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【AC】「他人からどう見えるか」というのは 実は「あなたの幸せ」には全く関係ない

私は、身長170cm・体重92kg・体脂肪率19% だ。

数字でみて、あなたはどう思うだろうか。

太っている、と思うひともいるだろうし、デカい、と思うひともいるだろう。

私の身体を数値的に表した事実から、人が想像するものは異なる。

その違いは、いったいどこからくるのだろうか?

 

ひとは見たいものしか見ない

太っている、と思った人は、体重をみたのかもしれない。

「いかに低い体重を実現するか」を重視している人にとって、92kgは「重い」と感じるので、そこから連想されるのは「太った身体」というイメージなのかもしれない。

または、体脂肪率をみたのかもしれない。

「10%未満でないと痩せているとは言えない」などと思っている人にとって、男性で19%というのは「痩せている」と表現するには許せない数字なのかもしれない。

デカい、と思った人はどうだろうか。

おそらく瘦せ型の身体を鍛えていて、筋肉をデカくしてパワフルな身体になりたい、と思っているのかもしれない。なかなか体重を増量できない人にとって、食べて動いて筋肉の重量をあげることは大変なことだから、羨ましさを感じるかもしれない。

 

ここまで読んでみると、見え方の基準には必ず、自分の願望や価値観が隠れている。

「こうでありたい」「こうであるべき」という自分の感覚で、数字という情報から、知らず知らずのうちに好きなようにひろってきて勝手に判断している。

つまり、他人のことをあれやこれやと言うとき、ひとは自分のことを見て話しているのである。

 

だから他人の評価は「サンプルその①としての価値」はあるかもしれないが「絶対的に正しい価値」ではない。

客観的だからといって、すべてが正しいかと言えば、それは違う。

客観的にみる、といっても、人それぞれに客観的な見方は異なるからだ。

先に申し上げた通り、人は自分の見たいように物事をみているので、必ず自分の願望が入る。客観的と言いつつ、常に一部主観的であることから逃れることはできない。

つまり、完璧な客観性など存在しない。

たとえば空を見てAさんが「青いね」と言っていてBさんが「そうだね、青いね」と言っていたとしても、全く同じ「青色」に見えているかどうか、正確にはわからない。微妙に彩度や濃淡は違って見えていてもおかしくない。しかしその同一性は検証しようがない。

だから、私とは違う個体が同じ事象をどのように見るのか?という一応の参考にはなるけれど「他人が見て言っているのだから(客観なのだから)主観よりも真実に近い」というのはおかしい考え方で、他人の視点というのは常に「自分が見る世界と同じ程度の価値をもつ、似ているけれど少し違う別の世界観」というだけなのである。

 

だから、私は「太っている」と言われようが、「デカいね」と言われようが、「意見を述べてくれてありがとう。そうか、あなたのなかではそうなんだね」としか思わない。

そうでしかなく、それでよい。

 

アイ・フィール・プリティ!

『アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング (字幕版)』

という映画がある。

私はとてもこの作品が好きだ。

 

 

【あらすじ】

自分の容姿にコンプレックスがあり、仕事も恋も積極的になれないレネー(エイミー・シューマー)。ある日、自分を変えようと通いはじめたジムでハプニングに見舞われ、頭を打って気を失ってしまう。そして目覚めると、絶世の美女に変身していたのだ(とただの勘違い)!見た目はそのまま、超絶ポジティブな性格に生まれ変わったことでレネーは自信に満ち溢れ、仕事も恋愛もすべてが絶好調になるが…!?

 

主人公は、客観的には何にも外見が変わっていない。

自分自身を「魅力的だ」と思うか「ブスだ」と思うかは自分で選べる、生き方は選べる、というメッセ―ジをコミカルに描いている。

この映画のスト―リー展開を観るたびに、女性だけでなく、人は皆そうなんじゃないかと思う。

 

結局のところ「自分がどう思うか」がすべてを決める

私はトレーニングをしている。

なぜトレーニングをしているかというと、楽しいからだ。

先週よりも1回多くMAX重量を扱えたとか、少しずつ筋繊維が太く大きくなっている変化を感じるとか。

この栄養を摂ってこの運動をすると〇週後こういう変化がある、という理論上の身体的変化を、仮設通りに自分の身体で再現できたときとか。

いわゆる「楽しい遊び」としてやっていて、前の自分と比べた変化が面白いから、やっている。

他人よりも優れた身体になるため、つまり比較の為ではない。今更異性にモテたいわけでもない。痩せたと他人に言われたいからでもない。

自分が「目指す良い体に少し近づいたな」と思えたなら、それは楽しい。

 

人生やメンタルでも同じことがいえると思う。

他人と比べても、キリがない。

もって生まれたポテンシャルも文化も、何もかも初期設定が違う者同士、異なる価値観を包摂しながら社会を構築して生きていかなくてはならない、この浮世だ。

他人と比べること自体が、ナンセンスなのである。

能力を競うこの世のあらゆる競争はすべて「遊び」であって、それで勝っても負けてもその人そのものの価値に何の傷もつけない。

オリンピックに出ようが、世界一になろうが、それはたまたまそういう結果が一つの比較で生まれただけであり、その人の価値がどうこうするものではない。

「競争」を「遊び」として楽しむ範囲において人生は健全だが、それに囚われると、途端に不健全になっていく。

他人に一部の能力で劣る自分を「生きている価値が無い」とまで思い詰め蔑み粗末に扱ったり、一部の能力で優れているからといって増長して他人よりも自分のほうが価値があると思い込んで傲慢になったりする。

それは自分で自分の存在価値を認識しづらいから、「競争」という場で優劣をつけることで「自分の立ち位置」を確かめないと不安なのだ。低いのか高いのか、どちらでもいいから自分のポジションを決めたくて、人は卑屈になったり不遜になったりしている。実にばかばかしい。

仕事にハマる人、特に大きな組織に属しているワーカーホリックはだいたいこれ。

不安を抱えているから、ポジション取りに必死になる。

成績で横並びに優劣をつけられ、その競争のなかで褒めてもらうことを生きがいにしている。

それを人生のなかのサブゲーム的な位置づけで遊びとして楽しむなら別にいいのだが、「人間としての価値を決めるゲーム」だと思っていることが多いのが、このタイプの辛いところで、負けたら死ぬしかない、死んでも仕方ないと思っている。

パワーゲームで人を殺し、人に殺される。それがワーカーホリックの世界だ。

とんでもない!遊びで殺されてたまるか!!

しんどかったらゲームから降りてもいいし、楽しくなかったら別のゲームに移行していいのだ。

だって、ただの遊びなんだから。

 

しかし、今この社会を構築しているいわゆるエリートと呼ばれる人々が、だいたいこんな調子で病んでいる。なので、本当に人が死ぬ羽目になっている。それがこの日本社会である。

出世のためにポジション取りに忙しい人々が本当に必要な仕事をしないせいで、人が今どんどん死んでいる。コロナショックはウイルスによる自然災害というより、行政官僚制のなかで腐っていった人間による人災だ。

相当終わっていると思う。

 

まとめ:少なくとも忘れないでほしいこと

それは、

「あなたの幸せは、あなたが定義するものだ」ということだ。

 

誰かのお仕着せの「幸せはこれだよ」というのを真に受けて、信じないこと。

 

大企業で安定した暮らしをするのが幸せらしいから、いい学校に行っていい会社に就職する。

結婚したほうが幸せらしいから、結婚する。

子どもは2人以上いたほうがいいらしいから、子供をもうひとり産む。

 

そういう他人の幸せをなぞったところで、あなたは幸せにならない。

「他人からどう見えるか」というのは 実は「あなたの幸せ」には全く関係ない。

「他人からどう見えるか」ということばかり追いかけていると、自分がどう思い、どう考え、何を幸せと感じるのか、何もわからなくなってしまうよ?

私みたいに。

 

今ここから、他人は自分のするすべてのことや今の自分すべてを肯定してくれると仮定して考えてみよう。

あなたは、何がしたいのか? あなたが心の底から楽しいと思うことは何なのか?

他人を関係なしに思い描いたとき、あなたはどんなふうになりたいのか?

それこそがあなたの幸せである。

 

 

【AC】他人を頼れないあなたの「自己責任論」には感謝に対する「恐れ」が隠れている

「ひとりで生きてるような顔しちゃってさ」

2年前義母にそう言われたとき、私は「はぁ?」と青筋を立てた。

 

義母に対して感じた蔑み

第1子の産後、手伝いのために義母が私たち夫婦の家に来て、生後間もない長女の子育てを手伝ってくれていたのだが、私は当時とにかく義母が気に食わなかった。

何で気に食わなかったのか?

それは彼女を心の底ではバカにしていたからだ。

ろくな企業に就職した経験も、ましてや成功した経験もない。子育て中に夫婦生活に耐えかねて3人目の子どもである妻が当時まだ小学生にもかかわらず蒸発して逃げた。今まで最も時間を費やしてきたであろう料理すら、大しておいしくない。

それら全てにおいて、私のほうが現時点で上である、という自信があった。

自分は基本的に能力がなかったけれど、それを努力で埋めて何とか生きてきた自負があった。

だから、冒頭の言葉を言われたとき「それはてめぇがしょぼくて、その上頑張りが全く足りてねぇからだろ?自分の無能さを棚に上げて偉そうに何言ってんだボケ」と思った。

そんな無能なやつに助けなんて借りなくてもやれるのに。

こんなやつに助けを借りないと子供を育てていけないなんて。

だから感じたのは感謝ではなく屈辱だった。

とてつもなく心根が腐った娘婿。

それが私だった。

 

当時、私は独りで生きてきたつもりだった。

親は精神的支えとしては頼りにならなかった。それどころか、過干渉で侵食してきて逆に人生を邪魔をしてくる存在だった。

クソ田舎でいじめられて辛い思いをした。大しておもしろくもない小さい世界で生きているくそみたいな田舎者に囲まれて暮らしていたのに、何とか抜け出して努力して努力して努力して努力して、なんとか形にしたのだ、と思ってきた。

決して環境は恵まれていないという自覚があった。

そのなかで自分の努力で這い上がってきたと思っていた。

それなのに、特に頑張りもしていない下等なやつが、独りで生きているような顔をしている、と私を下にみるのは許せなかった。

そりゃてめーが無能なのに努力しねーのが悪いんだろうが。ふざけんな。俺は頼れる人間なんていなかったし、独りで生きてこなきゃいけなかったんだよ。お前みたいにしんどかったら逃げたりするような、クズじゃないから大変だったんだよ。ぬるま湯のなかで他人に迷惑をかけて生きてきたくせに偉そうに。用が済んだら大して役に立ってねーんだからさっさと巣に帰れよ。

と思っていた。

だいぶやばいな、書いてて引くわマジ。

つまり、私は共同体に対する感謝なんぞは全くなくて、むしろ憎しみと恨みがあった。

他人はすべて敵だった。自分を否定してきた敵だと思っていた。

 

ちなみに、私の両親もそのようなルサンチマンを抱えていたように思う。

だから子供に「社会的成功」を求めた。あの、私たちを虐げてきたあいつらを見返そう、という競争に勝ち抜く生き直しを子供に求めたと言える。

我が子が親元を離れても独りで強く生きていけるように。

そんなきれいな言葉の裏には、社会に対する憎しみと恐れが隠れている。

自分たちが優秀であること、それを裏付ける実証的結果を子供の社会的な成功に求めるという「人生の押し付け」が、機能不全家庭では行われる。

 

感謝は、屈辱であり隷属宣言?

