私には反省すべき点がたくさんある。
特に人間関係の構築はとても不得手で、他人とのかかわりをストレスに感じることが多い。
それはなぜなのか。
なぜなら、私が高慢で狭量だからである。
妻を見ているとよくそう思う。
妻は「私は知らないことばかりだから」と口癖のように言う。
「知らない」ということを知っている。哲学の父ソクラテスの無知の知である。
教えてくれること、その主体である他人という存在に素直に感謝できる。それは実はとても難しいことだと私は思う。
そして他人を簡単にジャッジしない。
「あの人は○○だから○○」と簡単にレッテルを貼らない。
「この人には私が知らない面がたくさんある」と思いながら、他人の在り方をそのまま受け容れたうえで接する。
だから他人は否定されていると感じないで快く接することができる。ジャッジされる緊張感で在り方を偽る必要がない。だから、一緒にいて居心地が良いと感じる。
友人が多い人というのは、こういうフラットな在り方が自然に行える人なんじゃないかと思う。そして、出会った人を「友か友でないか」と線引きしないので、ほとんどが「友人」という定義に合致する。だから必然的に「友人」と認識する人数は多くなる。そう思われている相手もそう認識する。友人関係というのは相互認識で、明確な定義などないため、「友人と思っているかどうか」という認識がすべて。
私はどうかと言えば、残念なことに真逆をいっている。
「友人が少ない」という認識は、自分が他人のことを拒否しているからだ。友人だと思っていないなら、その数は少なくなるのも当たり前。
なぜ他人のことを拒否するかと言えば「わかったつもり」になって自ら遠ざけるから。
「あの人は○○だから○○」と簡単にレッテルを貼る。そして関係を継続する価値がないと判断する。そして関係を断つ。浅い関係でそれなりに対応する。相手もそれを感じて、距離を取る。だから周りに誰もいなくなる。
なぜ他人を早期に判断するのかといえば、自分がその人のことをまだほんの一部しか知らない、ということを認識していないから。
もっと言えば、自分が知っていることなどほんの一部であることを、心から認めていないから。
私は他人よりもよく物事をよく見聞きし分かり「正しい判断ができる」と思いあがっているからだ。
実に乏しい人間である。
私のように高慢で不遜な人は、他人にどれだけ助けられて今があるのかを忘れている。
顔も見たことがない、声も聞いたことがない、この世に生きるいろいろな人がいて、私は今の生活を送れている。
確かに悪意にさらされて傷ついた経験は今でも心にずっしりと残っている。
しかしながら、そんな人々もまた誰かの大事な人であり、何か世界に影響を与えていたと考えると、巡り巡って私を支えていた可能性がある。
悪意をもって私に接した背景には、彼らなりの苦しみと生きづらさがあり、表出した一部を私が体験しただけかもしれない。
簡単に、表出した一部だけを切り取って、その人そのものを語ることはできない。
過去の悪事を切り取って、その人の人生をすべて否定することはできないように。
そう考えると、たまたまその瞬間においては「私」と「その人」は良い関係ではなかった、というだけである。それを一般化して「他人なんてくだらない」と断ずるのは短絡的だ。論理的に飛躍しすぎている。
なぜ短絡的にレッテルを貼ろうとするかというと、これ以上傷つくのを恐れているからだ。同じような経験をして痛みを感じるのを恐れて、カテゴライズし予測可能性を見出したくなる。予測可能性があれば、投資可能性があり、自分の行動で結果をコントロールできると思い込める。実際には世界のほとんどの事象において、コントロールすることなどできないのに。
恐れによる認知の歪みはこうして起こる。
人と人の関係というのは、すべてがオーダーメイドなのである。
あるカテゴリ、あるレッテルをもとに語り始めた途端、その人そのものから遠ざかっていく。
そしてほんの一部だけかじって、終わりにする。
それはとてももったいないし、第一つまらない。
私の人生がつまらなかったのは、私がつまらなくしていたから、という事実を認めなければならない。
妻は友人に囲まれ私よりはるかに楽しそうに生きている。ように私には見える。
実際楽しいからまだ死にたくない、と言っている。
私はと言えば、死にたいと思っていることが人生の時間の大部分を占めてきた。終了させてもらえるなら今すぐにでも終了させてほしい、そう願いながら生きていた。
この違いである。
「アディクション(依存)の反対は、コネクション(繋がり)」という依存症の世界では有名な言葉があるが、まさにその通りである。
人との繋がりを自分からつまらなくした、あるいは過去の経験によってつまらないと思うことで自分を守った結果、それ以外のものに依存しなくては、立っていられなかった。命を継続することが困難だった。
それが、依存症になる人が抱えている、生き方の根本的な機能不全のひとつだと思う。
では、この場合、生き方の機能不全をどう対処していけばよいのだろうか。
「変えられるもの」は他人ではなく自分の在り方なので、恐れに向き合い、恐れを受け容れ、傲慢と偏見を一度捨てて、他人との関わりに挑戦することが大事だ。
挑戦できるようになるまで、恐れについて徹底的に棚卸をする。安心安全な場所(自助グループ)にアウトプットして、供養する。自己憐憫に陶酔する時期もあるだろうが、飽きるまで徹底的に吐き出す。
もう言っているのが馬鹿らしくなるくらい話しつくすと「まぁいつまでも言ってても仕方ないし、これからどうしようか」と思えてくる。そう思えるまでの時間は人それぞれだが、それは短いからよいとか長いからダメとか、そういうものではない。それはジャッジだ。その人には、それだけの時間が必要だった、ただそれだけ。
そこからはじめて、ひとは前に進める。そして、前に進むことができるのは、自分で進みたいと思った時だけだ。
ニーバーの祈りにある「変えられるものは変えていく勇気」が己の心に降りてくる瞬間。
その瞬間から世界の色が変わっていくのだろう。他人という脅威が恩恵に感じる世界へ足を踏み入れるのだろう。
このような認知の転換は、奇跡であり、どんな経済価値にも代えがたい、宝である。
損得やコスパを超えた人間として生きる面白みがここにある。
だから、何度でも生き直せるし、ひとは輝く。