えてみると、どうでしょう。

自分と他人を較べない。

自分が自分であることを許そう。

自己啓発セミナーみたいな怪しげなところでも言っていそうなセリフでしょう?笑

でも、そうなんですよ。

私は、私でしかないんだから。他の誰にも成れないんだから。

『背伸び』しなくてもいいし、『できないこと』を隠さなくてもいい。

だって、水は水でしかないのと同じなんだから。

水はどんなに背伸びしても他の液体にはなれない。

水銀にもガソリンにもなれない。

「なんで水銀じゃないんだ?水銀になれないお前(水)は頑張ってない!!」

「ガソリンになれないなんていうのは、気持ちが弱いからだ。恥ずかしくないのか?!」

って言われても

「ごめんなさいね。でも、私は水なので、水でしかないんですよ」

と言って、ただそう在ることしかできないことを恥じる必要はないし、できないことは、できないと言ってもいい。いや、むしろできないと言わないと相手が見誤ってしまいます。

私はアルコール依存症であり、そういう「私」でしかない。

その事実を恥じて隠してしまったら、他人は私に「できないこと」を求めてしまうし、できると勘違いしてしまいます。

だから、私はこれからも、「アルコール依存症のちあきさん」として生きます。

そうでしかないのだから。

早朝に増水した川を愛犬と眺めていて、そんなことを考えていた、という話をした久々の断酒例会でございました。

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