私は「感謝」は「隷属」の宣言だと同じだと思って恐れていた。簡単に感謝することなどできなかった。

親との関係がそうだったからだろう。

「親を頼る」というのは、親の過干渉の支配下に甘んじる状況を許容することを意味したからだ。

屈辱的だった。感謝するときは負けたと思ってた。

成功は自分のおかげ、失敗は自分の努力不足。

そうやって自己責任論に終始していれば、「親に飼われているという屈辱」は少なくとも避けられる。

だからより、他人に感謝したり頼ったりすることを忌避していったといえる。

 

そうやって凝り固まっていく「自分は自分でコントロールできる」という思い込み。

それは恐れから来ている。

権威ある存在に対する恐れ。コントロールされる恐れ。

親のように、社会にそうされてきたように、「お前の想いなんて知るか、私たちが思うように動け」と強制されるのではないか。

安心感が無い環境で生きてきたことが、他人に伸ばす手を引っ込めさせる。

 

「無力」という弱さを認める

コントロールに対する恐れ。その劣等感から立脚される自己責任論。

それは「弱さ」そのものだ。

今この日本の社会で成功している人って、実はそういう弱い人が多いんじゃないだろうか。

そしてその弱さに自覚がないからこそ更なる社会的成功を求める。

自己肯定するような大義名分を周囲にも求めるので、認知の歪みをそのまま社会構造に反映させて、システム的に他人にも強いる。

それが日本の貧弱な現代社会の在り方ではないか。

自己責任論はつまり「なんでお前は俺のように強く生きられないの?」という意味なのだが、自己責任論はある種の「弱さ」からくる弱者の処世術だとは気づいていないから、そんな言葉が口から出る。

特に1960年代(2021年現在で50代)の世代などは特に濃い。日本の高度成長期の下克上的歴史的背景のなかで生きてきたので、共同体(関係性や恩)を切り捨てて全部自分でやってきたという自負がある。だから無意識に同じ苦しみを味わうのが当然だと思いこみやすい。

だから論理的に効率的に、共同体の機能的向上や快適さの追求を下の世代が訴えると、「甘え」だと思い批判的な態度を取りがちだ。

たとえば、今あるプラットフォームに乗っかって何かしようとすることを不自然に嫌う。

一から何か作れよ、そしててめーの力見せろよ、とヤンキーが根性焼きを迫るようなパワハラをかましてくる。それは結局ただのマウンティングだけど、本人たちは良かれと思っている。タチが悪い。

この動画がとても勉強になった。

 

持たざる者として辛酸をなめてきた人々。社会を恨み構造改革してメガコンペティションのなかに人々をぶち込むという「自分が信じる正義」の実現を目指した人々。それがグローバリストの背景だと思うし、今偉い立場にいる人たちのメンタリティの基礎だと思う。

このメンタリティは「自分の人生をコントロールできる」という驕りの上に成り立っていて、結局は12ステップ・プログラムにおけるステップ1の「無力」を認めていない。

だから、認知の歪みを生じる。

自由競争のなかで、助けを借りず、生き抜く・勝ち抜く・自己成功することは「良いことだ」と思っているわけだが、そうではない。

なぜなら、人は誰であっても人である限り例外なく「無力」で、自分の人生すらコントロールできないからだ。

たまたま日本に産まれて、たまたま食うに困らない家に生まれて、たまたま学費が払える家に生まれて、たまたま他の人たちが立ち上げてくれた会社があったから就職先があって。

私はいろいろなものに支えられて今の状況を生きている。

それと同じように、今成功している人もまた、様々な共同体に無意識に所属していて、その「自分を超えた大きな力」に支えられて立っている、か弱い存在なのだ。

どんなに偉い人も、どんなにすごい人も、どんなに魅力がある人も、そうだ。

人は誰であっても人である限り例外なく「無力」で、自分の人生すらコントロールできない。

それを謙虚に認めたとき、景色は変わる。

この世にあるものは憎き敵ではなく、親愛なる友だったということだ。自分が敵だと思うから敵に仕立て上げていて、遠回りではあるが本当は全てのこの世のものが私を助けるものだったということに気づく。

 

無力を認めるステップ1を阻む「恐れ」を乗り越える

今までの文章を読んで冒頭の義母のセリフを読んでみると「ムカつくけどまあそうだよね」と思わないだろうか。私は思う。

当時、私には驕りがあった。だれにも頼らず独りで生きてきたという驕り。初期のステータスが大して恵まれてはいなかったのに、努力・自分の力で何とか生きてきたという驕り。

それは、恐れから目を背けるためだった。

恐ろしい他人を頼らなくては生きていけないような無力な自分を抱えて生きていかないといけないなんて、叫びだしたいほど怖い。

つまりそれほどの孤独のなかで生きてきたということで、それは意外と多くの人が抱えている心の穴なのではないだろうか。

頼れない。頼らないのではない、恐ろしくて頼れないのだ。

それは弱さに他ならない。でも弱さが悪いなんて言わない。みんな弱いのだ。私やあなただけが弱いわけでは無い。

弱い。それは変えられない。それでも頼れる勇気がある。それは強くあろうとする心。

勇気が持てないのもしかたない。心臓をえぐり取って差し出すようなことを、そうそうできるものではない。少なくとも私たちアダルトチルドレンにとって、依存症当事者にとっては、他人を頼るというのはそういう行為だったのだと受け容れよう。

何故、他人を頼ることができる人は、それができるのかといえば、安心感があるからだ。

頼ることを否定されなかった経験。皆に支えられて生きていて、それを交換条件に取引されるような環境ではなかった幸運。それらに恵まれているから、我々より勇気が比較的必要ないだけ。

つまり、その経験を私たちも積めばいい。そうすれば勇気が出せる。

それができるのが、自助グループという場所だ。

自分が思うことを話し、自分がしたいから協力する。

そういう共同体だからこそ、他人の好意を素直に受け取ることができる。

その経験を積み重ねて、勇気を出す練習をする。

それが、自助グループという守られた共同体で行える「尊いやり直し」だ。

 

今、社会で成功しているように見える・社会的成功に固執する人にこそ、12ステップ・プログラムと自助グループは、必要不可欠な処方だと思う。

だけど、それはあと20年後くらいの話だろう。

グローバリズムが終焉を迎えて、私たちが信じてきた自己責任論でどうにも首が回らなくなったとき。

私たちのなかで、最も尊いテックとして12ステップ・プログラムが注目され、自助グループという共同体の意味を知るのだと思う。

今はまだまだ残念だけど社会の壊れ方が足りないんだろう、これでも。充分やべーけど。

もっともっとどうしようもない地獄になって社会全体が「底付き」することが必要だ。

私はそのときのために、できる準備をしていきたい。

【AC】子供の頃の自分を癒すワーク(インナーチャイルドワーク)

インナーチャイルドワークというものがある。

方法は以下の通り。

 

1、落ち着ける静かな環境で椅子に座り、数回深呼吸しリラックスします。

2、自分の目の前に、こちらを向いて立っている56歳の小さな子供(自分の子供の頃の姿)をイメージします。

子供の頃の自分をリアルに思い出せなくても、なんとなくイメージすれば大丈夫です。

できれば何か嫌なことがあったのか、寂しそうにしているところをイメージします。

3、その子の気持ちを察してあげます。

あなたの目の前に立っているその子は、何か話をしていますか?

その子が何か話してきたら、しっかりと聞いてあげます。

何も言わなかったとしても、その子の気持ちを優しく受け入れてあげてください。

4、その子が癒されるように、その子がかけてほしいと思っているであろう言葉をかけてあげます。

例えば

〇〇ちゃん、あなたはそのままで価値があるよ

〇〇くん、あなたは~ても~てもそのままで価値があるよ

〇〇ちゃん、お母さんは、あなたのことが大好きよ

〇〇くん、あなたはお母さんにとって大切な存在だよ

こうした言葉をかけながら、小さな子供の自分を膝の上に乗せて抱きしめ、優しく背中や頭を撫でてあげます。実際に撫でる仕草をします。

5、もう一度、4と同じように言葉をかけます。

そして、あなたの言葉を聞いて、その子が嬉しそうな顔をしているところ(癒されているところ)をイメージします。

6、その子が喜んだり安心したりしているのを感じます。

喜んでいるその子供をゆっくりと自分の胸の中にいれ(その子と自分が一体となる感じ)、あたたかさや安心感、喜びの感覚が自分の体に広がっていくのを感じます。

ゆっくりと目を開けて終了です。

このワークは、15分から10分位でおこないます。

ワークのコツは、その子に何が起きたのか、何が原因だったのかを頭で分析しないようにすることです。

ただ自然にイメージがあらわれるに任せます。

自分の心の中で自然と起こる出来事を静かに観察するような気持ちで、リラックスした状態で行いましょう。

 

初期のインナーチャイルドの様子

ほんとこっちがいくら話しかけてもガン無視だった。

全然こっちを信用してくれずに土いじりして下向いてるイメージしか浮かばない。マジ心閉ざしとるなと思ったよ。

近寄ると離れるし、手を差し伸べるとペシってやられるし。

もう手の施しようがない‥だめだこりゃって思って愕然とした。

対話できてるっていう教えてくれた人、本当にすごいなと思った。私のインナーチャイルド、もう全身から負のオーラ出して全力でこっち拒否ってたもん。

幼稚園の制服を着ているから、幼稚園に行かなきゃ行けないけど、行きたくないんだろう、と思った。

 

「行きたくなかったら行かなくていいんだよ?あんなとこくだらねーんだから」

「別にさ、いい子にしなくていいんだよ」

というと、やっと顔を若干上げるんだけど、まだこちらの真意を探っている感じ。

 

当時の私は、本当は何がやりたかったのだろう?

