依存症の問題は、背後にある「生きづらさ」が本質だと思う。
その問題を直視せず、問題行動だけを抑え込もうとしても、失敗するし意味がない。
ゲームを取り上げる親の心理
たとえば、ゲーム依存の傾向がある子どもから、無理やりゲームを取り上げようとする親がいるとする。
「やめろ」と言っても効かないので、ルールが守れないので、ゲームを取り上げる。
でも結局はルールを守る必要がなくなった(親の目が届かなくなった)ときに、問題のある使用をしてしまう。背後にある生きづらさが解決していない限り、根本的には変わらない。
私がそうだった。小学校から禁止されて、大学で今までため込んだフラストレーションが爆発して思いっきりのめり込んだ。
ネットやスマホを解約する、等のもその類い。意味がない。一時的にできなくはなるかもしれないが、やる方法はいくらでもある。
お小遣いをためて、あるいは親の財布から金を盗んで中古端末を入手したり、無料Wifiを求めて深夜徘徊をしたり、「ゲームやる?」と声をかける知らない人についていってしまったり。
むしろそういうより子どもを危険な場面に遭遇させかねない行動に繋げる。
そういった逆効果を生む可能性があるにもかかわらず、なぜ強権的に子どもの行動をコントロールしようとしてしまうのだろうか。
それは親が抱える、「不安」と「恐れ」が根底にあるように思う。
「我が子がまともな社会人になれなかったらどうしよう」
一見、我が子の未来を案じている台詞のように見える。そして、思っている親本人も「子どもの為」だと信じて疑わない。
しかし、裏の裏までよく覗き込んでみると、実際は「自分の為」であることがわかる。
世間の目を気にしている、自分の為に、迷惑な行動をしてほしくない。
我が子がまともな社会人になれないことで、
「親として子育てが間違っていると言われたら」どうしよう。
「ひきこもりや不登校になって、世間から色眼鏡で見られたら」どうしよう。
私の世間的な評価が傷つくではないか、という「どうしよう」。
自分が困るから、自分の体裁のために、やめてほしいと思い、取り上げようとしてはいないだろうか。
子どもをコントロールすることに依存している。自分の自己肯定感を支えるために、子どもに依存し、子どもの人生に過干渉してしまってはいないだろうか。
親に過干渉された子供の末路
我が子であったとしてもコントロールすることは本来できないし、本人のことは本人に責任と権限がある。その権限を冒してはいけない。
なぜなら、選択した行動の結果を経験することで、子どもは大人になっていくからだ。
親が転ばぬ先の杖ばかり用意して、その過程をゴッソリ盗んでしまうと、「グライダー型人間」になる。
「グライダー型人間」とは、『思考の整理学』において外山先生が定義した、自分で考えられない人間のこと。
親が全部おぜん立てをして、正しさを押し付けて言うことを聞かせて、親が思う正しいレールの上を歩かせたとしよう。
その子は、こう思うだろう。
「自分の意思なんて持っても疲れるだけだ。結局は、親や先生の言いなりにするしかない。ならば、感情など持たないほうがいい。自分の意見も、持たないほうがいい。言われることに従っていさえすれば、叱られもしないし、問題は起こらないんだから。」
自分の感情と意思をもつことを放棄するようになる。
そうなると、自分が好きなもの、自分がやりたいこと、自分がほしいもの、が何なのかわからなくなる。
自分の意思がわからないので、他の人が好きなもの、やりたいこと、ほしいものが、自分が欲しいものなのだと思って追いかける。でも、手に入れても、満たされない。本当に望んでいるものではないからだ。でも自分ではもう望んでいるものがわからない。
いくら頑張って何かを手に入れても、どれだけ他人より相対的に恵まれていると言われても、心は一向に満たされないので、日に日にストレスが溜まる。
そして、ネット上で気に入らない人を正論で殴ったり、誰かを虐めたりして、憂さを晴らすようになる。進学校ほど陰湿ないじめが横行する理由は、こういうストレスが強い子どもたちの「生きづらさ」のはけ口として、特定の誰かが生贄になることでなんとか日々を生き抜いているからではないだろうか。
私をいじめてきた「いじめっ子」たちも、そういう目に見えない苦しみを背負っていたのかもしれない。そう思うとやるせない。虐められるほうは、たまったものではない。
はたして、親の正しさによる圧政は、本当に子供のためになっているだろうか?という話。
「まともな社会人」とはなんだろう?
立派な「思考停止のグライダー型人間」に仕立て上げることだろうか。
おそらく、親のほとんどがそんなことを我が子に望んではいないと思う。
自分の頭で考え自分で決めた、自分なりの人生を堂々と歩んでいってほしい。
そう思っているのではないだろうか。
それが「まともな社会人」ではないだろうか。
そうなるための行動だろうか。ゲームを無理やり取り上げる、ということは。
受験を控えているのに、受験勉強をしない我が子をみて、自分が不安なだけ。
自分の不安を取り除きたいだけ。
だから「ゲームばっかりしていないで勉強しなさい」という。
私たち親の世代までは、勉強して良い大学にいて良い就職先に新卒入社する、というのが人生においての成功モデルだったかもしれない。
そのレールに乗せないといけない、という親に育てられてきた世代だ。
しかし、自分の人生を振り返ってみてほしい。今の現状を見てほしい。
それは本当に成功モデルだっただろうか。
今や終身雇用制度は崩壊した。
良い会社に入っても、安泰ではない。
良い大学に行っても、就職先がない。
受験勉強という「暗記ゲーム」だけに特化して強制的にやらされた結果、グライダー型人間として心と感性は死に、体だけ立派に成長していく。
面白味のかけらもない無個性な大人になって、指示待ち・ゴマすり・忖度で自分を偽りながら生き抜こうとするが、自分で考え自分で行動を選択する訓練をしてこなかったので、苦境に立たされてまごつく。
これが、誰もが望む成功モデルといえるだろうか。
本当に、大人たちが提唱してきた「まともな社会人になる」ためのメソッドは、現実に役に立つものだっただろうか。
私はそうではないと思う。
親ができることは見守ることだけ
その子の人生は、その子のものだ。
親のおもちゃではない。親が変えられるものでもない。
失敗も成功も、その子が味わう権利と義務がある。
この子がゲームにそこまで入れ込むのは、なぜだろうか。
この子が好きなゲームの世界とは、どんなものだろうか。
その世界の何が好きで、何が現実より魅力的なのだろうか。
この子は、何を求めているのだろうか。
それを知らないで、その子にとって正しい道など、誰が主張できるだろうか。
正しい道など無い。
正しいことなど、この世にはないからだ。
その人にとっては正しい、というだけ。
それは親も同じ。親である我々が正しいと思い込んでいることと、その子にとっての正しいことは違うかもしれない。
それを同一化して強制的に同じにしようとするのは、ある種人権侵害であり、虐待だと私は思う。
我々親にできることは、その子の声を聞き、その子の価値観を認め、そっと背中を支えることだけ。
きっと自分の足で歩いていけると信頼して、後ろから見守ることだけ。
そもそも、我が子であろうと別個の独立した他人。
他人をコントロールすることはできない。「変えられないもの」だ。
きっと自分の失敗から何かを学び、人生に活かして生きていく力を持っている。自分の命を分け与えた存在なら、きっとそれができる。
そう信じられないとしたら、病んでいるのは親のほう。
自分を信じられないから、我が子も信じられない。
自分の生きる力を信じられないから、同じように我が子の生きる力を信じてあげられない。
その「不信の呪い」を引き継がないことが、最良の子育てだといえるのではないだろうか。