Having had a spiritual awakening as the result of these steps, we tried to carry this message to others who still suffer, and to practice these principles in all our affairs.
これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め、このメッセージを他の人たちに伝え、そして私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した。
最近、私はどこに向かっていけばいいのだろうか?と悩むことが多くなっていた。
他人には他人の価値観がある。
届かなくて当たり前で、届くかどうかコントロールしようとしてはいけない。
「他人のためにという起点ではダメだ、だから自分のためであることを忘れないように、物事に取り組まないと」
そう思えば思うほど、それは本当に私が向かいたい方向なのか?と首を傾げることが増えた。
自分のためばかりでは、利己主義である。
己のことばかりで生きている人生は虚しい。
己の欲を満たすためだけに、他人を蹴落としたり陥れたり、他人を警戒したり、そんなことは疲れるからしたくない。
そこまでして満たしたいほど、私の欲は深くはない。
かといって、「他人のために」というばかりでは、ただの共依存である。
共依存的な関わりは、双方病んでいく。
他人の為と言いながら自分の為であり、他人の為にただただ浪費され搾取される存在として自己犠牲を厭わないのは、美しいように見えて、自分を供物にして愛してほしいだけの、自分を卑下する生き方だ。自分に対しても、他人に対しても、失礼である。
つまり、どちらのためでも、よくない。
どちらかが正しいのではない。極に振っては、よくない。
中庸、バランスが大切である、という考えに行きついた。
自分以外の誰かに、自分と同じ程度の愛を運ぶことが、さらに自分と世界を美しくする法則なんじゃないかと思う。
第一に自分のためであり、他人のためになると己が信じ抜ける行動をすること。
それが最も虚無から遠い行い、生き様の具体的な姿ではないだろうか。
私は、虚無がすこぶる嫌いだ。
身体的には虐待らしい虐待もなく、雨風を凌げる家があり、飢えることもなく、教育を受けさせてもらえた私は、「恵まれている」と評価されることがほとんどで、ややもすると「温室育ち」などと揶揄されてきた。
しかし実際に生きてきた当人としては、生きている実感もないまま社会的正義に説き伏せられて言われたことをこなすばかりで、幸せかと問われれば、幸せとは言い難かった。
何をしても、どこにいても、誰といても、虚しい。
喜びや高揚感は何も感じない。
感じるのは不安と焦燥と怒り。
ちゃんとやらなくては。
上手にしなくては。
早くやらなくては。
人より優れた結果を出さなくては。
馬鹿にされないよう賢く立ち回らなくては。
何故こんなに大変なんだ、何故大変なのにつまらないんだ?
早く終わってしまえ、こんな徒労の日々…。
そんな思いで充満してすこぶる不愉快なわりに、芯には何もない世界。
果たして、そこで命を保証されていて、人は幸せだろうか?
他人から「幸せじゃん」「良い御両親だね」「恵まれてる」と言われるたび、絶望した。
これが幸せ?これが幸せとやらの上限なのか?
それならば、さながらこの世は地獄だ。これよりもっと下があるのか…。いや、むしろここから下しかないのか。
最悪だ。生きていくことというのは、何と辛い作業なのだろう。
みんな、何のためにこんな虚しい世界で生きるんだ?
何がしたくて、みんなこんな地獄を耐えて生きていきたいと思えるのだろう?
もしかしてそれだけの何かがあるのに俺がまだ知らないだけ?
とにかく理解しがたかった。
いま振り返れば、彼らは私の当時の生活水準だけを自分のそれと比較して話をしていたから、ズレていたのだと思う。
外から見た幸せと、その人の幸せは、必ずしも一致しない。
貧しくとも幸せが詰まった家庭があれば、豪華絢爛でも幸せが空っぽの家庭もある。
結果を出して優れた人物として人に認められる、ということは嬉しい。
しかし、この承認欲求というのは、インスタントな娯楽で目的ではない。人生においては副次的なお楽しみ要素である。
人生の価値は自分でしか測れない。
結局、承認欲求を満たすための行動というのは、他人の物差しで評価してもらって、己の価値を別の角度から確認するという作業に過ぎない。
他人の価値観の物差しでいくら幸せだと証明してもらおうとも、自分の価値観の物差しでなくては、本当のところは測れない。
自分の物差しを信じていないから、他人の物差しのほうが正確に測れるような気がしているけれど、それは自分の物差し(価値観)を蔑ろにしていることに他ならない。
最も正確な物差しは、主人公が私であるこの物語においては、私の物差しである。
完璧主義、成果主義、評価主義、承認欲求の囚われから抜け切れていないとその副次的なお楽しみ要素を人生の本質ととらえてしまい、目的を見誤る。
そして、振り返ってみると、自分にはコントロールできないもの(他人の価値観)をコントロールしようとして、徒労に終わっただけだったと気づく。最も見るべきものを見ずに右往左往して結局この場から少しも動いていなかったことに、人生が終わる間際に悟る。
そうして、結果的に人生が虚しいものに終わる。
では、何を道しるべにすべきなのだろうか?
信じる。自分の想いや願いが繋がることを。
今このとき、私が生きているうちに理解されなくとも、私が真剣に考えて良かれと思い、相手を尊重した上で差し出した愛は、いつか誰かに届くことを信じる。
この「信じる」ことこそが、結局最も私という世界で確かなことなのだ。
いつか誰かに届くなら、いくら現世で拒絶されていようと必ず届くわけで、やればやるだけ私は満たされていく。
経験した悲しみや苦しみの記憶は、繰り返さぬように同じように苦しんでいる他人に話し伝えることで、喜びや優しさに反転する。
負けた分だけ、苦しんだ分だけ、大切な人に届けられるギフトが増える。それは自分にとってのギフトにもなる。なんと素晴らしいことだろうか。私が虚しさと戦いながら這いずるように過ごした日々は、無駄ではなかったということになる。
だから「この世には無駄など一つもない」という言葉があるのだ。
喜びだけでなく、悲しみや苦しみや憎しみすら、ひとつひとつが愛すべき繋がりであり、己が血肉となって今がある。それは素直に謙虚に届けたい人に開示する限り、宝物として輝く。
まず第一に、自分の価値観を信じ、己の尊厳と己の信念を、最も大切なものと位置付けること。
その前提の元に、常に相手も私と同じ尊い存在として認識し、違いを尊重し在り方を考慮し続けること。
自分の目を覆いたくなるような悲しみや弱さや惨めな経験を受け容れて伝えることにより、他人に安心と勇気を届けたいと願い、行動し続けること。
これこそが、私が在りたい姿だったのだ、とわかった。
ここにきて、私はひとつ答えを得た。
これがステップ12の意味なのかな、と思う。
12ステッププログラムのステップ12を踏むということは、よくネットにあふれている回復者(自称)のように、教える立場に立つことで他の当事者に対してマウントを取ることではない。己の回復度合いをひけらかして承認欲求を満たすことでもない。
そんなつまらないことのために、12ステッププログラムがあるはずがない。
常に己の生活に12ステッププログラムの考え方を内包して、当事者であり続け、当事者としての自分を素直に謙虚に見つめ続ける土台がある人が、自分が今まで得てきた経験知という果実を仲間に惜しみなく与え、己の目を覆いたくなるような経験を率直に吐露することで自分も仲間も与えられ、救われるさまをステップ12は描いているのだと思う。