 

「みんな嫌いだから行きたくない」

「全然楽しくない」

「そうかそうか、何ならしたい?」

「お話ししたい」

「もっとちゃんと聞いてよ。僕の話は、誰もいつも聞いてくれない」

「そっかそっか、それはつれーな」

 

「話したいこといつも途中で否定しないで」

「なんで最後まで聞いてくれないの?」

「僕が考えてることはダメなことなの?」

「いやいや、ダメじゃないよ。少なくとも俺はちゃんと聞くよ」

やっと立ち上がってこちらを睨みつけながら泣いている握り拳を握っている。枝を握っている。

「そう言って、いつも聞いてくれなかった。どいつもこいつも騙しやがって。信用できるもんか。そうやって聞くフリをしていつも答えは決まってる。それは聞いてないのと同じなんだよ!」

「わかるわ、それつらかったよね。それは話す気もなくなるよね」

「なくなるよ。もう諦めてたのに今更何しにきたんだよ。

「君の話を今度こそちゃんと聞きにきたんだよ」

「信じられるわけねーだろ、しね。ふざけんなよ」

「まぁ信じてもらえるまでいつまででも待つさ。話してくれてありがとうね」

キョトンとしている。

「めんどくさいって怒らないの?離れていかないね。不思議。あんたは俺に『なんでいい子にできないの』って怒らないのはなんで?」

「別に、いい子でなくてもいいからだよ。俺は模範解答じゃなくて、君の話を聞きたいと思ってここにいるからだよ」

「ふーーん、ま、今までのやつとはちょっと違うみたいだね。あんたは。」

「そう思ってもらえたら嬉しいけど、まぁ無理に話さなくてもいいさ、気が向いたら。いつでもそばにいるからさ。一心同体なんだし」

「そうなんだ、変なの」

ちょっと笑ってくれた。

 

最近のインナーチャイルドの様子

「本当は自分のなかでぐるぐる考えるのが好きなんだ。景色とか匂いとかいろんなことを感じて、頭のなかで空想するの楽しいんだ。

でも他の人といると、他の人が邪魔してくるんだ。

集中したいのにできなくてイライラしちゃうんだ。

だからひとりでぼーっとしてるのを怒られるのはすごく悲しかった。」

「めっちゃわかるわー。あるよねーそれ。」

「いやいやwおじさんはちゃんと大人なんだからそんなこと言ってちゃダメなんじゃないの?」

「んなことないよ、大人だって、1人になりたい時くらいあるんだよ。君のママや周りの大人はダメって言ったかもしれないけど、ダメじゃない、当たり前のことなんだよ」

「そうなの?お母さんは嘘つきだね」

「うん、あいつの言うことはマジで信じなくていいよ」

「ウケる!じゃあ感じたいものを感じて自分の過ごしたいように過ごしていいんだ?」

「うん、そうそう」

「それだったら、生きていくのも嫌じゃないかもしれないなー。おじさんありがとう」

「よかったよかった」

 

幼少期の私は本当に偉いと思う

私は本当によくここまで生き延びてきたと思う。

マジで暗黒でしかなかったのに、よく自殺しないで今まで我慢してきたよ。偉いよマジ。

だって、ほんときつかったもん。

例えば、近所のガキがサッカーしようて毎日くるのが死ぬほど嫌で、なんでお前らと玉蹴り遊びしなきゃならんのだ、俺はファミコンがしたいんだ、と常々思っていた。正直にそのことを言ったら誘われなくなった。(当たり前)

俺はそれで全く構わなかったし、面倒な誘いをしてくるうるせー奴らが消えてせいせいしていた。

しかし親が許してくれなかった。「友達になんてことを言うんだ、今から一緒に遊んできなさい」と外に叩き出された。

家にこっそり帰ろうとしたけど見張られていたので、渋々遊びに加えてもらおうとした。断られた。(そりゃそうだよなw)

そこで私は近所のガキにブチギレた。「こっちだってやりたくねーんだよ、でも家に帰れねーんだよ!付き合えクソ野郎!!」と泣きながら胸ぐらを掴んで入れてもらった記憶がある。相手も迷惑だったことだろう。

幼稚園もそう。一人で色水を作ったり、ナイフで極限まで木を削ったり、そういうことができればよく、わざわざ幼稚園というウジャウジャと人間がいる場所に通う意味がわからなかった。遊んでいるのにスペースが狭くなるし、他の遊びをしている連中に邪魔されるし、何だかちょっかいかけてくるような奴がいるし、地獄でしかなかった。早く帰りたかったし、一ミリも楽しくなかった。何でこんなことをしないといけないのか、最後まで謎のまま卒園した。

 

友達って何?って感じだった。

親が友達と遊んでいるところなんてほとんど見なかったし、本当に友達なのかなという距離感だった。

お互いにマウントを取り合ったりして、結局一人が寂しいから補完的に目的もなく群れているだけなんじゃね?っていうイメージだった。繋がりなどないもない。信頼関係も何もない。そんなのは私は欲しくなかった。

友達という概念そのものが歪んでいたと思う。

 

何だか、もうとにかく生きるのが面倒だった。

他の人間と絡まなくてはならないし、思ったことをいうと嫌われて不利益を被るし、こいつらより上じゃないと親が曇った表情をするし。

いっそのことこいつらが全員いなければいいのに‥と何度思ったことか。

それなのに、殺したりもせずなんとか上手く頑張ってきたと思わんか?マジでこんな無理して依存症になったり鬱になったり強迫性障害になったりしながら、人間をなんとか続けてきたことに心から敬意を表したいと思う、自分に。

 

もう我慢しないで自分を生きる

もうね、嫌われるときは嫌われるんよ。好かれる時は好かれるし。嫌われないために生きてるわけじゃないからね、こちとら。知らんし。

あーもう知らん。笑 って感じよ。

他人なんてものすごく色々な考え方で生きているしびっくりするくらい違うんよ。そして特に考え無しに生きている人間が結構多い。ふわふわとした「空気」とやらで平気で人間を攻撃したり信じたりする。

そんなボウフラみたいなのに嫌われたって、どーってことないと思わん?

もうね、いちいち気にしとってもしゃーないんよ。

私もつい最近まではねー、結構信じとった。

世の中にはすんげーイエスキリストやマザーテレサみたいな人徳者がゴロゴロおって、俺は矮小で浅学菲才な凡人なんだと。

でもそうそうおらんよ、そんなんは。結構みんな地味にすごい。そして地味にしょぼい。だいたい同じくらい。どんぐりの背比べ。

尊敬してるから見解を知りたくて色々質問したら迷惑そうに「なんでも答えがあるって思わないようにしましょうね」とかあしらわれてさ、「ああ、そんな風にしか異業種の新人の話を聞けないレベルの器の小ささなんだな‥」とガッカリしたり。

我こそは依存症者を導くぜ!みたいにオラついてる人も実際は共依存真っ只中だったり、依存症からの回復というフィールドでパワーゲーム繰り広げていたり。

効率的に世の中を良くするために手と手を取り合おう、っていうこと自体そんなにフラットにできる人いない。

みんな自分の功績にしたいという名誉欲があったり、自分がしてきた苦労をしないで楽してシステム化するようなのを妨害しようとしたり。その辺の有象無象と同じ穴の狢。

自分たちが持っている視点が正しいと思っている。

それってほんと私の親と同じ。そりゃ今までの自分に自負があるだろうし、自分の方がわかってる、やったことあるって思い込みやすいんだけど、その先入観を超えられないから、人の話のありがたみがわからないんだよね。

そして、そういうふうに見くびるから見くびられる。

因果応報。残念でした。

 

だからさー、特別に私の親がクソだったわけでもなく、だいたい人間てそんなもんだったんだなーということなんだよね。

特別親だけを恨む必要も要因もなかった。

最近は結構親のことは、憎くもないし気にもならなくなってきたのは、結構おどろき。

巨人に見えた両親は、よくいる小さい一個の人間だった。

小さい頃の私は欠陥品ではなく、尊重され大事にされるべき一個の人間だった。

ただそれだけのことに気づくのに、35年かかったのは、早いのか遅いのか。笑

でも、私の人生に最も良いタイミングだったのだろう。

 

インナーチャイルドワークを通じて実感したのは、親を特別視して恨まなくてもいいんだな、他人を必要以上に怖がらなくてもいいんだな、ということ。

そして、そのままの自分って割と悪くなかったんだな、というかめっちゃ偉いしすげーやつじゃん!という根本的な事実。

みんなも、一人一人がそうだと思う。

そして何より自分のために生きてほしいと思う。

【AC】「思考停止に陥る『自称』エリート」を社会心理学から考える

自称エリートだらけの職場で働いている。

確かに、一流大学を出て一流企業に勤めている。年収だって平均に比べてもらっているほうだろう。

しかし、その実態や現状認識は、実に shabby だ。気が狂ってしまったんじゃないかと思うくらい短絡的だったりする。

それでも自信満々を装っている。むしろ逆に見ていて面白い。こちらが赤面するほどショボい内容を誇らしげにプレゼンしてくれるのだから鑑賞しごたえがあるというものだ。

社内会議が昔からものすごく退屈で嫌いだったのだが、最近は一周回ってエンターテイメントだなと感じるようになってきた。全員がアホみたいな指示に振り回される姿は実にシニカルで情趣を感じる。

 

何も私もただただ傍観者を決め込んでいるわけではない。

営業戦略的にも社会貢献的にも意味がないことについては「意味がないからやらないほうがいい」と提案し、合わせて理由と代替案を論理的に説明する。それらは我ながらだいたいいつも正しい。しかし「大企業」の「エリート」と自称する彼らにとって、それは受け入れがたい内容のようだ。

一歩引いて彼らの言動を観察していると、だいたい社会心理学の用語でこの3つに該当する行動をよく選択している。

・認知的不協和

自分が信じてきた認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感のこと。この不快感を解消するために、矛盾する認知の定義を変更したり、過小評価したり、自身の態度や行動を変更すると考えられている。イソップ童話で、キツネが届かなくて手に入らないブドウを「酸っぱいに決まっている」と思い込んで諦めようとしたときの思考方法と同じ。

 

商売というのは、古今東西 信頼関係を丁寧に築くことが必要不可欠である。

営業を「自分の利益のために顧客にゴミを高値で売りつけて金をできるだけ多く巻き上げる仕事」と勘違いしているビジネスマンが多いが、実はそういう詐欺とは違う。

営業が、商材を「きっかけ」とした有形無形のサービスを顧客に価値を提供する、それがその先にある社会を豊かにする。

先にあるものが見えていないと、小銭をあさましく漁るハイエナと同じに見える。残念ながら同僚はほぼハイエナだ。全然信頼も尊敬もしていないくせにゴマをすり煽てて褒めそやして、金くれ金くれと群がっている。

今まで自分がそういう中身のある仕事をしてこなかったので、ハイエナのような振る舞いをしなくては売上は上がらないと思い込んでいるのだ。

だから私が社会貢献を前提とした提案を落ち着いて推奨しても、

「それは時間がかかりすぎるから今は無理だ」(じゃあいつならできんの?)

「我々営業(のような下賤のもの)をそんな風に顧客は見てくれないに決まっている」(そんなに情けない仕事しかやってないの?)

「そもそも社会貢献自体、机上の空論、ただの自己満足だ」(それを言うなら、あなたはむしろ詐欺のほうが儲かるし向いてるんじゃない?)

という風に認識を歪めたり自分や私を過小評価して、できるだけ見たくないものを見ないようにする。

大きい組織の末端の人間はだいたいそんなもん。

 

・認識共同体

同じような考え・現状認識・心の反射を持った集団。「朱に交われば赤くなる」「郷に入っては郷に従う」に示される通り共同体という組織内での『常識』を生成する。共通認識により集団生活が送りやすくなるというメリットの反面、自分たちと異なる考え方を受け容れられず、無視しよう、排除しようとする。すなわち思考が硬直化し無意識に偏るデメリットがある。

 

そういうハイエナ根性で生きてきた人ばかりが集まっているので、会社のなかでそれが当たり前になる。

 

本当はそんな卑屈なことはしたくない。

仕事に誇りを持ち理想を高く持ち実行する人でありたい。

もっと認められたい。

自分だって納得していないのに我慢してやっているんだから、他の人間も我慢すべき。

 

そんな鬱憤を抱えているけれど、自分の在り方を変えることができない。

なぜなら、自分の決断に責任を持つのが不安だから。他の社員と違うことをやって失敗して笑われるのが怖いから。

変えることができない自分を恥じている。

そんななか、完全に価値観をオーダーメイドに転換して楽しそうにしている私が横にいると、内心我慢ならなくなってくる。

 

「あいつの考えていることは取るに足らない」

「私のほうが実績が上がってるからあいつなんかより俺のほうがすごい」

「あいつは仲間じゃないから距離を置こう」

 

そんな風になるべく涼しい顔をして「おまえなんか相手にしてないよ」というポーズを取り出す。

 

・センメルヴェイス反射

「Semmelweis reflex」。通説にそぐわない新事実を拒絶する傾向、常識から説明できない事実を受け入れがたい傾向のことを指す。人は自分が信じてきたことと違う説を聞くと、今までの常識が崩れ去る不安と恐れから反射的に拒絶し、反対意見を持つ人・集団を攻撃する反射をもっている。

 

しかし、それでも相手がダメージを受けないとなると、だんだんイライラしてくる。

そして攻撃し始める。

例えば会議中に重箱の隅を楊枝でほじくるような質問をしてみたり。あえて情報をまわさないようにしてみたり。

子どもっぽい嫌がらせをして自分の心を落ち着かせようとする。

どんだけおじさんおばさんになっても、この子供らしさは失われない。人とは本当にいつまでもたいして変わらず幼稚なものなんだなと感じる。

反射しまくり。

 

 

なぜ彼らは社会心理学的反応の一歩先に進めずにいるのか

「私はエリートだ」

他の人より優れてるから今があるんだ」

「私のいる場所は素晴らしい場所なんだ」

そう思いたい。思い込んでいたい。

そうでないとわかってしまったら、怒りと不安で自分が大きく揺さぶられ掻き乱される。

なぜか?

それまでにやりたくもないことをやらされ、競争にさらされ、重圧に押しつぶされそうになりながら生きてきた人生が間違いだったと思い知るから。

だから、ちゃんと見るのが怖い。

人間はみんなそうだが、善悪は主観で決めている。

優劣も主観で決めている。正しいか間違いかも主観で決めている。

確実に保障された、善くて優れていて正しいことなんてない。

何か絶対的に正しい法則やルールがあるのだと思ってずっと探してきた私がいうんだから間違いない。

そんなもんはない。

 

「自分が」何を大切にし、どう行動するか。これしか我々に拠り所はない。

つまり自分の美学。信念を拠り所にするしかない。

それが人生の背骨だ。最も信頼できる主軸だ。

 

自分の背骨を育てるという重要な仕事を、

他人に預けてきたのだ。他人に奪われてきたのだ、私もお前たちも。

誰に?

親や学校や社会に、だ。

親が過干渉してきたりこの日本社会がゴミだったりと環境要因があり、決して私たちの内的要因だけのせいでこうなったわけではない。

寄ってたかって「好きに生きてはいけない」と思い込まされてきたから。

自分が好きに生きていないから、他人が自分らしく生きていることに反応して、苛立ち無視し軽く扱い、よりにもよってその人の邪魔までしようする。ご苦労なことだ。

そういう幼い頃の私たちが最も憎んできた社会をつくる存在に、今まさになっている人たち。

それが『自称』エリートのみなさんの本当の姿だ。

拍手!!

 

まとめ:社員のみんなは ACの12ステップやればいいと思う

これが喜劇と言わずしてなんだというのだろう。

私たちを苦しめたものに知らず知らずのうちになり、地獄を再生産している。

それは私たちが「不安」と「恐れ」にコントロールされているからだ。

 

具体的には『ACのための12のステップ』のSTEP4にある「権威ある人たちを恐れること」という課題だ。

■権威ある人たちを恐れること■

権威ある立場の人たちを恐れることは、親たちの非現実的な期待ーわたしたちがそうできた以上のことを求めたことーの結果であるかもしれません。

彼らの裁くような、批判的な、責めるようなやり方と、つじつまの合わない怒りは、わたしたちの他人との関わり方に影響を与えてきました。

私たちは権威ある人たちを、その人たちがわたしたちに非現実的な期待を持っているかのように思ってしまい、彼らの期待に沿えないのではないか、と恐れてしまいます。

他の人たちが単に何かを主張しただけなのに、私たちはしばしばそれを怒り、またはコントロールと誤解してしまいます。

このことで威嚇されたように感じるかもしれないし、さらにそれに対して、わたしたちの過剰に敏感で脆弱なやり方で反応するかもしれません。直面や批判を避けるために、私たちは自分の統合や価値を犠牲にして、力を持つ人のそれに合わせていくのです。

自分がどれくらい有能であるか正当に評価できなくて、他の人と比べ、自分は不十分で不適当であると結論するのです。

権威あるひとたちを恐れることは、わたしたちに次のような問題を引き起こしているかもしれません:

●拒絶や批判を恐れる
●ものごとを個人的に受け取ってしまう
●ごまかすために傲慢に振る舞う
●自分を他の人と比べる
●自分が正しいことに固執する
●不適当、または無能であると感じる

******
『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
67Pより引用

 

もうまさに、って感じじゃない?

本当は自分に確固たる自信も指針もない。だからパワーゲームの勝者に引き寄せられていく。そして権威ある人の言うことを聞いているほうが楽だから、次第に自分の魂の隷属を正当化しだすのだ。

「恐れ」と「不安」で、現状を変えることができない。いや違うな。

「できない」という体裁をとりながら積極的に心の奥底では「変えない」ほうを選択している。

変えられないのではなく、変えないから変わらないのだ。それが事実だ。

なぜなら、そのほうが勇気がいらなくて楽だから。

私はずっと、ずっと楽をしてきた。人のことは言えない。

だから最近まで何が楽しいか何が好きかもわからないまま、言われるままに人生を生きてきた。

結果がこのざまだ。

自分にふたをし続け、他人を見ようともせず、自分を見ようともせず、自分を信じようとせず生きてきた結果、病気になった。

アルコール依存症になり、REM睡眠行動障害や強迫性障害に悩まされ、今でもうつ病を併発している。

 

だから私は、『自称』エリートを気取る社員を見ると、いつも自分を思い出す。

断酒会やAAで同じアルコホリックを見て当時の自分を思い出すように。

彼らは私そのものだ。

だから自分と区別して優越感に浸りたいわけでもないし、攻撃したいわけでもない。

 

ひとつ願うとすれば、彼らもまたアダルトチルドレン(AC)という概念に出会い、自分の「不安」と「恐れ」の正体に出会えますように、そのようなハイヤーパワーの導きがありますように、ということくらいだ。

 

 

【AC】全く自信がなかった私が「世間」に全く動じなくなったのはなぜ?

最近私は本当に、世の中の価値観に左右されなくなってきた。

なんていうか、仕事していてすごく楽になった。

抗うつ薬を飲んでいるからというだけでは説明がつかない。それほど今までの思考の転換が起こり、ある種脳内では革命が起きているともいえる。

それを思い出しながらつらつらと書いてみたい。

 

それまでの私

思い出してみると。

私はとにかく「他人の評価が怖かった」。

どう見られているんだろう?嫌われていないだろうか?何か間違いをしていないだろうか?そのせいで仲間外れにされないだろうか?

そんなことばかり考えながら他人と言葉を交わしていた。

楽しいはずがないよね。

あとは、すごくすごく他人に認めてほしかった。

例えばの話、多少無理が祟ってそのあと数日寝込んだりすることになったとしても、他人に認められるためなら、多少の無理は通して頑張る我慢強いやつだった。

そうやって自分の時間とか健康とか、いろいろなものを犠牲にして頑張ったのに、他人が思うように認めてくれないとき、私は怒り狂った。

我慢したくないものを我慢して、それでもほしいと思った承認が得られなかったときの苦しさはとんでもなかった。

だから、毎日毎日何かに追い立てられるように仕事をしていた。そしていつも苦しかった。

 

何が私をそうさせたのか?

結局これって「アダルトチルドレン」として獲得してきたライフスキルがそうさせているんだよね。

社会(親や地域社会)に与えられた「正しい」をちゃんといい子に守らないといけなかった。そうでなくては世界に居場所がなかった。

それって相当世界を歪ませるし、自分の「楽しい」を「正しい」で叩き潰されると、心が壊れちゃうから、痛くないと思い込もうとして蓋をする。心はそういう防衛本能を持っている。

だから自分の本当の気持ちにふたをするようになる。「自分が何を考えているのか、何が楽しいのか、どうしたいのか」が次第にわからなくなる。

そして頼れるのは「正しい」だけになる。社会に押し付けられてあれだけ嫌だったものさしだけが、自分を支える価値であり生きる基準になる。

こんな屈辱的なことはないよね。

喩えるなら、めっちゃ親が憎くて殺したいくらい嫌いだけど、学生だから親に学費出してもらってご飯恵んでもらわなきゃ生きていけないみたいな惨めさ。みんなが学生の頃味わったあの苦さに似ている。

だから心のどこかでは納得していないし、怒っているし、自分の「楽しい」を叩き潰されたことを哀しくつらく思っている。そしてそれらのことを心の奥底では憎み続けている。

だから、「正しい」から外れている人をみると、ものすごく攻撃したくなる。

従いたくなかったものしか頼れるものが無い自分の惨めさを見たくないから。

自分が我慢して我慢して「これでいいんだ」と思い込もうとしている「正しい」を否定されてしまったら、自分が今まで我慢してきたことがいかに愚かなことか、気づいてしまうから。

気づいてしまったら、その大きすぎる後悔と怒りに圧倒されて自分がぐちゃぐちゃになってしまうから。自分で抱えられる自信がないから。

そんな理由で、必死で見て見ない振りをする。

そういうひとが、ほとんどと言ってもいいかもしれない。びっくりするほどたくさんいる。自覚している人もいない人も、大体そんなことが苦しみの根幹。

 

12ステップに出会って

私はありがたいことに、12ステップ・プログラムに出会った。

最初は胡散臭いなと思っていた。「神」とか言われたら誰だって引くよね。

でも、考え方や物事のとらえ方は、確実に私の真の病巣にリーチしてきた。

本当に思っていたことを思い出すために、私は今までの様々な心の澱みを、このステップの力を借りて見つめ直さなくてはならないということが、取り組んで初めて自覚できるようになっていった。

本当に少しずつ、少しずつだった。

アルコール依存症という病を患ったことを、恥ずかしいと思っている自分にも出会った。

どうしても他人に認められて社会的地位を得たいけど、己の失敗がもとで得られない現実を受け容れられなくて、「んなもんいらねーや」と突っ張っている寂しさにも出会えた。

「自分だけなんでうまくできないんだろう・・・」と思って世界がとにかくおそろしくて、周りの人間がみんな自分をバカにして責めているように感じてきたけど、貶めて責め続けていたのは、本当は自分自身だった。

そのままで受け容れてもらえなかったから、何者かにならないといけないと思い込む。

だから、様々な「応急処置」をしながら、自分以外の何かになろうと一生懸命に努力していたのだ。

でも、人を繋ぎとめるための欺瞞を塗り固めれば塗り固めるほど、覆われて心の呼吸は苦しくなる。本当の自分で世界に接することができていないから、いつまでたっても「ここにいてもいい」という本当にほしい実感を得られない。だって、ここにいるのはいつまでも「自分」じゃないから。受け容れられているのは「自分」じゃないと思うから。

そういう様々なことが点で理解できるようになり、あるときバーッと線になる。

「ああ、そういうことか」「全部あったのに私は何を足りない足りないと今まで嘆いていたのだろう」と。

 

何も着飾る必要はなかった。

ただ、自分の心の赴くままに在ればいいだけだった。

小賢しく策を弄して他人にちょっかいを出さなくても、私は私のままでよかったんだ、生きていてよかったんだ、ということに気づく。

そうすると、不思議なことに、未完成である自分と同じように、未完成の他人もまた、受け容れられるようになる。

私が完璧でない自分を受け容れないでイライラしているから、他人も受け入れられなかったのだ、という単純な状況を俯瞰的にとらえることができるようになる。

自分が感じたことや思うことを堂々と丁寧に正直に伝えることこそ、「最も優しいこと」だったんだとわかる。「相手のことを思って・・・」と自分の本心でないことを言うのは、関わりの責任を相手になすりつけているだけ。要は傷つかないための責任逃れ。だから私は他人と友達と呼べる関係になれなかったのか。

相手ではなくて、自分のあり方の問題だったことを理解する。自分を大切にできる人だから、相手を大切にできる。

相手をどうこうするんではなく、自分がどうあるか。それだけだったことを知る。

世の中の矛盾に気づいて

そうして自分のなかの霧が晴れていくと、やっと世の中が見えてくる。

以前は恐ろしいほどに立派で正しくて、私を全否定してくるんじゃないかと思っていた「勝ち組」と呼ばれる「権威ある存在」は、実はただの狂人だったのだとわかってくる。

この世の大多数が適応しているこの社会が正しい、と多数派である「世間」を信仰してきたけれども、信仰に足るほど立派でもないことが見えてくる。

自分の利益のことばかり考えて、他人が傷ついたり踏みにじられたりすることに鈍感で、都合の悪いことは見て見ない振りをし、考えたら辛くなることは考えない。

本当にみんなそういう弱さを持っていて、それだからこそ人間で、その人間がつくった社会は、実は全然いいものじゃない。

今の日本を見ていてもわかるけれども、一部のお金持ちや比較的余裕があるひとが今までの暮らしを守ろうと強い存在に取り入って、他の人を間接的にどんどん殺している。

自分のために他人を殺すことを平気でできる、あるいはそういう情景にも関心を持たないでいられる。それが「社会人」であり「常識人」の姿だった。

社会が狂っているから、その社会に適合できる人間もまた、人間でなくなっていっている。

これが生まれてからずっと感じてきた違和感だったということに気づく。

私が苦しいのは、社会システムが狂っているからだった。

そっちに近づかなければと30年以上苦労してモデリングしてきた対象は、ただのクズだった。

だから違和感があったし、納得いかなかったのだ。

 

「世間」や「常識」なんてたいした価値も力もない

そういう真理に気づいて、私は視界が拓けた。

「ああ、なんだそういうことか、私が劣っているとかじゃない、狂ってるんだ」

そう思うと、世の中のあらゆる社会的権威や社会的地位や資本主義経済を主軸とする価値観に、何の執着もなくなる。

 

たとえば「エリートサラリーマン」だと自分の社会的地位や収入を誇り他人を見下す同僚Aがいるとする。

いやいやw

Aさん、あんたなんもわかってないじゃん。結局グローバリズムっていうシステムの奴隷になってるだけだよ?

出世するってのは企業という金儲けマシーンの奴隷としての素質を認められたってことだよ。やったね!プロの奴隷として会社から認定されて嬉しい?よかったね!

一生懸命他人に言われたどうでもいいこと毎日やって、自分さえよければいい、という品性が下劣な生き物に成り下がって、「人間」からどんどん離れた歯車になってるじゃん。人をやめてモノになる。そんな人生が誇れる人生なの?お金集めがうまいことが人間の価値だと思ってるなんてかわいそう。それはシステムの部品としての利用価値だよ。

あるいは、バナナを求める猿と変わんない。承認欲求と自己顕示欲を満たすために出世・昇進という社会的価値を求め、物欲や性欲や所有欲を満たすために貨幣を求める。それって虚しくない?やってることは、くだらないゲームだよ?命において大切なことには、何ひとつ気づいていないまま、人生を終える。ああ、そういう鈍感力を誇ってるってこと?なら納得。

自分のほうが稼いでる?あのね、金ってのは今の社会じゃ人間性を削って換金してんの。鰹節みたいに。あんたの人間性あとどんだけ残ってんの?

 

たとえば社会から「お前は発達障害だから」「お前は依存症者だから」とレッテルを貼って社会に無理やり合わせるよう強要されたり、侮蔑的な態度をとられたとする。

いやいやw

依存症になるほど追い詰められたのは、半分は自分の無力さだったけど、半分はこの社会が狂ってるからだよ。

無力なのはお前らも同じ。それなのにこんな狂った社会に適合できている(と勘違いしたまま生きられる)お前らのほうがよっぽどだろ、どっちかっていうと。

発達障害が「劣ってる」って誰が決めたよ?

そりゃお前らだろ?狂ったお前らの狂った基準だろうが。勝手にひとをそんなクソしょぼい型で語ってんじゃねー。

今の資本主義社会に適合できているから自分たちのほうが有用だなんて勘違いしてんなら、そっちこそおつむが弱い。

誰も動けないときに動ける突破力、多くの思考を巡らせて独自の世界観を構築できる多角的同時思考能力。そんな力を生かせずに病気にしちゃうような未成熟な社会を変えてやるために俺たちが生まれてきたんだよ。

 

とまあ、こんなふうにドーンと跳ね返すことができる。

誰のどんな特性だって、個性だと受け容れる度量をもつことができる。

倫理に反し他人を簒奪しない限り、人はどんなふうでも生きていっていいと、本気で確信する。

むしろ間接的に人殺しをしまくって他人から奪いまくっている今の常識人というサイコパスたちに、何も言われる筋合いもない。

 

しかたなく、今はバナナ(金欲・性欲・名誉欲)が欲しいだけのお猿さん(世間のひと)たちと共存していかなきゃいけないから、お猿さんが頑張って考えた「資本主義経済社会」というクソ詰んでる下らないワンダーランドにもたまに顔出して適当にお茶を濁しつつ(必要最低限の収入を稼ぎつつ)、バナナなんかは猿にくれてやって、もっと自分が面白いと思うものを追いかけていけばいいのだ。

一度しかないんだから、猿に合わせて終わってちゃもったいない。

この社会がクソなら、少しでもマシになるようにがんばってみよう。それは、これからを生きていく多くの人のなかにも自分が生きていくことになる。

私は、それが最も高尚で面白い生き方だと思っている。

だったらそう生きればいいだけなんだよな。

まだまだやれることはあるし、私はこれからどうあっても、何も悪いことなど無い。

良いか悪いかは、私が決める。それは誰にも奪われないことなのだ。

私は無力で自分以外の大きな力の流れに全く逆らえないけれども、その力を信じ委ねる限りにおいて、私は完璧に自由で、足りないものは何もない。

【AC】言語ゲーム論の視点から生きづらさの原因を考える

『言語ゲーム』という概念をご存じだろうか?

オーストリア・ウィーン出身の哲学者、ヴィトゲンシュタインという人が考えた。

この人は最初は「哲学上の諸問題と言われるもののほとんど全ては、定義の問題に帰着する。」と言っていた。

つまり「この世のあらゆる問題は、言葉を完璧に定義していて記述が論理的に正確であれば、簡単に解決できる。」っていう主張をした。

だけども、言葉は実は「完璧に定義すること」ができないことに気づいた。

たとえば同じ青を見てても、「全く同じように見えていて、それを『青』と呼んでいるかどうか」すなわち、『青』は全く同じことを指す言葉なのかは、確かめようがない。

なので後になって、冒頭の『言語ゲーム』という概念が生まれた。

人は、「言語を使ってルールに基づいて意味を伝える」ことをしているのではなくて、「ルールはその都度(各々が勝手に)変更しながら、言語を使って遊んでいる(ゲームをしている)」と捉えた。

言葉は、それぞれが受け取りたいように受け取っていて、そこに明確なルールなど実はないのである。

 

ルールを作っているのは自分自身

ここで私が興味深いなと思ったのが、「各々が勝手にルールを変えて言語を用いたゲームとしている」というのは、まさに人が生きる上で世界をどうとらえるか?という世界の見え方を定義しているところだ。

一言でいえば、人は見たいものを見る。

 

みんな、これに似た覚えはないだろうか?ルールを自分で作っていることを例えるなら・・・そう、雨。

「雨が降れば憂鬱な気持ちになる」と思い込んでいるとする。

その人は雨が降ると憂鬱になる。

しかし実際は、雨の日でもいいことはある。

でも、その人のなかでは、「雨が降る=憂鬱な気持ちになる」がルール化されているので、そのルールに基づいて世界が見えていく。

憂鬱な気持ちになるような出来事を選んで拾ってきて、「ああ、やっぱり雨の日は憂鬱だな」というルールに基づいた思考のゴールにたどり着く。

 

言語に限らず、人はその定義を自分のなかに創っている。

意味を、意義を、価値を、生み出すのはいつも自分の心だ。

 

言語ゲームとしての「仕事」

その視点で「仕事」を見てみよう。

 

ある人は「誰から見ても良い妻でいること」を「価値ある仕事」だと定義して、自分の趣味も楽しみも置いてけぼりにしながら、毎日やりたくもない炊事洗濯に追われて、寝る前になって毎日「今日も良い妻だと思ってもらえたかどうか」を点検して憂鬱になっている。

「良妻賢母ゲーム」とでも言おうか。

 

ある人は「社会から認められること」を「価値ある仕事」だと定義して、家庭も時間も犠牲にして、毎日やりたくもない仕事に明け暮れる。人に評価されるために結果を求め、結果を出すために何をすればいいか。それに特化してHOWTOを撫でて本質に触れることなく、「やるべきこと」をしたためたTODOリストに溺れていく。

「出世しましょうゲーム」とでも名付けよう。

 

そんな人は、この世の中にあふれているように思う。

みな、やりたいように何かしらのゲームをしているのである。

そして、それらのゲームが死ぬほどつまらないから、自分のやっているゲームが嫌になっている。

嫌になっているのに、嫌になっていることすら自覚できなくて、続けるうちに実際に自ら命を絶ってしまったりする。

あるいは、出所のわからない苛立ちを抱えてネットで他人の粗探しをして、正義の名のもとに無差別に叩いては、己の溜飲を下げようと必死だったりする。

あるいは、他人の人生に肩入れをして「あなたがいてくれてよかった」「あなたがいないと生きていけない」と言ってもらったり、そう錯覚したりするために、他人の人生のお世話ばかりをして自分のゲームのつまらなさを忘れようとしたりする。

あるいは、酒やたばこ、その他もろもろの薬物で脳を化学的に直接誤魔化して、ゲームから逃避してしまおうとする。

 

そんなに嫌ならやめりゃーいいのに、いつまでもプリプリ怒りながら、シクシク泣きながら、ゲームをしている。

 

ゲームは選べる。

なぜならプレイヤーは自分だからだ。

「良妻賢母ゲーム」がもう嫌になったなら、「私の人生どれだけ楽しめるかゲーム」にすればいい。

「出世しましょうゲーム」がもう嫌になったなら、「自分がやりたいことをしましょうゲーム」にすればいい。

 

なんでずれてしまったのか?

なんでしたくもないゲームを始めたのか?

それは「価値ある仕事」という言語が、自分で定めた言語ではないからだ。

どっかの誰かが「価値ある仕事」だと言っていたから。

そうじゃないだろうか。

どっかの誰かの言語でしゃべっている、ゲームをしている。

だからいつまでもやらされ感があるんじゃないだろうか。

 

 

あなたがやりたいゲームは?

「良妻賢母」がいいのか?

「出世しましょう」がいいのか?

本当に?

私が、あなたが、そう思っているのか?

 

そう思い返してみたことはあるだろうか。

私はなかった。言語ゲームの主導権はいつだって他人だった。

他人の言葉で、他人が望むイメージを具現化しようとしてきた。実に受動的でつまらない生き方だ。

そうして、私は自分の言葉を失った。つまり、自分の心を失ったのだ。

ルールは自分ででっち上げられる自由度の高いこの世のなかで、私は私の言葉で生きてこなかった!!なんともったいない。

例えるなら、自由度の高いフィールドが広大に広がるゲーム内で、一歩も動かずに「これが一番今流行っているらしい」と周りを見ながらビクビクして同じような作業をしているだけで、プレイ時間が終わるようなもんだ。

もったいない、もったいないぞ、そんな遊び方!!

 

せっかく奇跡のような確率でログインできたんだよ、この世界に。

あと少しのところでログインできなくて惜しまれながら流れていくアカウントだって、星の数ほどあるのに。

私たちはこの世界で何をしたっていいのに。

どんなゲームでも自分のルール設定次第で目指せるし、やってみることができる。

 

お金が稼げない?

社会的に認められない?

人から愛されない?

知るか、そんなもんは全部クソだ。

既婚者が未婚者より上だなんて誰かどっかのやつが決めたルールだ。

高学歴エリートが中卒より上だなんてどっかの誰かの妄想だ。

モテる人がモテない人より人間的に魅力的かどうかなんて、だれも定義できないし結論は出せない。

つまり、この世で価値があると思われていることなんてタカが知れている。

「なんとなく価値があるっぽい」だけで、それを多くの人が信仰しているだけ。

それが正体だ。

それをあなたが「いやー、それはそんなに興味ないんすよね」と言ってしまえばそれまでのシロモノばかりだ。何を恐れているのか、自分次第で価値を決められる、あなたがこのゲームのプレーヤーだというのに。

 

楽しいかどうか

この世で最も重要なことは。

私にとっても、あなたにとっても、最も重要なことは。

心の底から「楽しいかどうか」だ。

正しいとか間違っているとか、上とか下とか、そんなもんはゴミだ。

 

全然関係ない。あなたの人生には本当に関係がない。

それはどっかの誰かが言っている言語で、あなたが言っている言語じゃない。

言語を定義するのはどこまでも、あなた であり 私 だ。

ルールをでっちあげるのは、いつだってプレイヤー自身だ。

 

楽しもう。2021年は始まったばかりだ。

それぞれがプレイヤーでいる限り、今年は楽しい年にしかならないのだから。

【AC】AC・共依存・依存症を抱えながら親になるということ

私は、いわゆる陰キャにばかり感情移入してきた。

祭りに行けば、他の出店がにぎわいのなかで、全然売れなくて途方に暮れている屋台のオヤジの哀しげな背中ばかり目に入って、すぐに疲れて帰りたくなる子どもだった。

「楽しさ」や「幸せ」は、どれもどこか作り物じみていて、歓迎できないものだった。良いものとされているそれらを、好きにはなれなかった。

 

私は、人が集まる空間に対して拭えない嫌悪感がある。

楽しそうに騒いでいるのを見ると、ぶち壊しにしたくなる。

煩くて癪に触るおどけた連中を一発殴って静かにさせたくなる。

楽しい気持ちに冷や水がかかって、一転鎮痛な顔になる瞬間を見たくなる。

「楽しそうにしてずるい」「私はこんなにも毎日楽しくないのに」

私はそう思って人々を見てきた。

あるいは、楽しそうにしている人々が必死に「楽しさ」を取り繕うのを見てると、ひどく疲れると感じてきた。

「楽しさ」に置いていかれた者たちが、うつろな瞳の色を、暗く拡がっていく己のうちの闇を悟られないよう必死に目を細めている。無理して笑うから表情筋の引き攣る、その痛みがこちらにも伝播してきそうで、眉をひそめる。やめろ、胸がズキズキする。

そもそもこんなふうに集まって楽しげにしようと無理をするから、光と影ができるんじゃないか。

皆真っ黒さを認めてただ静まり返っていれば、影は生まれない。

みんな本当は世の中真っ暗だって思っているくせに、なんでこんな無理をしようとするのだろう?

人は、楽しくないのになぜ楽しい振りをし続けなくてはならないのだろうか?

生きるのが楽しいことだなんて馬鹿げた妄想を、まだ捨てられないからだろうか?

 

そんなふうに世の中をいぶかしんで、陽キャたちを「物事の道理に暗い、哀れな生き物」と下に見て生きてきた。

 

何もかも偽物だったのは、私だった。

影だと思ってみてきたものは、私そのものだった。

私が世の中に「私」を見つけていただけだった。

 

 

本当は楽しく生きたかったのに、そうできなかった。

私が与えられた環境は「幸せ」なはずで「恵まれている」はず。

それなのに、このような暗澹たる気持ちで過ごさざるを得ない、つまらない時間の連続が、私の人生の認識だった。

 

それはなぜか?

 

本当の私で生きていないからだ。

本当の私で、受け容れてもらっていないからだ。

そこで私はようやく「寂しかった」のだと気づく。

 

楽しくないのに楽しい振りをしてきたのは、自分だ。

屋台のオヤジはそんなに暗い気持ちではなかったかもしれない。売れなくても、祭りに参加できるだけで楽しかったかもしれない。

もう、うんざりしていた。

それを誰にも言えなかった。親にも兄弟にも。

それは当時の私にはさらけ出す勇気が持てなかった。

だから誰とも仲間になれなかった。心が分かち合えなかった。

だからいつも誰といても私は能動的に「仲間外れ」だった。

 

「仲間に入れないことが悲しかった」。

このことに蓋をしてきて、悲しいことを忘れていた。

この悲しみが形を変えて、怒りや憎しみとして表出していた。

だから、人が楽しそうに集まるのを、苦々しく感じてきたのだ。

 

 

これを書きながら、そんなことを思っていた。

私は圧倒的にサボってきたと言わざるを得ない。

他の人がそのままの自分で他人と真剣な鍔迫り合いをしているのに、試合には参加せず遠巻きに見ていただけだった。

それもそれとして仕方がないとも思える。

 

彼らにはホームがあった。

打ちのめされて帰ってきても、存在を全肯定してくれる心の安全基地があった。

心の安全基地が確かにある安心感があるならば、真剣の立ち合いを挑む気力も生まれよう。

 

一方私は、刀傷を負って帰っても誰も手当てしてくれない。

彼らのようにそのままの自分を受け容れてくれるお手本の「家族」がいない。

それはまるでピットインせずに走り続けるF1のようだ。焼け焦げていくタイヤよろしく、日々摩耗する己の心との闘いだった。日々セルフサービスでタイヤ交換するだけで、精一杯だった。

機能不全家族をベースに持つということはそういうことだ。

共依存・依存症・AC(アダルトチルドレン)に向き合わずに子供をもつというのは、そういうことだ。タールのように黒くこびりついてなかなか取れない「呪い」を、赤ん坊の綺麗な体に、穢れのない心に、べっとりと塗りたくる行為だ。

 

だから、私の性根が腐っているわけではない。私は悪くない。私は私なりに頑張って生きた。

努力次第でどうにかなるなら、私は結構日々努力してきたほうだと思うから、どうにかなっているはずだ。なんせ小さい頃からずっと死にたい気持ちを引きずりながらも、なんとかかんとかおじさんと呼ばれる歳になるまで懸命に生きてきたのだ。結構しぶといよな、と我ながら思っている。

 

そして今は、このタールまみれの体と心も結構気に入っていて、人とは違うから好きになってきた。長年慣れ親しんだこの臭いのおかげで、同類をすぐに見分けることができる。

そして、私の体臭として悪くない落ち着きを与えてくれる。

塗りたくってきた両親に対する憎しみもだんだんと薄れてきて、やっと自分の一部に馴染んできたような心地がする。とはいえ苦しみの記憶は色あせず、到底許せるわけでは無いのも事実だが。

 

私はm我が子に意図せずタールを塗りたくって自覚がなく謝罪すらできないような両親のような親にはなりたくないし、そもそもそんな汚いものを塗りたくりたくはない。

そのままで、のびのびと失敗と成功を繰り返し経験し、すくすくと己の世界を拡げてほしい。その神聖な営みの邪魔だけはしたくない。

それに死にたい気持ちを抱えながら生きるのはしんどい。私には必要な痛みだったのかもしれないが、同じ思いをさせたいとは思わない。

 

私は人を憎み人をうらやみ、自分の陰ばかりを追いかけてきたのは、今、親としてそういう風に思えるように、与えられたものなのかもしれない。

【AC】仕事の承認欲求に基づく「嫉妬・不安・焦り」を手放せて楽になった話

最近、私の仕事に対する依存や執着と、酒に対する態度はとても似ていたんだな、と思っている。そのことについて書いてみる。

 

「酒を飲みたいから飲んでるんだ」「俺は酒が好きなんだ」と思っていた。

でも、違った。目的は別にあった。

私は現実が見たくなくて、見るのがもう辛いから、飲んでた。嫌いな自分をこれ以上知覚したくない、と言ってもいいかもしれない。麻痺させるために、これ以上考えないために、酒を使っただけで、飲むことが目的じゃなかった。

本当に解決したいのは、生きづらさだった。

生きづらさをどうにかしたくて、対症療法として酒を使っていたのだった。

 

それを仕事に置き換えてみると、実に似通っている。

「私は結果を出したいんだ」「成功するのが好きなんだ」と思ってきた。

結果を出すためなら何を犠牲にするのも正義だと思ってきた。

でも本来の目的は?と振り返ってみる。

「生存していていいという安心感のため」だったのではないだろうか。

稼げなきゃ生きている価値がない。稼いでいなきゃ結婚できない。長男として生まれた務めを果たせない。一族を滅ぼす「人でなし」になってしまう。つまり、人として社会に許容してもらえなくなる。

そういう「人として生きる権利を脅かされる」という恐怖と不安を見て見ぬ振りをするために、私は仕事で結果を出さなくてはならないと思い込んできた。それが本当の目的だった。

実際、そんなことはない。稼げるか稼げないかは、基本的人権には何の関わりもない。

全部「こうでなくてはならない」と私が勝手に決めただけ。

本当はそんなルールはなかったのに、ルールだと思って必死にやってきただけ。

酒も、仕事も、世の中から無くならない。仕事は今も、生きていくために付き合っていかなくてはならない。

食事や睡眠と同じように、私はこれらの執着してきたものたちを完全に私の世界から切り離すことはできない。

うまく付き合おうとした、もといコントロールしようとしてきた。

しかし、コントロールすることなど無理だった。

どう頑張っても振り回されてきた事実が、ここにある。

徹底的に酒を避けて生きる。そうやってライフスタイルを変えてやってきたアルコール依存症だけど、仕事…特に承認欲求については、より高度で光明が見えずにいた。

自分の根本が何なのか見定めたい。そう思ってずっと考えてきた。

 

「本当に価値がある」と思うことをやってきたはず、今もやっているはず。それなのに、周りが気になって躊躇したり、本当に良かったのか自信がなかったりすることが、よくある。

それは結局自分をよく見せるためにやっているからだ。

目的を誤っている。

善行を行うことに他人の許可も承認もいらない。

ただやれば、私の心は満たされるものだ、ということ。

 

自分が本当に望んでいるものは何か。目指しているものは何か。

 

自分のゴール、善を行いたいという目的を見失って、心の芯ではなく周囲にばかり目を向けているから、不安や焦りを感じる。

私は、私が今やれるだけの善行を行い、改良できる限りの改良をしていれば、それで何も恥じることはない。

一日一日を全力で感じ、全力で楽しみ、今ココの繰り返しを過ごしている。

それ以上の状態はなく、何の欠落もない。何の負い目もない。

 

もう、今ここに、全部あるのだ。

これほど気づいてありがたい事実はなかった。

 

出典:『バガボンド』第37巻 より

 

 

何もかも今ココには揃っている。未来を憂いたり過去を悔いたりしなくていい。

今ココに、何もかもが用意されていて、私は用意された完璧な一瞬一瞬を味わうだけで100%だ。100点満点だ。

 

『バガボンド』のこのシーンが、大地に五月雨が染み込むように、私の渇いた心へすっと落ちてきた。

 

出典:『バガボンド』第29巻 より

 

 

作中、沢庵和尚と宮本武蔵が共にたどり着いたのは、

「天と繋がっている限りにおいて、人は自由で無限だ」という境地だった。

 

 

私が他人に認められないのも、ただそれだけでしかない。

今は、それがただ、今であるだけだ。

私は、誰にどう思われようとも、私にとって最良のものを、人生で積み重ねていく。

それは変わりない。私の良心が、魂が、私のなかの天が、そうであり続ける。

社会的に「結果」と呼ばれる事象として結実するかしないかはわからない。

しかし、それは問題ではない。

私の根本に宿る「善良なる魂」「善行を行う心」すなわち「天=ハイヤーパワー」を信じて進んでいる限り、全ては社会的に結実するかしないかを超えて、在るべくして常にあり続ける。

そうした自分を超えた大きな力により、いずれ万物があるべき姿に導かれるのなら。

私のように小さな存在が、あくせくとコントロールしようとしなくていい。

天にお任せしておけばよいのだ。

迷ったなら、何かをコントロールしようとするのではなく、魂に尋ねればいい。

そして、やると決めたことをただ迷わずやればいい。

 

なんだ、すげ〜簡単なことだったんだな!と思って、最近は生きていることがシンプルで、実にラクなのである。

 

出典:『スティール・ボール・ラン』第21巻 より

 

 

見縊られるのもそう。

バカにされるのもそう。

他人がどう反応し、私をどう見るか。

そんなことは、本当に『私には何にも関係がなかった』。

些末なことだった。

 

全ては、内なる神とのやり取り。

すなわち、ハイヤーパワーとのやり取り。

他の誰かとの間のことであったことは、一度もなかったし、これからもない。

 

 

‘Give the world the best you have’ – Mother Theresa

People are often unreasonable, illogical, and self-centered

;Forgive them anyway.

If you are kind, People may Accuse you of Selfish, Ulterior motives

;Be kind anyway.

If you are successful,you will win some false friends and some true enemies

;Succeed anyway.

If you are honest and frank, people may cheat you

;Be Honest and Frank anyway.

What you spend years building, someone could destroy overnight

;Build anyway.

If you find serenity and happiness, they may be jealous

;Be happy anyway.

The good you do today, people will often forget tomorrow

;Do good anyway.

Give the world the best you have,and it may never be enough

;Give the world the best you’ve got anyway.

You see, in the final analysis,it is between you and God

;It was never between you and them anyway.

【AC】絶対に他人に負けたくない私が「負けるが勝ち」を理解した話

私は、昔から人生を早く終わりにしたかった。

自分の楽しいことが、いまいち何かよくわからなかった。いつもイライラしていた。

かたや「人生を終わりたくない。楽しいからいきていたい。」そういう妻。

いったい妻と私では何が違うのだろうか?

 

楽しさの追求

妻は基本的に「どうせ生きてるんだから楽しもう」とするタイプだ。

彼女は、親が好きなように生きる姿を見て、好きなように楽しめる方に、他人がどうあろうと行動するしかないことを学んだのかもしれない。

 

彼女の父は、兄と姉と妻の学資保険を全て溶かして起業した挙句失敗し、母はその身勝手な行動に失望して失踪した。

電気のついていない、崩壊した暗い家に一人で帰る小学生時代だったという。

バイトをしなくては学費が払えない中学時代は、遊びたくても遊べなかったそうだ。

 

私は長く疑問だった。

親さえしっかりしていれば、背負う必要がなかった悲しみや苦労を、彼女はなぜ許せるのだろうか?

私は憎い人々を忘れられない。負けた相手をいつか打ち負かして「オレがお前より上だ」と叩きつけない限り夜も安らかに眠れないような人間だ。

なぜ、負けたり理不尽な仕打ちをされたときに、恨みや憎しみに支配されないのか?

 

思い至ったのは、彼女は真の意味で、己の無力さや弱さを知っていて、心から受け容れているからかもしれない、と思った。

 

確かに私が依存症になったときも、そうだった。

私自身、依存症になるなんて夢にも思ってなかった。

でも、これ以上ないくらい完璧に、アルコール依存症になった。

自分では予想もつかないことが起きるし、自分というのは、想像よりするより、あまりにも弱く脆い。私自身、病気を通じて己の無力さを思い知った。

 

妻は私が依存症であるという事実を聞いたとき「ちあきにあるのだから、誰にでもあるものなのかもしれない。」と思ったという。

「私もなっていたらやめられないかもしれない。」

「たとえば骨折しているのに松葉づえを取り上げられたらそれはつらいだろう。それと同じように酒に頼ってきたのに、酒を取り上げられたら苦しいだろう。私なら辞められないかもしれない。」

そう考えたという。

 

誰に、何が起きても、どう期待や予想を裏切っても、不思議じゃない。

 

今の自分には理解できないような果てしなく愚かな行いに見えても、自分ももしかしたら、万が一…いや億が一、同じ立場になったとして、そういう行動をしてしまうかもしれない。

全く同じ立場じゃない限りわからないから、自分もそうなるかもしれない。

 

だから、責めないのか。仕方ないのかもしれない、と思えるのか。

 

たとえば、仮に責めても結果は変わらない。

だから、確かに、理解できない失敗や行為を責めても、結論としては仕方がないのだ。

結局は、自分でしかない。

あらゆる事象は、「自分がより良く生きる材料」として活用するしかない。

つまり、感じてきた痛みは、学ぶ姿勢がある限り人生の「+要素」に昇華できる好ましい事象だと言える。つまり、苦しみも痛みも含めて、何もかもが無駄ではない。

 

人は誰しも欠陥だらけ

悪いところなど、見つけようと思えばいくらでも見つかる。

正直自分も他人も、悪いところなら挙げればキリがない。

いいところを見つけて学ぶほうが、よっぽど実りがある。

建設的だし、自分にとっても他人にとってもハッピーな方向性。

だから、間違い探しにエネルギーを使わない。

どうせ使うなら、受け容れて学び、楽しむ方にエネルギーを使う。

この「楽しむことに全力全開」というのが、私が妻を見ていて尊敬するところだ。

 

今のところ、何一ついいところが見当たらなければ、そっと距離を取ればいいだけのこと。

また時期が来たら見つかるかもしれない。

今はまだ私にはわからないだけかもしれない。

今は相手に余裕がなくて、本来ある良さがマスクされているのかもしれない。

自分のことが他人にはなかなか理解してもらえないように、私も他人を簡単に見切れるほど優れているわけでもないし、眼が効くわけではないのだから。

そういう、息の長い向き合い方をしていきたい。

簡単にカテゴライズしない。ジャッジしない。諦めて切り捨てない。

それは、自分が反対の立場ならそうしてほしいし、他人がそうあるほうが幸せだからだ。

 

『いいとこあるかもしれない』で終わらせておけるのは、他人は他人と割り切っているからである。

つまり、自他の境界線(バウンダリー)が完全に区切れていることに他ならない。

自分を脅かす脅威に思えて、早く理解したことにして自分のなかの落ち着けどころを決めてしまおうと不安に焦りたくない。

その人の必ずあるであろう良いところが、私にとって面白いか面白くないか、を感じとろうとする感性と関わる姿勢を大事にしたい。

不安や恐れがあるのは、今までパワーゲームでコントロールされたり条件付きの愛情を受けてきたりしたせいで、ランキングが存在価値に直結すると思っているから。

存在価値を脅かされることはとても怖い。

社会的な死、精神的な死を意味するから。

怖くて当たり前。怖いのはあなたのせいじゃない。あなたが弱いのではない。

怖さを隠さなくていい。それは弱さじゃなく、原因と結果の産物であり、昔必要だった愛すべきライフスキルである。

そして、今もう役目を終えて、手放していいスキルでもある。

新しく、相手を見るときには、マネできるいいところを探そうと思う。

人との出会いや関わりは、その面白みを見つけられる楽しいことだと位置づけていきたい。

そうすれば、私は人との関わりを、唯一安寧に近い一人の時間を邪魔する煩わしいイベントとして忌避しなくてよくなる。

世界がもっと生きやすくなる。

そうなってくれれば、もはや嗜癖に頼る必要がなくなる。

自分の世界の見方を変える。これが、依存症者にとって、ACにとってのパラダイムシフトなのだと思う。

【AC】絶対に他人に負けたくない私が「負けるが勝ち」を理解した話

・負けた悔しさを切り離せず悩みから抜けられない人

・勝負になると、すぐ勝ち負けに拘ってしまう人

いませんか?

私は、そういうタイプです。

 

12ステッププログラムを学び、平安の祈りを読むたびにいつも思います。

「変えられるものと変えられないものを理解している人」

それは、12ステップを極めし者であり、最も楽しい生き方なのではないか、と。

しかしこれがなかなか難しい。

他人との関わりに心を乱さない落ち着きと賢さは、どのように身につければよいのでしょうか?

私にとって永い間テーマで在り続けたこの問いに、ひとつの解を見出しました。

 

「妻の場合は、どうなんだろう?」と思って聞いてみた。

妻は勝負事が好きです。そして負けず嫌いです。

私にはこの感覚がわかりませんでした。

なんで勝たなきゃ楽しくないのに、負けることが嫌いなのに、勝負が好きなのだろう?

私は勝てる勝負しかしません。なぜなら負けるのが嫌いだから。

勝つから楽しいんであって、負けるなんて屈辱の極み、苦痛でしかない、と思ってきました。

 

妻は、負けるのは悔しいが、『負けるが勝ち(価値)』なんだという考え方だと言いました。

なぜなら、負けるということは、より優れている要素を取り込むチャンスだからだ、というのです。

今の自分が精一杯やったのに負けてしまうような実力のある相手なら、何か自分よりすぐれたポイントがあり、得るものがあるはず。

そのような存在がいることは、自分より優れた秘訣を学べるチャンス。

確かにそこにある改善点が顕在化する瞬間であり、負けることはありがたいことなのだ、と思えるそうです。

流川楓かよ( ^ω^)・・・

出典:『スラムダンク』第29巻より

 

前の自分より少しでも良くなれるというのは、希望そのものです。

「結局、自分だから」と口癖のように妻は言います。

自分より上がいる、それを見ることができる。

その時点で、吸収すればするほど、自分が「今より良くなる」ことは確実です。

他人は変えられないけど、自分なら変えられる。だから、勝負の本質は、実は勝ち負けじゃない。

自分が良くなれるなら、負けは「負け」じゃないということです。

『試合に負けて、勝負に勝つ』

死力を尽くしたうえで「負ける」ということは、さらに上を目指せるという証明でもある。

だから負けを認められるし、強くなれる。

相手との勝ち負けの刹那的な結果に目を曇らせないことが肝要です。それが重要なんじゃない。

自分を改良することに貪欲な在り方「諦めない」ということこそが、真の意味で負けないためには重要です。

勝者であり強者である、とは、こういうことなのではないでしょうか。

 

妻がこの考えに至った背景とは?

妻は末っ子です。上に兄・姉がいます。

基本的に、常に負けまくってきたと言います。

「どうぜ勝てないなら、負けを楽しむしかない。」

そう思った彼女が幼いころから編み出した考え方が、上記のような「負ける」ことへの可能性とワクワクを見出す思考方法に繋がっています。

他者との比較よりも、自己成長に主眼を置いた価値観を体得したのです。

負けたくなくても負ける。それも、何度も負ける。

自分の価値が損なわれる恐れのない、ある意味「負けてもアイデンティティを失わない」競争関係を早くから与えられ、たくさん経験して慣れている。

それが末っ子の強さの秘訣のひとつであると、私は感じました。

 

尊敬する人は?と問われれば、私はマザーテレサや宮本武蔵を挙げます。

皆さんは誰を挙げますか?

 

妻は、「自分より少しでも一つでも優れたものを持つ人は、みな師であり、尊敬の対象だ」と言いました。

正直、その発想はありませんでした。

基本的にほとんどすべての人に「すげーな」と思うそうです。

相手を尊敬している。

だから接する相手も心を開く。

だからいつも気の置けない仲間に囲まれる。

そういうことか、と思いました。

 

私は、すぐに至らない点を見つけて、相手を下に見る、器の小さいところがあります。

それはなぜか?

「たいしたことがない相手だ」と思わなければ、自信のない私は不安に押し潰されそうになるからです。

だから、いつも独りなんです。

それを突き付けられた気がしました。全部、自分の在り方が招いたことだったのだと。

 

自分にないものを持っている人は、脅威ではなく宝なのだと思います。

よりよく生きるための、より高い場所にいくための。

だから皆が味方で、皆のおかげだと感謝できて、今があるのは皆のおかげと、本気で謙遜する心を持ち、あらゆる全てに感謝できる。だから、世界が素晴らしいと思える。

そうなればもはや、世の中は敵だらけの嫌な場所ではなくなる。

私はと言えば、この世は阿鼻叫喚の世界だと思って今まで生きてきましたから、この発想は目からうろこどころではありませんでした。

 

まとめ:「感謝」というのは、義務でも自己欺瞞でもアピールでもなく、自然に湧き上がるものだった

私は、「全ての人に感謝」とか、全く意味がわからん、と思ってきました。

私は、親が感謝してほしそうにしていろいろな要らないものを押し付けてくる環境で「感謝しなきゃいけない」という圧力に不満が言えない時期を長く過ごしてきました。

感謝してしまったら、不満や自分の意見を持つことを許してもらえない、わかってもらえない、受け取ってもらえない、という恐れをもって生きてきました。

つまり、私にとって今まで「感謝」というのは自分以外の誰かのオーダーに対する無条件降伏に似ていて、今までのつらい経験からくる反射からすると「忌避すべき感情」として認識されていました。

 

感謝している人は、本気で感謝しているんだな、と思うと、不思議な感覚です。

「ありがとうありがとうばっか言って頭わいてんのか?」と白い目でみてきた私でしたが、彼らは本気で思っていたのか。「感謝してる私は上等な人間」っていうアピールじゃなかったんだな、と思うと、自分の認知の歪みはとんでもないな、と思います。

特に勝負において「人生を楽しむ」「幸せに過ごす」その方法とは、

①自分の改良を主眼に置いて、相手に負けることを逆に楽しむこと。

②一つでも優れた点があれば相手を尊敬し認め、学べる機会と相手の存在に感謝すること。

その2つでできているのだと、私は発見しました。